2006年コーカサス

屋外広告物研修 コーカサス 2006
(2006.8/1~8/10)

コーカサス3国を訪問

『大型自立広告板が圧巻』  (2006年 月 日「総合報道」紙第1546号掲載文に加筆)

 景観法施行、改正屋外広告物法が2004年6月に公布されて早2年。
屋外広告物・建築物・町並みなど、都市・国土の良好な景観形成のため、先進例の視察研修をしたいと考えていた。
 その一環として、ポスト中近東を見据え、石油天然ガスなど地下資源をめぐる各国(日本を含む)の思惑が交錯し、今後の世界を占うコーカサス3国の屋外広告物実情を直接視察するため、2006年8月1日から10日なで渡航した。


 最初に訪問したアゼルバイジャンは、入国したビナ空港からの出口道路両脇に行灯型内照自立サインが連続して並ぶ(これから日本でもブームになりそうな媒体)。
首都バクー市内は、地下鉄降り口正面に米国・ニューヨークと同型の電飾サイン、また各アヴェニューには広告横断幕が設置されていた。

↑首都バクー 地下鉄入口


 ビル屋上の広告活用は少なく、大小3~4種類に規格化された路上自立サインが目立った。(3面可変ボードもみられた)
 カスピ海西岸イラン行き国道等には、アメリカサイズの大型ブルティンもある。

政府広報板が多く、大統領の写真入りが多い。

↑政府広報版

市町村境界の標識は形、高さ、色彩、文字とも独創を競っており、古都シェキでは、キオスクスタンドと電柱広告に品があった。

↓市町村境界の標識1

 


↑市町村境界の標識2

↑市町村境界の標識3

↑上2点・キオスクスタンド

 

↑トビリシの幹線道路にあり大型自立広告板(道路占用型)
 
 次に訪れたグルジアは、首都トビリシに入る東と北の幹線道路及び南北縦貫道路は道幅も広く、両側または中央分離帯から道路上空を占用する形で張り出した大型自立広告版が連続する。道路占用をかくも大幅に許可する例を他国で見たことがなく、世界の五指に入る景観だと思う。

市内はアゼルバイジャンに比べてビル屋上も活用され、大型の工事現場養生幕(IJP)もあった。

↑グルジア、首都トビリシ。屋上広告


↑首都トビリシ。工事現場養生幕

スターリン出生地の中部ゴリ市では、市庁舎広場(スターリンスクエア)右手建物の屋上に大型LEDが稼働していたのが印象深い。


↑グルジア、ゴリ市。ゴリ市庁舎右建物屋上にLED。


 最後に訪問したアルメニアは、まず「深夜2時までコーヒーショップのテーマパーク」といわれるほど賑わっている首都エレヴァン。それを裏付けるかのごとく各アヴェニューは、道路占用する自立内照サインのオンパレードだった。


↑アルメニア。首都エレヴァン夜景。自立内照サイン。

過酷な歴史を持つ国とは思えない楽しさで、昼間見るとトビリシ(グルジア)と似ていて、環状線や郊外線にもびっしりだ。

↑エレヴァン昼間

↑エレヴァン環状線、郊外線


 首都の都市計画はコーカサス随一。薄型ターポリンによるインクジェットの垂れ幕、以前日本の大学構内にあったようなタテカン、鉄道橋の橋ゲタの広告板。

↑薄型ターポリンによるインクジェットの垂れ幕。

↑日本の大学構内にあったかのようなタテ看。

国鉄エレヴァン駅はイラン・テヘラン行もある主要駅だが、交通広告(駅サインボード)は皆無だ。地下鉄車両内ドア横に小型ステッカーが2枚だけあった(アルメニア文字のため、広告か業務文か読めなかったが・・・)。

↑国鉄エレヴァン駅

 


掲出手法(OOHの形態)を見ると

①各国とも1991年までソ連邦。独立してまだ十数年、社会的には抑制的、統制的な雰囲気でのぼり旗、置き看板(スタンド)、貼り紙などは皆無。ただ、唯一トビリシ(グルジア)で貼り紙を見た。しかし大型自立、大型壁面広告を中心にその景観は非常に優れている。バスシェルター、ストリートファーニチャーなどの媒体も多数見かけた。

↑トビリシ(グルジア)でみた唯一の貼り紙

↑トビリシ(グルジア)バスシェルター。

↑トビリシ。ストリートファーニチャー


②3国共通にいえることは横断幕、直角アーチ、自立張り出しなど道路占用タイプが目立つこと。横断幕はバクー(アゼルバイジャン)、エレヴァン(アルメニア)。直角アーチはトビリシ、ゴリ(グルジア)方面。ブルティンタイプはバクー、トビリシ、エレヴァンなど全首都。こちらタイプの道路占用張り出しサインは、日本では許可にならないと思う。

↓エレヴァン。アーチ。

↑エラヴァン。道路占用タイプタイプが目立つ。

 


③大型壁面広告はバクー(広告主:SONY、SAMSUNGなど)、トビリシ(フィルハーモニア右の建物壁面)、エレヴァン(Yerevan Wine Plant社の壁面)など。 ただし、手書き(描き)の手法はこちらでも少なく、明らかにデジタルプリントが多かった。

↑バクー。大型壁面広告(サムソン、ソニーなど)





 

④LEDは数少ないが大型。バクーの自立「CITY VISION」、トビリシ共和国広場の自立LED、ゴリ市庁舎横屋上など。

 

 

⑤エレヴァンで、アルミフレーム枠ターポリン生地3面体(高さ約2000×幅1300ミリ、各面ともに頭頂部から下へ外部照明)の歩道媒体を2ケ所で見た。他国では見たことのないユニークな媒体。9基ずつ固まって並んでいた。

↑アルミフレーム枠による3面体広告


 このほか、鉄道ガード バクー)、道路欄干(トビリシ共和国広場)、鉄道橋(エレヴァン)の各広告板は日本では禁止だと思う。また、ラッピング車両も結構走っていた。

↑道路欄干(トビリシ共和国広場)

↑鉄道橋(エレヴァン)

↑エレヴァン。ラッピング車両


 なお条例、掲出の流れについては未調査。屋外広告掲出にあたってはすべて官庁届けが必要のようだ。見るからに建築物まがいの媒体ばかりで、無届けらしい小型媒体ものは非常に少ないか、ない。媒体社のネームは主柱またはボード上部に表示されていることが多かった。
 また、広告主は一般に現地語の文字ば多く、知識不足で残念ながらよめないものが多かった。ただ、アメリカや欧州、日本などから締め出された(特に米系)たばこ広告の量が3国とも圧倒的で、携帯電話の広告も目立った。

 最後に現地日本法人企業で見かけたのはパナソニック、キャノン、ソニー、コニカ、ブリジストンタイヤ、東芝、トヨタ、富士フィルム、三菱電機、ニコン、ペンタックスなど。コーカサス語圏で漢字(日本語)のある広告を見るのは大変嬉しかった。

▼自家広告画像集






▼おもしろ画像集

 

コ-カサス三国紀行
コ-カサス三国ってどこ?

 ちょっと面食らいます。行く前の第一イメ-ジは、コーカサスこそ地の果てか、というものだった。
日本からはモスクワ経由でしか入れない。中国からは、空路があるようだが。
ともかくユ-ラシア大陸中央、黒海とカスピ海に東西を囲まれた国々である。北は5000m級の険しいコ-カサス山脈でロシアと接し、南はイラン、トルコの乾燥地帯と接する。
ロシアは伝統的に中近東への道をこの山脈越えに求めてきた。そのためここに住む人々と軋轢があった。一方、南からはペルシア(イラン)、トルコ、のちには西欧英仏がロシアの南下を阻止しょうとしてきた。
東西のシルクロ-ド(絹の道)もここを通る。シルクロ-ドは一本だけではない。
古来、国際政治・軍事・商業のはざまで独立もし、翻弄もされ、古い伝統ある独自の宗教・文化のスタンスを維持してきた国々である。それが、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三共和国である。


(1)カスピ海とイスラムの国、アゼルバイジャン

 アゼルバイジャンといえば、首都バク-。バク-といえばカスピ海に林立した油井。最近でこそ中近東の石油の蔭にかくれてきたが古くからの石油産出地(国)である。

↑夜明けのカスピ海


■2006年8月2日(水)

 実際、首都バク-周辺は、油井が林立。だが稼動していない廃墟の油井は放置、打ち捨てられているらしいのもあり、これにはショック。
 一方で、カスピ海の海中8000mの深さから採掘する巨大石油プラットホ-ム(国営)がこの3年間で6基作られた。
 その石油はロシア経由でなく、グルジア・トルコ経由のパイプライン(BTCパイプライン)によって、2006年7月よりトルコの地中海沿岸の港町ジェイハンから直接西欧に輸出されはじめた。アゼルバイジャンのロシア離れを象徴する事象である。
 経済も上向きで、郊外にはニュ-リッチ層の住宅街が形成され、バク-南部のカスピ海沿岸にはこれらの人々向けらしいプライベ-トビ-チが並ぶ。(Sixov Beach)
 成長率は世界有数。もちろん日本以上とのこと。だが、とにかく規模が小さすぎるとのことだ。
カスピ海の水は塩辛くはなかった
 カスピ海は巨大である。どのくらい巨大であるか実感できない。もちろん対岸など見えない。対岸はイランや、カザフスタン共和国や、トルクメニスタン共和国のはずであるが。
ここから流れ出る河川はなく、面積で世界最大の湖。世界地図で、西からカスピ海まではヨ-ロッパ、カスピ海から東がアジアだということだ。するとアゼルバイジャンはヨ-ロッパ最東国なのである。
 カスピ海にも嵐はあるのだろう。
だが、バク-の沖合い、せいぜい3km程度までのクル-ズでは、波は穏やかである。水はきれいとはいえないし、石油の油膜がいたるところに浮いている。
 海から見るバク-は、古い油井群(想像していたほど高くない)、石作りの家、明らかにソ連時代風のビル、またそれ以後の最近のビル、その背後の稜線のなだらかな丘、丘の上の油井、などよって特徴づけられる。
 丘の中腹にはかって、この国を牛耳ったソ連共産党指導者の、キ-ロフの巨大な像が望まれたはずだ。(いまはない。)

↑林立する油井

↑最新の油田


 かわってそこには、1990年、ソ連からの独立の犠牲者や、1994年(アルメニアとの)ナゴルノ・カラバフ戦争の犠牲者を祀る「殉教者の小道」がある。石碑には生前の故人の肖像写真が刻まれ、整備されたこのおごそかな道を歩くと、この国の新しい歴史、あたらしい愛国心をかいま見した気がした。
 この丘の下に、旧市街がある。
 14~15世紀のこの地の支配者、シルバン・シャフ・ハ-ン宮殿。
 キャラバン隊(隊商)の宿泊所たるキャラバン・サライ。
 ハマム(温浴場)。
 高さ28mの石造りの要塞(乙女の望楼)。ガイドなしには迷路同然というが、ガイド
のあとをいけば難なく旧市街をでることがで
きた。
 バク-の東、ビナ国際空港の近くにゾロアスタ-教の「アテシュギャ-フ」拝火教寺院が残る。
 ゾロアスタ-教は、紀元前7世紀ころゾロアスタ-を教祖としてうまれた、火を崇拝する宗教である。古代ペルシアの国教にもなったが、イスラム教の登場によってすたれた。寺院には地表から永遠に火が燃える。この国は天然ガスも豊富で、地中から自然噴火する天然ガスの場所に寺院が作られた。ご神体は天然ガスというわけである。

■8月3日(木)

 マンマンデイというバク-の北郊外でも寺院こそないが、地表の裂け目から火が燃えさかっている。これも天然ガスに自然着火した火で温度は8000℃とか。
 さすがに現在ゾロアスタ-教徒は皆無らしい。この寺院はインドの信者によって営まれている。アルゼバイジャンの国民はイスラム教徒が大半。シ-ア派7割、スンニ派3割の構成。中近東諸国に比し両派とも穏健だとのことだ。

↑ゾロアスター寺院

↑天然ガスの自然噴出


 バク-から陸路、北西に向かう。
 緑なす森林はない。
草原、荒野、瓦礫地、潅木帯が交互にくりかえされる乾燥した半ステップ性気候。牛の大群が道路をふさぐ。車両は奇妙な音のクラクションを鳴らす。それでもよけない。
 マラザという町の郊外、標高770mのデリババ砦。
 700年前までこの国の首都だったシェマハという町にある珍しいモスク、「金曜日のモスク」。なぜ珍しいかというと、モスクにつきもものミナレット(塔)がない。
 「シルバンゲル・レストラ-ニ」というレストランで昼食。ゲルとは湖の意味なので、近くに「シルバン」湖という湖があるのだろう。
 この道もシルクロ-ドの一本だ。

↑15.マラザのデリババ 砦

↑マラザのデリババ砦

シェキ。
 乾燥したステップ地帯に、緑なす水量豊富を思わせる町が忽然として現れた。それがシェキという町だ。命の源泉はコーカサス山脈からかけおりてくる河川である。
半砂漠の地形のバク-周辺から北西へ約200km、対照的な緑なす地形である。
くるみの木、ポプラ。
町並み、山並みはなにか秩父を思わせる。
「真実、世界遺産になってもよいほどにふさわしい町」だとのこと。世界遺産の指定を世界中が欲しがる風潮のなかで、この町はそれをほしがらないとのこと。

 

↑シェキ。市内路上


1761年に建てられた「ハンの宮殿」がある。
キャラヴァン・サライに泊まるはずだったが、ドイツの映画撮影隊がおしかけて我々はシェキには泊まれず、80kmも東に引き返したガバラという町の山中のホテルに泊まった。
廊下の扉を4歳くらいと6歳くらいの現地の子供達にゆずると、譲られたことがないのか、または驚いたのか、彼らは夕方も夜も次の朝も、私に嬉々としてまといついて離れない。もう一回やってみてくれ、というわけである。
 マテイン・シャリ-ロフという20台後半らしい青年は、言葉を教えてくれた。
 サラム  こんにちは。
 サロ-ル  さようなら。(コブスタン遺跡の黒髪の青年はサロ-ガとおしえてくれたが、これは方言か?)
 サバ-ヌス・ヘイユ-ジュ  
 おはようございます。
 オ-シャムヌス・ヘイユ-ジュ
      (意味忘れてしまった。)
 テシェクレ・デイレム
 ありがとうございます。
 
■8月4日(金)

 ここのホテルの裏、両側からおりる山並みを額縁にして、白雪を冠った東コ-カサスの頂上の一つが見えた。 またシェキの町に行く。

↑コーカサス山脈


 1932年創立の絹織物工場がある。従業員150人、うち女性従業員が90%。5Kmほど郊外の村からきている。織機はロシア製、150台。桑は近隣で生育している。生糸にして織られた絹布は、トルコ、中近東のドバイに輸出。
 絹織物。やはり、ここは絹の道、シルク・ロ-ドなのだ。そして、古代アルメニアの首都。それは、紀元前のこと。日本の歴史より
古いのである。
 シェキをあとにし、グルジアとの国境に向かう。
 また乾燥した半ステップの景色にもどる。
 国境まで40kmのザガタラという町で、日本へケイタイ電話をかけた。よく通じる。Nokiaだ。
 バラケンという町をすぎ、14時、国境検問所に入り、14時33分、グルジア側の検問所に入った。

↑筆者中央


コ-カサス紀行
(2)ワインと古都とキリスト教のグルジア

 グルジアといえば、ワイン。いまはそう言える。
だが、訪れる前は、若い頃はスタ-リン(ソ連共産党書記長)の国。黒海にバツ-ミ、ポチ、という港がある国。最近では大相撲・幕内黒海関の国。黒海関の両親がグルジアで衛星テレビで観戦していると聞いて、そんなに進んでいるの?というイメ-ジであった。
 だが、訪れたあとのいまは、カヘテイ地方のワインの国。美しい首都トビリシの国。世界で2番目に古いキリスト教の国。と、すらすら言えるようになった。 まずは、ワインである。

 

■2006年8月4日(金)

 グルジア東部で国境を越えると、アゼルバイジャン時間より時差を1時間後れにする。
 アゼルバイジャンの乾燥地帯(ステップ気候)から一転、葡萄畑のみどりの多い景色にかわった。そこは、世界的に有名なグルジアワインの産地である。キンズマラウリ、ツイナンダリ、ピロスマニ、………。
まず、ガウアジという村の農家の葡萄棚の庭の下で昼食。
ガマルジョバ  こんにちは。
マドロプト   ありがとう。
ナフヴァンデイス  さようなら。



 主人は40歳くらいの眼がまんまる、いかついが笑うと人懐こい笑顔になるアヴト・ククトシュヴィリさん。これまた、まんまる両眼の3歳のお嬢ちゃん、ETOちゃん。
 ちなみに、グルジア語では、住所を書くとき日本語と同じように、県、郡(市)、町、字、……の順序で書くようだ。
 Kakheti,Kuareli region,Village Gauazi………のように。英語などと逆である。
 
 さて、ワイナリ-(ワイン工場)である。
 それは、シャヴァシャヴァデズ家という大邸宅の中にあった。この家は由緒があり、18世紀の当主ガルセバンはロシア・エカテリン女帝の息子にしてグルジア初のロシア滞在大使。その息子アレクザンダ-は反ツア-リ活動家にして最初のグルジア・ロマン派詩人の一人。詩人レ-ルモントフも訪れたことがある。その息子デイヴイドは、蛮族に23人の子女を誘拐され、その身代金調達のために屋敷を抵当にいれ人質をもどしたが、抵当は流れ、ロシア皇帝アレクサンダ-3世の所有となった。


いまは博物館として公開、ホテルも3つある。庭園はイギリス風(なにがイギリス風かよくわからないが)で、古色蒼然たる樹木がひろがる。大きなワイナリ-はその一画にあった。
 ワインセラ-に入ると、ひんやり暗く、眼が慣れない。懐中電灯をあてると、白いカビの泡を噴いたワインのたるが整然と、奥へ奥へとやすんでいる。一番古いのは、1814年製だそうだ。
さっそく宴会場で赤ワインを試飲。
 ガウマルジョ-ス。(乾パーイ)
 おいしい-。あま-い。
 なんというブランドかな。
 ツイナンダリ赤。 おお。
「キンズマラウリはあるのですか?」
ない? 時期がちがうのかな?
だが、これはとんだ大失態だった。キンズマラウリはここではなく、ちがう町の(クヴァレリという町の)別の経営で作られていることを帰国後、知った。大変失礼な質問をしてしまったものだ。
 たしかにここは大ワイナリ-ではあった。
 だが、この地方には何百種もの異なったぶどうが栽培され、村ごと、家ごとに異なった
ブランドをもっている。
ワインの歴史は西欧フランス等よりこちらの方が長い。
 

■8月5日(土)
 そのカヘテイ地方の中心地、テラヴィ。
 ゲストハウスの女将さんと言葉の交換。
 メコバリ  友達
 ゴケバシュリ  大学=university(ここには大学がある。)
 クデイ   帽子
 マイカ  シャツ
 シャルバリ-  ズボン
 Me japoneli var. 私は日本人です。
   (アゼルでは、ヤポニエ、と言った)
 

 
 この地を治めたカヘテイア王国のイラ-クリ2世のBatonistsikhe (バトニスツイヘ)要塞と騎馬像もみた。この地方には、たくさんの修道院と古代からの町々がひしめいている。グルジアにキリスト教をもたらした聖ニノの埋葬地も近い。
 バスが、トビリシに入る手前の郊外で聖ニノ教会が見えるといわれたが見落としてしまった。しかしそれは古都ムツヘタへたどりつけば、十分穴埋めされた。


 町に入るまえ、右側の山上に城砦風の教会が見える。「シュヴァリ聖堂」である。
こここそ、4世紀、トルコのカッパドキアから布教にきた聖ニノが、十字架を掲げた場所といわれる。建物は6世紀に建てられ、グルジア人にとっては神聖なる場所中の神聖なる場所である。石造り、素朴、飾りの少ない、世界遺産である。

↑シヴァリ聖堂

 この山上からはムツヘタの町と、二つの河川の合流がよく見える。コ-カサスから流れでた川と、トルコ・アナトリア高原からきた川である。合流してムツクヴァリ河となり、トビリシをへて、アゼルバイジャン・カスピ海にそそいで行く。
ムツヘタは古い町だ。町並みはユネスコの世界遺産である。

↑ジュヴァリ教会から旧都ムツヘタを見る


紀元前4世紀から紀元後5世紀まで古代イベリア王国(現在のグルジア)の首都にして、キリストの血染めの聖衣が遠くここに埋められたという伝説があった。その地の上に、聖ニノが4世紀、「スヴェテイ・ツホヴェリ大聖堂」を建てた。聖ニノによって国王はキリスト教に改宗し、世界史史上2番目のキリスト教国となった。

↑スヴェティ・ツホヴェリ大聖堂


 現在の建物は11世紀に再建されたものだが、グルジア最古の教会にして、歴代イベリア国王の埋葬地である。
中庭の城壁の上に、遠く、さきのジュヴァリ教会を望める。
グルジアはカトリックやギリシア正教やプロテスタントが生まれるまえの、キリスト教の国である。ソ連初代共産党書記長、ヨシフ・スタ-リンは、若いころ、神学学校の生徒だったが、敬虔なるグルジア人だったればこそか。
そのスタ-リンの生地、中部グルジアのゴリ市まで足を延ばす。ムツヘタから西へ60km、人口は4万6,680人。
 スタ-リン博物館、入場料50セント(米ドル換算)。
内外に強権、恐怖政治を展開したが、失脚して死んだのではないので、地元では英雄である。ネ-ム入りの野球帽まで売られている。

↑スターリン博物館

↑グルジア軍用道路

 粗末な生家はここに移築され天蓋がある。飛行機嫌いで、移動手段は専用の軍用列車でおこない、その列車が展示されている。ヤルタ会談で、英国のチャ-チル首相にふるまい、チャ-チル首相が絶賛したワインが、さきに述べた、キンズマラウリ、とのことだ。
 スタ-リン博物館の庭先には、野良猫の親子がいた。


 そのスタ-リンがゴリを出ての初めての世界、それが、トビリシである。
 古くはテイフリスとよばれ、マルコ・ポ-ロが「東方見聞録」で「絵に描いたように美しい」と書いた。ムツクヴァリ河の狭い両岸に細長く発展、ここはヨ-ロッパのどこかの街のような錯覚をおぼえる。
キリスト教国教化のあと侵入したペルシアを駆逐したワフタング・ゴルガサリ国王が、5世紀後半、首都を先のムツヘタからこの地トビリシに移した。

↑トビリシの朝

↑右・トビリシ市内ゴミ収集車

 河の左岸、メテヒ教会に行くと、この国王の騎馬像に出会う。騎馬像はムツクヴァリ河の断崖をへだてて、対岸の右岸を見つめる。対岸は旧市街で、ユダヤ教のシナゴ-グ、イスラム教のモスク、ロシア正教の教会、グルジア正教の教会が混在する。ハマム(温浴場)もみえる。
 さらに眼を上に転ずると、この街トビリシを長きにわたり守ってきたナリカラ要塞の威容がせまる。
 

 なにせこの地は、東西交易、シルクロードの一部で、7世紀から12世紀までイスラム
に侵入され属国化。1121年より約100年間、独立を取り戻し、トビリシの黄金時代をきずくも、13世紀以降、モンゴル、チム-ル、17,18世紀にはペルシアが侵入。ナリカラ要塞は、新しい支配者にとっても必要な要塞であった。
 今日見る広い街路、図書館、学校、劇場などは19世紀はじめロシアが到着してからのことである。しかしロシアはグルジアを尊重しない。
そのごソ連邦へ編入され(1920年)、社会主義化される。しかしいち早く独立し(1991年)、内戦、大地震(2003年)により、市内には廃墟ビルも多いが、コーカサスの真珠のような町は維持されてきた。
 

↑メテイヒ教会

 

コ-カサス三国紀行
(3)乾燥した大陸性気候、原始キリスト教に近い国、アルメニア。

■2006年8月6日(日)
 昼12:40、デベダ河の国境で、グルジアからアルメニアに入る。
一転して、急峻な、乾燥した地形になった。
 夏暑く、冬は極寒だろうことが容易に想像できる。崩れ落ちそうな山肌、深い谷。
赤茶けた銅山、製銅所のある廃墟のような町アラヴェルデイ。
 そんな山中の渓谷の縁に、976年製作の「アフパット修道院」がある。私にとってはじめて見るアルメニア教会である。

↑アラヴェルデイ銅山

↑アフパットと修道院


 険しいところに作られるのは信仰のなせるわざか。世界遺産。
礼拝堂の窓は東にのみあいている。フレスコ画がある。図書館では本は石の床下に収納する(?隠す)。学びの場所、ユニバ-シテイ・コリド-。そこには十字架を刻みこんだタテ2mくらい、ヨコ1.8mくらいの石(カチュカル)がたくさんたてかけてある。ひとつとして、同じ模様はないと。低く刻まれた底面が宇宙、十字架が地球、まわりの縁が水、へりの下が火、と宇宙の四要素をふくむ。
修道士(monk)は独身の僧侶のことで、歴史上おおく殺された。これに対し妻帯の僧侶はpriestとよばれ殺害は少なかったとか。(英語の場合)
 周辺の深い崩れやすい、深い渓谷の対岸の上になだらかな草原がひろがり、集落がかたまる。渓谷から水道のパイプが何百mもかけのぼっている。きびしい生活条件だ。信仰が必要なことがよくわかるような気がする。
 笛を使ったアルメニア民族音楽がバスの中に流れる。一瞬、南米の民族音楽かのようだ。
 ブラック・チャ-チが有名とかいうロリの町。
 遠くのレルモントヴォ村。少女が道路で人参を売っている。二束1(us)ドル。この村は、1812年、ロシアによってフィンランド近くから強制移住させられたロシア民族の一部マラカン人の村だ。キリスト教徒ではない。
 スパタン村、デリジャン町。このあたりは避暑地で、ショスタコヴィッチなどが滞在、映画製作所もある。
セヴァン湖。標高1900m。南米チチカカ湖に次ぐ高さ。

 

 

↑セバン湖


 その深い紺色の水面により「コーカサスの真珠」といわれる。首都エレヴァンの北60 kmで、国民の憩いの場所。同行した仲間が日本から釣り糸持参、みごと魚を釣り上げた。
 湖に突き出た半島には、二つの修道院、大統領別荘がある。湖を撮影したカメラのフラッシュに、遠くから気づいた大統領別荘の警備兵が駆けつけてくる。銃か何かのスコ-プではないかというわけだ。緊張している。
そのさわぎにこちらが緊張してしまった。小さい国でも国家のトップレベルである。後日、人口380万人のこのような小国でも、首都上空にジェット戦闘機を二機、編隊をくんで金属音とともに低空飛行させていた。
 夕暮れのセヴァン湖は、刻々、まばゆいばかりの紺碧色からダ-クブル-色まで、周辺の山々の千のひだの陰影の変化とともに表情を変える。日が西の山にかくれると後光がさした。
 

首都エレヴァン。
一転して華やかな都会。過酷な歴史をもつ国だが、「午前2時までコ-ヒ-・ショップのテ-マパ-ク」といわれるほどにぎわう。
 バリルイス  お早う
 バリオ-ジュ  こんにちは
 バリイエレコ   こんばんは
 バリギシェ-ジュ  おやすみ
 シュノハカレム  ありがとう
 カントレム  どういたしまして
 ハジョグジュン  さよなら。

■8月7日(月)~8月9日(水)

 首都エレヴァンから南に30km、ホルヴィラップ修道院。
ここは、ノアの箱舟伝説のある現トルコ領のアララット山のまん前である。アララット山は標高5105m。富士山の宝永山にあたる小アララット山も3925mである。
 ここからアララット山のほうに約1km、そこにある河(アラクス河)がトルコとの国境で、トルコ内にある基地の見張り塔が見える。が、なんとそこ(バシュ村)にはNATO軍(米軍)が駐留しており、その銃口は、こちらアルメニアを向いているとのこと。トルコはイスラム教、アルメニアはキリスト教国であるにもかかわらずである。アルメニアは、アゼルバイジャン、グルジアよりは今はロシアとの提携が深い。
さてホルヴィラップ修道院である。

↑アララット山、ホルヴィラップ修道院
 

ここは、アルメニア正教の巡礼地の一つである。
アルメニアにキリスト教をもたらそうとしたグレゴリ-啓蒙者が、国王トリダット三世によってここの地下60mの井戸の底に12年間、とじこめられた。その後国王の狂気をなおしたことによって、またロ-マの進軍を防ぐためキリスト教徒を必要としたことから、グレゴリ-はゆるされ、紀元301年、国王はキリスト教に改宗し、アルメニアは、ローマ帝国にさきがけること75年、世界最初のキリスト教国になった。
グレゴリ-はこのあと、エチミジアン大聖堂を建て、グルジアにも布教にでかける。
グレゴリ-はどこからきたか?
 トルコのカッパドキアからである。
 のちのグルジアの聖ニノもカッパドキアからきた。当時カッパドキアはなんだったか、新しい興味がわいてくる。
 またすでにキリスト教はその発生のときから、12使徒のうちの二人、バルトロマイとタダイにより、アルメニアに入っていたそうである。
 アルメニア教会は、ロ-マカトリック、ギリシャ正教ともちがう独自の道、原始キリスト教に近い道を歩んできた。クリスマスもない。
 エチミアジン大聖堂は、首都エレヴァンの西10kmにあるアルメニア教会の総本山である。
聖グレゴリ-によって4世紀初頭、最初の基礎が築かれ、いまある四つの塔(キュ-ポラ)は、5世紀、7世紀から17世紀にわたって付け加えられた。キリストを磔刑にした槍(Holly Spear)が保存されているという。
 2001年ロ-マ法王ヨハネス・パウロ2世の歴史的訪問の際のモニュメントが、南正門にある。
アルメニア正教の座主はカトリコスとよばれ、その居住空間館は大聖堂の裏手にある。その左横の館は一般には入れないマノウジャン・ミュ-ジアム(旧館博物館)であるが、特別入館できた。
二階建てのこの館には、歴代カトリコスや聖人の肖像画、衣服、杖、王冠、世界中から贈られてきた家具、貨幣、手紙類を見ることができた。イタリアから運んだ大理石がふんだんに使われ、カナダの大篤志家(信徒)アレック・マヌキアン氏の写真が飾られている。
 エチミアジン大聖堂の手前2kmのところにリプシマ教会がある。
 ここも巡礼の地である。
 リプシマというローマ帝国・デイオクレテイアヌス帝の迫害を逃れてきたキリスト教徒の女性が、改宗前のアルメニア国王との結婚をこばみ殺害された地に、約300年後の紀元618年に教会が建てられた。ここで、アルメニアのミサ曲のCDを2枚買った。
 ゲガルド修道院。
 エレヴァンの東35kmにある洞窟修道院である。ここも険しい渓谷の底にある。4世紀から7世紀につくられた。カタコンベでもある。
 隠者がここで思索し祈ったのであろう。いくつかの部屋が洞窟の中にくりぬかれ繋がり、天井うらというか、洞窟内ロフトもあり、光はどこからくるかわからないほど僅かしかたどりつかない。近くできこえている声もどこで発せられているか? 重々しい祈りのミサはどこで歌われているか? 

↑ガルニ神殿


 
ガルニ神殿。
 ギリシャ・ロ-マ建築風だ。三つの文明が刻まれているという。この一帯は新石器時代からの居住あとがあり、紀元前8世紀の楔(くさび)文字が考古学者によって発見されている。それにしても、断崖絶壁のようなところによくこうしたものを建築するものだ。
思索と信仰がなせるわざだ。
 アルメニアの農家をおとずれた。エチミジアンの西10kmくらいの、「朝日グラフ」にも掲載されたアルタシャン村のサジュヴァさん家である。彼は1956生れ、会社につとめたあと独立、1haの農地にスイカ、キュ-リ、トマト、あんずジュ-ス、さくらんぼ、を栽培している。収穫物はエレヴァンの農産物市場に50%、仲買商人に50%の割合で販売し、50羽の鶏も飼っている。これは卵を商品として販売するため。住宅も自分で建築した。長男は1985年生まれ、父親を尊敬している。

 ↑アルメニアの農村(アスタシャン村)

 さて、エレヴァン市内にもどる。
エレヴァン市はバク-やトビリシの旧市街のような迷路ではない。共和国広場~オペラハウス広場~カスケ-ドをつらぬく直線と、各放射線状の街路とをくみあわせたコーカサス随一の都市計画された都市である。1924年、アレクザンダ-・ツマニアンが原型基本プランを描いた。

 

↑エレヴァン共和国広場


 アルメニアといえばコニャック(ブランデイ-)である。20世紀前半、この国の将来の産業をみすえた先覚者がフランス、モンペリエにわたり、勉強して、この国にもちかえり、みごと成功させた。
市内を散策。商店の人が「日本人は魚を食べるって本当か?」、「行ったことはないが新幹線は知ってる」と話した。「愛知博」の旗もどういうわけか、あった。

↑エレヴァン・コニャック工場


アルメニアは、紀元前6世紀より建国された古い歴史をもつ。だが、王国をきずく一方、ペルシア、イスラム、トルコなど他民族の侵略もうけ、過酷な歴史がある。しかしそれを切りぬけるたくましさも国民性となった。アルメニア商人や、世界に散在する芸術家、音楽家、政治家などにそれを見る。
アルメニアは、エジプト、メソポタミア、インド、中国に次ぐ歴史の宝庫であることを発見した。