2017年中国・新疆ウイグル自治区

  今回の旅行目的は、中国の西の辺境トルファン、カシュガルを中心に、20世紀初頭の探検家スヴェン・ヘデインや日本の大谷探検隊がたどったタクラマカン砂漠周辺の自然や遺跡をめぐってみること、および屋外広告物の視察・研修をすること、であった。

  コ-スは、羽田→(空路・北京→ウルムチ)→トルファン→クチャ→(タクラマカン砂漠縦断)→ニヤ→ホ-タン→カシュガル→(パミ-ル高原・カラクル湖往復)→カシュガル→ウルムチ→(空路・成都→)成田、の11日間の小旅行であった。 
 旅行手配は、ファイヴ・スタ-旅行社に依頼した。車のドライバ-は中国人。ガイドは現地ウイグル人の日本語ガイドの個人旅行(私と妻)であった。 
 悠久の歴史を経験するとともに、ウイグル人が中国政府によっておかれている深刻な環境を目の当たりにした。

 

目次
Ⅰ. 日程  
Ⅱ. 屋外広告物視察、研修 (『総合報道』紙11月25日号掲載文に加筆)        


 Ⅰ、日程 

9月10日(日) 
羽田空港発8:55の中国国際航空CA184便にて、11:35北京空港第3タ-ミナル到着。
16:55発中国国際航空CA1291便に乗り換えて、ウルムチ空港に20:16、到着。 
なお、中国時間(北京時間)は日本時間より1時間遅れである。空港には、これから10日間、お世話になるウイグル人の日本語ガイドの、スライマン氏がでむかえてくれた。 彼はイスラム教徒である。挨拶は、アッサラ-ム・アレイクム」「アレイクム・サラ-ム」である。
 Taxiにて、21:26,金谷大飯店(JIN GU HOTEL、ウルムチ市天山区新華北路258号)に投宿。ROOM15F。バスル-ムのバスタブの栓がなくバス・タブにお湯がたまらなかった。(ウルムチ泊)  

9月11日(月)
  朝食は26階でバイキング。内地人(漢人)の団体がいて、その喧しいこと。
9:00、ホテル発。専用の白のセダンは、4WDの中国車(吉利汽車の「博越」)。運転手は龍(ロン)さんである(漢人)。本日の行動は約180Km南東のトルファンへ行き、火焰山、ベゼクリク千仏洞、アスタ-ナ古墳、高昌古城の視察観光である。
ホテルを出ると間もなく紅山公園を望む。

     【 宝山公園の塔 】 
  早速、高速312号線に乗り入れ南下する。

                                                  この道路は、上海を起点に、西安、嘉谷関、ハミ、トルファン、ここウルムチを通過し、北部新疆のイリまで延長3527km、片側2車線の、中国共産党の「一路一帯」の経済的・軍事的道路である。帰国後の12月のNHKテレビによれば、終点はイリではなく、カザフスタンとの国境のホルゴスで、延長4400Kmとのこと。上海側は、東シナ海の連運港が起点とのことだ。交通量はフルに車で車線が溢れているわけではなく、地方道路の交通量といったところだが、いざというときは、この道路の広さがものをいいそうである。
 途中、おびただしい数の風力発電がある。ここトルファン~ウルムチ間は風のとうり道で風が強い。乾燥しきった山岳地帯や塩湖地帯を走った。険しい峠を越えると、トルファン盆地である。

       【 一路、トルファンへ。】

10:28、トルファン出口で一般道におりる。 一般道を東に走る。緑が多い。

  左手に赤茶けった奇っ怪な色の山が続くようになる。これが「火焰山」で、かの『西遊記』にでてくる東西100kmの山である。 

        【 火焰山 】
  火焰山のふもとに、観光バスが止まっている公園があった。孫悟空像がみえた。「習近平主席が開発視察に来たとき、小用をたしたところが今の公園である。」とウイグル人のガイドが言った。我々は笑った。いいジョ-クである。かれはウイグル人として、せいいっぱい、皮肉をきかせて言ったのである。      

 この公園こ銀色の大温度計が立っているのが一瞬見えた。この温度計によると、今夏の最高温度は、7月22日の58℃だった。一方、ドライバ-のロンさんによれば、車の温度計が52℃をさしたことがあるが、そのとき、大温度計の地表温度は80℃だったとのこと。世界有数の高温地域である。実際いまも暑い。トルファン盆地は世界第二位の海抜マイナス地(マイナス154m)である。(一位は死海)
 周りの地形は、北アメリカ大陸中西部の沙漠地帯や、アラビア半島・イエ-メンのハドラマウト地方によく似た灼熱のテ-ブルマウンテンや、乾燥で木一本ない、荒涼たる土漠地形である。

 12:50、そんななか、火焰山の北側にある木頭溝(ムルトウク)という渓谷に回り込み、その崖に82の石窟を持つ、ベゼクリク千仏洞に到着した。今回の紀行の最大の目的地のひとつである。じっくり見るつもりだ。

    【 ベゼクリク駐車場より北側の景色を撮る 】

       【 ベゼクリク千仏洞 】

 

  82ある石窟の内、一般公開されている石窟は、意外に少なく、第16,17,20,27,31,33,38,の7窟だけ。撮影は禁止だった。                                     洞窟内のおもな壁画は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツ隊(ル・コック)、イギリス隊(スタイン)、日本隊(大谷)によってはぎとられ、持ち去られている。                    第20窟では、ドイツ隊によって持ち去られた「ウイグル王子像」は「ここにあった」と示す掲示がある。現在はベルリン・インド美術館所蔵。                                 第31窟では、中心柱の右手の壁に鮮明な壁画があった。これは復元されたものか?           第33窟では、画集で見たことのある「16ケ国王子挙哀図」が現存しており、目も削り取られておらず、逆におどろいた。

      【 第33窟  「16ケ国王子挙哀図」 】
  この写真は、翌日トルファン博物館で撮ったものである。
  ここの後室に涅槃像があった。 
  大谷探検隊将来品で、東京国立博物館・東洋館にある「衆人奏楽図」もこの第33窟にあったことを帰国後、知った。次の画像がそれである。 

【 第33窟 「衆人奏楽図」 (東京国立博物館発行・大谷探検隊将来品」p23より。】    

  大谷・第二次隊の野村栄三郎が、1908年(明治41年)11月~12月にかけてここへ来た。11月30日には人足30人を雇う。 「仏画はたいてい損傷していた。」「ヨ-ロッパ人は最良のものを採集」し、そうでないものには損傷を加えた、と住民は言っていた。」 それでも12月1日、壁画7枚を切り取る。その1枚が次の「持盤菩薩像」である。また野村は仏躯7体を得た。(「大谷紀行」より)

    【 第33窟 「持盤菩薩像」( 同上 )】  

  【第34窟(非公開)】の前で古老がラワップという弦楽器を爪弾いていた。
美穂子さんが 誘われるままにて弾いてみた。
 かれは、書物も売っており、こちらへ来て最初の書物を買う。『トルファン・ベゼクリク石窟壁画本』(←意訳。日本語でなく、中国語・英語。78元)

 最後の第38窟では、金の仏像が安置されていたという壁龕(へきがん)があった。高さ78cmの本体は、ウルムチの博物館におさめられている。

【 第38窟の前で撮影  背景の丸屋根が、左から20,17,16窟である。】
 丸屋根は当時あたらしい形式であったらしい。
 公開されている石窟はこれでおわりだ。入り口に戻るべく、上記写真の奥の方へ戻り、閉鎖されている第15窟の角を左へのぼるのだが、この第15窟こそ、そのなかにあって、各国(日本、韓国、インド、ロシア、ドイツ)に分散した「招願図」があった石窟である。これらは、2005年、龍谷大学とNHKにより、コンピュ-タ-・グラフィックにより復元され、現在、京都市の龍谷大学龍谷ミュ-ジアムに常設展示されているとのことである。これは、今後見にゆくつもりである。ドイツ隊が持ち帰った「招願 」は、第二次大戦中、ベルリン空襲により消失下が龍谷大学で復元されたことになる。----------------------------------------------------------------------------------------------------------
  後日談。後日記録。
  それから約2年7ケ月後の2019年4月20日(日)、私はようやくその龍谷ミュ-ジアムを訪れ、その「招願図」をみてきた。そもそも全部で15面あった図のうち、9面が再現されている。

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 ベゼクリク千仏洞について、まとめる。
 掘削されはじめたのは、中国・南北朝時代(5~6世紀)で元代(14世紀)まで続く。
 唐時代の高昌ウイグル時代(9~11世紀)が最盛期で、ウイグル民族の財産と言って良いであろう。
 石窟の屋根(窟頂)がド-ム型である(16、17、20窟)のは仏教建築の新形式とのこと。
 また、ここは、世界でも数少ないマニ教芸術品(マニ教石窟)を保存しているというが、それはどこにあるかわからず、残念だった。マニ教とは時々耳にする。ウイグル人が仏教以前に信仰していた宗教である。
 1982年、中国共産党政府の全国重点文物保護単位(日本の重要文化財に相当)に指定される。 
 13:55 ベゼクリク千仏洞をあとにする。たっぷり見た。

14:01 アスタ-ナ古墳群 到着。
 ベゼクリクからトルファンに向かう途中、「勝金口」という三叉路を左にまがり南下すると、周りはゴゼ攤(ゴビ攤のこと?)である。この左右が古墳群になり、これがアスタ-ナ古墳である。左側の古墳群(アスタ-ナ村側)に入る。 右側はカラホ-ジャ村側である。アスタ-ナとはウイグル語で「首府」の意味。漢名、三堡。カラホ-ジャとは、ウイグル人の名前で、漢名、ニ堡。
 この墓地は、「国際的な『トルファン学』の資料庫である。」(『西域國寶録』p.34、2000年4月、ウルムチ市「新疆人民出版社」) 

発掘は1959年に始まる。普唐時代の墳墓500強。 (「アサヒグラフ」では、1000。) 
    北涼国の武宣王、
    高昌郡時代の太守・沮渠封載、
    麹氏高昌国時代の将軍・張雄、
    唐西州時代の北庭副都護・高耀、
など王族、貴族の埋葬地であることがわかる。

 三つの古墳に入った。傾斜路をたどると地下となる。地下の両側にも室があり、墓室はその奥である。奥の壁に壁画があったのもある。夫婦合葬墓もあったとのことで、出土品は、トルファンやウルムチの美術館で見られるとのこと。
 地上にでて、造形物(下記写真)を眺める。規(コンパス)を持った左の人物と、矩(さしがね)を持つ右側の人物が肩をくみ向き合い、下半身は大蛇の鱗がからみあって踊っているかのような像である。これがアスタ-ナ古墳やトルファン文化を語るとき、よく引き合いにだされる。 

  ころで、明治時代の大谷探検隊はここにも来ている。                         第3次隊の橘が、1912年3~4月、5日間、世界で最初に発掘をはじめるが村長が来て講義すると発掘を中止した。同じく第三次隊吉川は、同年9月に来ている。
 ここからの招来品5点が東京国立博物館に招来されている。高坏(たかつき)、藍色の壺、墓表、武人俑(よう」、男女一対の頭部俑、各一個。大谷招来品ではないが一服の「樹下人物像」も所蔵されているが、そのいわれは『東京国立博物館セレクション シルクロ-ドの美術-大谷探検隊招来品』には書かれていない。この図と対幅をなす図が、熱海MOA博物館にある。(大谷紀行P.197、230)
  また、かのスヴェン・ヘデインは、1934年2月13ころ、ここアスタ-ナに来た。(Suven Heddin 第14巻、白水社)』

  【 男性・女性俑頭部 8c 】  
  15:00,アスタ-ナ古墳をあとにした。

  15:05~16:25、スライマンさんの実兄の民家に寄り休憩をかねて昼食。ウイグル人の家庭にはいるのは初めてである。兄上は消防士とのことで留守で、その夫人と初老の夫人に日本式にお辞儀をしたが、お辞儀はかえって来ず笑顔だけだった。土間から一段たかく、日本の和室風の、靴をぬいで歩きすわる広間があり、座卓の上にウイグルの食事が用意されていた。ナン、小麦粉の揚げた物(グルグル巻になっている)、くるみ、水餃子、スイカ、お茶。暑さに閉口して、食欲がわかなかった。

     【 スライマンさんの実兄宅にて。】                                                  
 16:37~17:45 高昌故城

      【 高昌故城 入り口 】  
  車をおりて200m先の入り口建物に向かう。玄奘三蔵法師(Monk Xuanzang  602~664年)の像が立っている。

 


玄奘はまだ若く、前方をりりしく見据え、左手首を前方にたて、右手で獨鈷杖を漕ぎ、おおまたで、風をきってこちらへむかってくる。背負子をかつぎぼうしを縛り付け、誠にすがすがしい像である。私の曹洞宗僧侶の叔父はその息子に彼の名(三蔵)をつけた。彼も曹洞宗の僧侶になった。

入り口を入り、カ-トに乗る。カ-トのかわりに数年前までロバがひいていたとのことで、ロバ車を売りとする高昌故城の写真は今もでまわっている。平らな起伏のない、赤茶色の風土の廃墟を北にすすみ、左側にある大佛寺中心塔殿でおりる。この位置は内城である。 内城は北にある宮城とともに外城のなかにあり、外城は周囲5km。大佛寺中心塔に入る。

       【 大佛寺中心塔殿 】
  塔の左側面と右側面には、壁龕(へきがん)が縦に3段、横に7列ずつ穿たれてある。かってそこには仏像が収められていた。それはイスラム教徒に寄って撤去されたのだという。

  広場をふりむくと、いにしえのざわめきが聞こえる。 

  ここが、フェルガナ盆地の政治的軍事的中心だったのだ。いまは北5kmに火焰山をかかえるだけの、全くの遺跡である。
  紀元前48年、中国の前漢時代、前漢の守備軍がここにはじめて城塞を築いた。 
  そして紀元4世紀、中国の前涼国の高昌郡の郡治(都城)となり、
  麹氏(きくし)高昌国の国都 、
  唐、西州の州都。高昌県の県治 、
  高昌ウイグル国(Qocho kingdom、西ウイグル国とも)の国都、となる。この時代の遺跡が多い。
  高昌故城は元代に廃棄された。
  時代は下り、1961年、国務院により全国重点文物単位、に指定される。                帰りに、入り口建物の売店で本を買う。中国語・日本語併記の『西域國寶録-新疆14處全国重点文物保護單位巡禮』。この建物に付属して往時の人物像が並ぶ。麹氏高昌国の「麹氏」の像も見る。このひとは中国内地からきた女性であることを知った。

  さて、大谷探検隊がここに来たのは、2回ある。                           1回めは、第一次探検隊の渡辺と堀で、1903年9月5日のこと。しかし写真を撮っただけ。ここへ来る前のクチャで出会った「グルンウェ-デルらのドイツ隊が、トルファンで3ケ月もかけて調査したことをきき、得るところは少ないと考えたのだろう。」とのことだ(大谷紀行p.137) 
 2回めは第3次の橘瑞超で1910年11月。高昌故城を中心に調査…。小銭や般若心経などの断片、ウイグル文字の写経断片など多数を収集。しかしいずれも10尺(約3m)を出るものを得ず。(大谷紀行p.174)  17:45、高昌故城を去り、トルファン市内のホテルに向かう。途中、312号線へ戻るべく北上する。正面に火焰山が行く手を塞ぎ、その山肌をまじかに見た。

           【 火焰山の山ひだ 】                              車は、勝金口交差点まで戻り、そこを左折、312号線でトルファンに戻る。交河駅交差点でトルファン中心街を南北に貫く高昌路へ左折し、南下した。右手にワイン工場(金源酒業)があり、その先をUタ-ン。18:35、ホテル「麦西莱普酒店(MAI XI LAI FU HOTEL)」に到着。トルファン市高昌北路110号。ROOM8506に投宿した。
 夕食の前に、裏庭で見ごたえのある空中綱渡りショ-を見た。

 夕食は歌舞ショ-つきだったが、内地からの漢人客が多く、民族音楽ならぬロックっぽいうるさいだけのショ-であり、食事もおいしくなかった。しかし、ガイドのスライマンさんの実父が、歌舞ショ-の楽団のメンバ-で、サタルという弦楽器奏者できていたため、ショ-のはねたあと、別場所で、19:30~40、プライベ-トに演奏してくださった。これこそ、生でじっくりウイグル楽器をきけて満足した。サタルは13弦で、馬の尻尾を使っている。箱は、桑の木と牛革である。昨年はウズベキスタンでも弦楽器をきけたが、中央アジアをつらぬく哀愁をおびた音色は、印象はちがうが共通している。お礼に日本から持参の簡単なお土産を受け取っていただいた。    (トルファン泊)

9月12日(火曜)
午前中はゆっくりホテルで静養した。すでに外は高温乾燥である。 
12:55、ホテル発。
13:30、トルファン博物館。館内はフラッシュをたかなければ、撮影は許されたが、あまり印象に残らなかった。中国共産党の功績が目立ちすぎるように思った。「蘇公塔」観光はパスした。

 15:10、町中の清真料理店で昼食。

 16:10、交河故城 着。
 トルファン市の西10kmにある遺跡。東約30kmの高昌故城とのちがいはなにか。予備知識すくなく残念だったが、唐時代の安西都護府(西域経営の拠点)が置かれていたとの説明と、その兵舎あとに入ったことは収穫だった。そこは地面より一段低い地下構造であった。ただし、内地人の団体とかちあい、声高くうるさいことしばし。

     【 唐代、安西都護府あと 】 
 そのあと、官署区の展望台から北方面の仏教寺院地区あとをのぞむ。東西南北四方の囲み壁と四隅に、25の塔を配置し、中央に大塔1を配置、計101塔からなる「塔林」とよばれる。

          【北に「塔林」を望む。】  
また、東門跡にも足をはこんだ。

          【 東門 あと 】 
 ここ、交河故城の歴史はつぎのようである。
 紀元前2世紀、前漢時代、車師という国がここに城郭を有す。「車師前国、王は交河城に治す」と古書に記述される。   
 中国の普代、高昌国が交河郡を設置。 (← これが始まり)
 唐代、交河県を設置、一時、安西都護府となる。(← ここが重要)
 唐代晩期、ウイグル高昌国がここに交河州府をおく。(← つまり、このあたりの覇権はウイグル高昌国にあったということだ。) ウイグル高昌国でなく、西ウイグル国の首都、という記述もある(『地球の歩き方』)。同じ国家の別名?
 その後、元代に廃棄され、それまで、ここは1500年あまり使用された。
 1961年、全国重点文物單位。 

 さて、大谷探検隊の記録をみてみると、交河故城には3回、きている。 
 1回目は、1908年(明治41年)、11月18日より22日まで、第2次探検隊の野村栄三郎がきた。トルコ人人夫20~30名を連れてきて、すでにドイツ人ほか「外国人の来査するもの7~8回ありし。発掘の痕跡、歴然たり。」と記録するも、若干の古文書、文字が書かれた紙片、仏の壁面を採集。11月22日には、「六ヶ所において、長巻1丈(約3m)あまり、経文の断片約70枚、右岸土穴において、仏画4面、仏頭5箇を得たり。この長巻こそウイグル文字にして、ほとんど完全に近き一巻なり。」 (大谷紀行p153~154、p.197)   これらのうち、仏頭2つが東京国立博物館にあり、その1つは「天部像頭部」といわれる7~8世紀の塑像彩色である。
 2回目、3回目は第3次探検隊の橘、吉川で、橘が1912年(明治45年)3~4月、吉川が同年5月、きている。(大谷紀行p.197。)

【 天部像頭部 7~8c 】第2次野村隊による発掘か?                        夕方になったがなお猛暑で、下の休憩所でスイカをたべて涼む。
 17:40、記念写真を撮って交河故城をあとにした。 なるほど、両側を深い渓谷でかこまれた東西300m、南北1kmの高台で、防御にすぐれた地形である。

 

 さてこのあとは、よる10時半ころ、トルファン駅からクチャまで列車移動である。
 列車でトルファン駅にむかう途中、18:05~18:26、スライマンさんの知っている干しぶどう農家にたちより、8種類のうち4種類を買う。16元、18元、22元、別の18元の種類を各500gずつ、計370元だった。

        【 干し葡萄農家 】                                トルファン駅は市街地より北に70km位北に走った所にある。
 19:14、トルファン駅に到着。
 今夜22:32発の寝台車でクチャにむかう予定だ。ドライバ-のロンさんは、列車にのらず、このままクチャまで車をはこぶので、駅で別れた。約700km先である。

         【 トルファン駅 】
  20:15から駅近くの清真料理(イスラム料理)の食堂で夕食をとった。そろそろ清新料理に拒絶反応がではじめた。

  【 清真料理店街、羊肉が主流。右端の店に入る。】 
 トルファン駅に戻ると駅構内は多方面に行く列車待ちの人々であふれ、検問も何回と無くあり、殺気だっている。国内だと言うのに、なんでこのような国際線並みの検問があるのだろうか。軍隊(歩兵)の隊列が通るときは何があっても彼らが最優先だ。民衆人の群れ、軍隊の群れ、喧騒。
 クチャへ行く列車は22:32発予定で、ウルムチ発アクス行きらしいが、定時にはこず、駅アナウンスなどなく、殺気立った雰囲気に疲れてきたが、我々は「外国人客」で、軟臥車なので一等待合室なる部屋へはいれた。といっても殺気立った雰囲気は変わらない。急に急がされて、地下道くぐってホ-ムにあがる。あっちだこっちだと、右往左往される。乗り込んだ車両の指定の寝台室のドアがあかない。スライマンさんがすごい勢いでドアをたたく。カミナリが落ちてきたかというばかりの音が室内からきこえたかとおもうと、突然ドアがなかからあいた。開き戸である。男が2段ベッドの上段で鍵をかけてねこんでいたらしい。開けにきたのはいいが、中国は騒々しい。列車が動いたのは、23:30頃だ。 ( 車中 泊 )

9月13日(水曜)
 6:25、クチャ駅についた。700kmを7時間で。駅は暗かった。
 有名なクチャなのに。発音は、ク-チャ-、である。

        【 クチャ駅 9月13日 am6:25  】 
 ロンさんではない車(広州HONDAのACCORD)とドライバ-がきて、我々を「庫車飯店」まではこんだ。(庫車県天山中路266号、なお、中国では「県」は「市」より規模の小さい単位である。)。
 ロンさんは昨夜、トルファンからこちらへ車を回送中である。着いたホテルは大きく、我々は別館だった。一応、シャワ-をあび(というのは勢いのないシャワ-だったので。)、本館で朝食をとり、休憩して、10:00、スバシ遺跡に向かった。

 10:28、スバシ仏寺遺跡。Subashi Buddhist Ruins 
クチャの北東15Km。 

  ここも知識が準備不足のまま、訪れてしまった。7世紀、かの玄奘三蔵法師の『大唐西域記』に記述されている「昭怙釐」(しょうこり)という仏寺・大伽藍があった所、アシュチャリア寺、ともいう遺跡であるという知識しかない。 

   【 西ハサタムの中部仏塔。 クチャ川の向こうが東ハサタム。絵葉書より 】
  だが、周辺の自然環境にまず圧倒された。地面は、ゴビ攤に似て掘り返して放置されたままかのような不毛の荒れ地である。東に河が流れていたかのような広い地形(川床)がかいま見え、事実、それは庫車河(クチャ河)という季節河である。その河が流れ出す北のけわしい山塊と、その山並みの千の襞(ひだ)の様相、そして山塊を脱出し一挙にかけくだる荒らくれたゴビ攤の傾斜に息を飲んだ。日本ではとうてい見かけない

   【 東ハサタム側からの写真。真ん中がクチャ河、向こう側が西ハタラム。現地本より。 】
 東ハサタム中央の塔は、保存状態がよい仏塔とのことである。
 切符売場の入り口からボ-ドウオ-クにしたがい、「西寺中部仏塔」と、「西寺大殿」あとにたたずんだ。

        【 西寺中部佛塔 】                                                             

      【 別のアングルで、西寺中部佛塔 】

          【 西寺大殿 】 
 玄奘三蔵法師はここにもきたのだ。かれは、インドに至るとき、ここ(クチャ)から進路を北にとり、天山山脈越え~キリギス~サマルカンド~アフガニスタン~北インドへと大迂回している。
 入り口にもどり小展示室の展示をみる。それを見ると、ここはクチャから東北に23Km、雀爾達格山(チェルダコ山)という山からクチャ河が流れ出す両岸にある。巨大な遺跡である。西岸の遺跡(西ハタラム)は、南北700m×東西180m、その北部、中部、南部に仏塔があり、南部仏塔が最大である。東岸の遺跡(東ハタラム)へは行かなかったが、南北535m×東西146m、こちらにある仏塔はインド式で完全な状態とのこと。銭、書簡、工芸品などの文物が出土し、1996年、全国重点文物保護単位で、世界遺産である。
 大谷探検隊は、第一次探検隊(堀、渡辺)が1903年(明治36年)7月、ここにきており、7月5日~7日は東ハタラムで、8日からは西ハタラムで発掘し、西で、舎利容器を発掘している。堀は7月11日の日記に「東西両史址に発掘をなすこと六日。…得しところは、物になるもの必ずしも多かざりき。ああ、吾人は何が故にスタインがホ-タン地方における、グルンウェ-デルがトルファン地方におけるが如き幸運を享くるを得ざりしか。」と書いている(大谷紀行130~135)が、舎利容器の発掘は偉大ではなかったか。 それは、こんにち「木製布貼彩画舎利容器(A)」「同(B)」として東京国立博物館の所蔵品となっている。

  【 舎利容器NO.25  木製布貼彩色 (東京国立博物館 所蔵)】
舎利容器は「大谷隊が2点、フランス隊が4点、ドイツ隊が1点、それぞれ発見」(東博 P.34)したが、その中でもこれは、秀逸と言われる。
 第三次(堀)隊も1913(大正3)年、ここにきている。                       11:20、スバシ仏寺遺跡をあとにし、今度はクチャ市街をかすめて、クチャの西北70kmのキジル千仏洞にむかう。峨峨たる地形をとうる。

             【 ムザルト河 】  
途中、12:55、オアシス地帯が現れ、食堂に入って昼食。サムサ(お餅に似る、塩を取って食べる)、ポロ(人参入り)、サイ(人参、キウリ、玉ねぎ、ニンニクのサラダ。中国名、ラオホ-セン?)。 

  【 「クチャ国立地形公園・大渓谷」入り口標識 】 
丘状の平坦な道をたどった。とおもうと、ムザルト河めがけてくだる。

 13:30、キジル千仏洞。 Kizil Cave - Temple Complex

  【 キジル千仏洞、入り口ゲ-ト 】

    【 プロムナ-ド風である。正面、西壁 】

   【 クマラジ-ヴァ( 鳩摩羅什 )の黒い像 】
 かれは、クチャ生まれの高僧である。350~409年。後秦時代に中国・長安に招かれサンスクリット語の仏典300巻を初めて漢語に訳した。「般若心経」は彼の訳である。

  コンクリ-トで固められた要塞部分にむけて崖を登る。女性中国人の日本語ガイドが付いた。半分くらいは分かるが、あとの半分はたどたどしい日本語でよくわからない。しかしとどこうらず、意味不明でも話しきってしまう。こういうところは、彼女のプラス思考の部分だろう。
 238窟のうち、計6ケ所にに入れた。 撮影禁止だった。
 まず第34窟。
 青のラピスラズリが天井全体に色鮮やかに残っている。が、いかんせん、壁画の人物の目の部分が、かってのイスラムにより、荒々しく削られ、無惨である。【この洞窟でなく第38窟を、帰国後、テレビで放送があってみたが、我々がみた第34窟を彷彿させるものだった。】その38窟には、楽器を持って舞う天女等の画が多いため、「楽天窟」、「音楽家合唱洞」と呼ばれ、さらに「亀茲楽」研究の資料窟であると、さきの中国のガイドブック(『』トルファン、ベゼクリク石窟壁画』)に書かれている。
 第32窟。
 第27窟。
 外階段を上にあがり、第8窟。
 ここには「十六帯剣者像」があった。「伎楽飛天図」は残っており、天女が五絃の琵琶を奏でているとのことだ。五絃の琵琶は今日、存在がなく(いまは四弦の琵琶)、世界で唯一、奈良・正倉院に保管されているとのこと。
 第10窟。
 第17窟。ここには、窟菩薩天井像、菱格本生故事図、がある。捨身飼虎図もある。これは、前世の釈迦が自らの体を虎に差し出して犠牲になる図で、奈良・法隆寺にも同名の図がある。(上記のNHK番組による)

 公開されている石窟はここまでで、ここは谷西区とよばれる地域であった。谷東区、谷内区、後山区、という地域がここより東側にあるが、明治の大谷探検隊は、そちらで「壁画ドロナ像」を採取している。

 【 ドロナ像 土壁彩色 7c 】 第224窟
 ドロナは仏教に改宗したバラモン教徒で、釈迦入寂のとき、遺骨(仏舎利)をめぐり弟子たちが争いになった。その時ドロナは仏舎利をわければいいだろうと提案し争いを収めた弟子である。この像と隣り合った部分はドイツ隊のベルリンにあるという。
 大谷探検隊(第1次隊)は、1902(明治35)年4月15日~22日にかけて、東側の155石窟のうち38窟と、西側81石窟のうち23窟を調査した。16,17日は渡辺(哲心)隊員が壁画を写し、堀隊員が仏洞を撮影。18,19日は渡辺隊員が壁画の採取(切り取り)、堀隊員が実測図を作成(のち紛失)。(『大谷紀行』P.110~117』) いま東京国立博物館所蔵の「壁画ドロナ像」はこのとき採取したものであろうか。第3次隊の吉川も1913年、3~6月、クチャ、スバシ、クムトラ、ここキジルを調査し、6月5日にキジルを立っている。彼らがここにきたころは、西壁正面は今日のように整備されていない。整備されたのは1987年である。
 キジル千仏洞が開鑿されたのは3世紀のこと。8世紀に廃棄されている。日の目をみたのは、19世紀末、西欧や日本の保存隊による。今日では帝国主義による侵略の一環とされている。
  見終わって、カメラを預けた売店で、本を買う。(特別料金を払えばカメラ持参できたのかな?) 
  本は、『亀茲仏窟人体芸術』(2010年10月、北京、中国撮影出版社発行、500部限定出版で一冊、220
元)。キジル石窟内壁画には艶めかしいタッチの筆致も多かったが、そこに焦点をあてた研究書であった。チベット仏教等は男女の性的に肯定的であるが大乗仏教はそれに禁欲的であり、そのあたの研究書であった。大谷探検隊絡みの本はなかった。
 16:00、キジル千仏洞をあとにするが、キジル千仏洞について、NHK・BSで得た後山区の情報がある。それは次のとうり。
 ◎後山区の石窟、第212窟(航海者窟)。壁画はドイツ隊によって採取され、残っていない。それは今日、  ベルリン・国立アジア美術館に所蔵されている「仏陀の弟子の出家物語」。左右の壁一対をなしていたが  、右壁のものは残っているが左壁のものは第二次大戦で失われた。しかしガラス乾板に撮影したものが残  っており、それを東京芸術大学がプリントして再現したとのこと。見に行きたい。
 ◎第207窟。この窟にラピスラズリの青い色はなく赤や茶系のみ。しかし描かれている模様の一つが敦煌   ・莫高窟(ばっこうくつ)第220窟に再現され、更に奈良・法隆寺金堂12号壁、に再現されている。そ  の模様をここに載せられず残念である。
 ◎屈哲線の技法。線描の一種で、クチャ北方のシムシム石窟・40窟、に描かれている。ホ-タン出身の画  家がうみだしたもので、ダンダンウイリク(ホ-タン北方の砂漠の遺跡)遺跡出土の「彩色如来図」、
  敦煌の「西域のモナリザ」、法隆寺の絵画に伝わっているとのことである。、                                                              クチャへの帰途は来たときとおなじ道だが、来たときと同じく「大宛斉油田」、「布××宮景点」、「雅丹地貌」など、油田や景勝地の看板があらわれる。
  残念だったのは、クムトラ千仏洞もこの近所であり、そこへ立ち寄ることすら思いつかなかったことである。なぜならば、東京国立博物館所蔵の有名な「菩薩像頭部」は大谷探検隊によってクムトラで発掘され、招来されているのである。私は旅行前の2017年7月16日、これを見に行ってきたばかりであったのだ。 

  17:15~35、来たときのオアシスで車をとめてハミウリを買い求めてたべる。ハミとは、トルファンの東の交通の要衝の地名であるが、ハミウリは広く栽培されており、まったくおいしい。乾燥地帯であっても、太陽光が強烈なため、果物、野菜は豊富に生産される。コンビニで買うジュ-ス類とは比較にならないほどおいしい。。
  17:45、ホテル帰着。今日のドライバ-さんと写真を撮って別れる。

  夕食からは、トルファン駅で別れたドライバ-の龍(ロン)さんが合流する。かれは、昨夜19:00頃トルファン駅から700kmはなれたここクチャまで我々の車を回送し、クチャへ到着したのは今朝4:00、それから休息をとって、今、合流したのである。夕食は、清新料理でなく、漢人料理店(中華料理店)に行った。湯呑み、ス-プ椀、などがサランラップでワンセットに包装されてでてきたが合理的だ。ワインがのみたくなったので、町中でニヤワイン(赤)を買って食堂へもちこむ。モズクのス-プ、チンジャオロ-ス、お揚げの炒め、野菜の炒めで満足した。(クチャ 泊)

   【 ニヤ・ワイン 赤 ニヤとはタクラマカン砂漠に南で、明日行く場所である。】
 22:15、ホテル(庫車飯店、クチャ・ハンテン)帰着。

 

 

9月14日(木曜)                                          昨日で、今回の旅行の目的の1つ、ベゼクリク千仏洞・キジル千仏洞など大谷探検隊についてのテ-マはおわった。今日からのテ-マは、新疆ならではの自然景観たるタクラマカン砂漠・パミ-ル高原(カラクル湖)などの観光と、スヴェン・ヘデイン(19~20世紀のスウエ-デンの中央アジア探検家)への回想と、屋外広告物の視察研修である。 
 8:30、ホテルを立つ。今日はいちにちかけて、タクラマカン砂漠を北から南へ縦断することである。
車は東にもどり、ようやく、10:30ころから南へ進路をとった。この先に大海があるかのような錯覚におちいる。ひろがる大空のしたにあるのは、海ではないのであるが。「輪南油田」、「塔河油田」など、油田の誘導標識も目につく。」風がでてきて砂嵐もある。砂が巻き上げられ上空は日差しがあるのに、ドンヨリである。日本に春先飛んでくる黄砂は、タクラマカン沙漠からくる。徐々に砂漠化のけしきになってきた。

                                                 

     【 砂あらし 】

  【 11:33、タリム川の橋にかかる。左の下流を見る】                      橋の長さ、605m。この川がそそぐ湖はなく、やがて蒸発し、沙漠にのまれ、消えていくのだ。両側、木が多く、雄大な沙漠はなかなか見えない。 さらに30分走って、ようやく砂漠公路の入り口。  

  【 12:00、「塔里木沙漠石油公路 0km 起点」】                        開通は1994年のこと。ここから沙漠公路の終点まで522km。
 まだ沙漠の景色にならない。それは公路を砂から守る両側の樹木(砂防林)がおおいためだ。見通しのきく坂上にくると、道の両側に数十メ-トルの幅で植栽がうえられおり、沙漠はその外に始まっているのがわかる。

  その植物はタマリスクという灌木などである。タマリスク(紅柳)には昨年のウズベキスタンではじめてお目にかかった。砂防林を枯れさせないための水を補給するシステムがあり、それは4kmごとに設置されている水井房(井戸小屋、Well)小屋である。井戸の数は107ケ所。砂防林の長さは380(?)km。

  【12:50~13:10、第18号井戸(well)にたちよる。】                     ここには山西省出身のロンさんと同郷の中年夫婦が住み着いて井戸を守っている。 大云(タイユアン)という乾燥した木の根っこがいくつか、ころがっていた。タイユアン、とはタマリスク(紅柳、胡楊)の根っこで、漢方薬に使われる。 

 【14:15、砂防林が一時切れ、左の砂丘に看板があらわれた。】                    車をとめて見る。一字一字独立した正方形の(2000☓2000位)看板で、全体として「只有荒涼的沙漠、没有荒涼的人生」の文字看板である。中国石油のロゴマ-クがあった。含蓄のある言葉だ。          

  【15:30、ゲ-トが見えてきた。「征戦”死亡”之海」と横書きされている。】             不吉にかんじたが、覚悟も感じた。ここは、「塔中」という場所かもしれない。ゲ-トの脇の建物で昼食を摂る。ラグメンがうまかった。ゲ-トの先、直進すると「塔中油田・12km」、右を行くと「ニヤ・236km」の標識があり、我々は右をとった。

     【 ラグメン。 口に合った。】
 16:00,出発。ゲ-トをくぐり100m行くと道は二股になり、左を行くと「塔中油田12km」、右は「ニヤ236km」の標識。我々は右を行く。 

 【 16:22、この無人の沙漠を自転車をこいでいく男がいた。】                    ロンさんが声をかけると中国人だった。中国にも冒険野郎がいるものだ。おそらく都市部の人たちであろう。社会が経済的発展をとげると、余裕が生まれる。 

 【 16:22、鉄骨むき出しのゲ-トが見えてきたので、車をとめてもらう。】             構造をみる。基礎は鉄筋コンクリ-トだった。                            反対車線から、ノロノロのトヨタ車がきた。不審に思ってロンさんが、「故障か?」と声をかけると、故障ではなく、スピ-ド違反の閃光がひかったので、このさきどこかで警察につかまりたくないので、わざと速度を落とし時間調整しているのだ、とのことだった。ドライバ-は中国人だあった。
進行方向左側(西)の奥に、「エンデレ遺跡」があるはずだ。
 17:28~44、第78号井戸で休けい。
 18:19、「民豊(ミンフォン。ニヤのこと)へ70km」の標識。だいぶ来た。
 18:37、青空トイレ休けい。反対車線の草むらにプロパガンダ看板。
 砂防林がようやく少なくなり、18:44ころから、形のよい大小の砂丘があらわれる。沙漠は平坦ではなく、アップダウンだ。高さ100mにも及ぶ砂丘もある。(ヘデインによる)
 18:58、検問のあるゲ-トへ着く。「この先、315号線。左、且末(チェルチェン)282km。右、民豊(ミンフォン、古名ニヤ)21km」。これが砂漠公路の終点か?

          【 ようやく沙漠行路がおわりかける。】                      ニヤ(人口約4万人)の郊外から市街部へ入って行く。ここ、辺境でも道路は広く、舗装されている。
  18:28、ホテル、「尼雅(ニヤ)公寓」に着く。ニヤ県ボステン路5号。「ニヤ接待公蔓」とも。
  砂が上空をおおい、触れるもの、触るもの、ザラザラして不愉快。時々ガイドさんの日本語にいらいらしていたこともあり、ちょっとしたことで、ミミさんに声を荒げてしまった。第一、ホテルの窓をあけて置いたら15分で窓際ザラザラ。これではベッドのふとんカバ-の上も砂だらけではないだろうか。
  夕食は清真料理はもう沢山なので、今夜も町中の漢人料理店へ行く。また、ニヤ・ワインを町中で仕入れ、漢人料理店で牛肉炒め、豆腐炒めでちょっとおちつく。店内は砂の感じは少なかった。スライマンさんはイスラム教徒なので、この店には入らず。たとえ入ってもテ-ブルは別だ。

           【ニヤ公寓】

  ここ、ニヤは、最近は沙漠公路の南の入口、石油開発の南の拠点である。
  古代「凄精国」の古跡が、北へ120Km、沙漠公路よりは西にある。約2000年前、西域三十六ケ国の一つとして栄えた。1901年、イギリス人(ハンガリ-生まれ)オ-レル・スタインがそこで、東西10km、南北25kmの木造都市遺跡を発掘した。発掘品の一つ、木簡には古代インドで使用されたカロシュテイ-文字が刻まれていた。それはニヤ遺跡とよばれる。
 ところで、大谷探検隊はニヤに来たか?来ている。第三次隊の橘である。また、彼はタクラマカン沙漠を縦断しているか?  答えはYESである。 第一探検隊の渡辺、堀の二名が、1902年1月2日、この先のホ-タンから、1月23日、北のアクスへ到着している。(大谷紀行 による)。当時は今日のような沙漠公路はなく、自動車もない。   (ニヤ 泊)

    上の図をみると、古代、チェルチェンからホ-タンに至る通商路は現在のル-トでなく、チェルチェン→エンデレ→ニヤ遺跡→ダンダンウィリク→ホ-タン、というル-トではなかったか。

 

9月15日(金)
 ホテルにバスで移動中の12~13人くらいの日本人旅行者がいたので、情報交換したかった。どういうコ-スできたのだろうか。敦煌~青海省の花土溝~チャルクリク~チェルチェン~ここニヤ、だろうか。情報交換の時間はなかった。 
 8:50、出発。

          【 ニヤの街角 】                                昨日に続き国道315号線を西へ。「干田(ケリヤ)まで105km、和田(ホ-タン)まで285km」の標識をみる。今日の目的地は和田(ホ-タン)である。ニヤの町は小さく町はすぐ途切れ、すぐ砂礫、砂のゴビ攤になり、ラクダがはじめて登場。

        【 タクラマカン砂漠のへり  】                           新疆省の人口は2500万人、交通事故者は年に3万人。ほんとうか? 
 2時間位走って、幹線道路から左の脇道にそれたとおもうと、10:51、大きな橋をわたる。これは、ケリヤ川であろう。崑崙山脈からの雪解け川である。やがて道路や景色もよくなり、「クヤの町」(緑の丘の町)とガイドの説明があった街を通過する。ここらがケリアという街で、ウイグル民族運動の指導者の一人ホルバンの出身地で、その立像を見たと美穂子さんが言った。
  12:53、策勒(チラ)県にはいる。315号バイパスを進んでいる。このあたりは、貧困地域であるとガイドが説明した。ただ、羊はよい羊が多いらしい。国の品評会でもトップクラスとのこと。一方、人間のほうは、貧困地域ゆえに男はウルムチなどに出稼ぎに行く。また男性は、年に3~6ケ月の労働奉仕があるとのこと。また、ウイグル人は、2009年以降、公務、留学以外では外国へ出られないとのこと。この、2009年というのは、ウルムチで「暴動」があった年だ。その後、2013年6月26日、トルファン東のピチャン県(スレイマン氏の出身地)で、また2014年7月28日にヤルカンドで「テロ分子」が「暴動」、3000人が死亡したといわれる。 これ以来、ウイグル人の民族習慣が規制され、女性のスカ-フは2010年以来禁止、50才以下の男性のあごひげは2014年以来禁止、ウイグル語でのインタ-ネット・携帯電話は禁止であるという。大学入試試験は漢語で行われ、ウイグル語での入試はない。漢語はウイグル人の小学校から教える。ウイグル語の大学はないとのことだ。民族団結を表看板にする中国政府のやって良いことだろうか。否、であろう。
  そのためであろうか、今日のコ-スでは、政府のプロパガンダ広告がしばしば、目についた。

                          

 

 

13:06、洛浦(ロッポン)に入る。中国語で「ロウホン」。なにやらニュ-タウン風である。

   【 13:44、 ユルンカシュ川(白玉川)をわたる。】                     玉(ぎょく)で有名な川だ。渡ると即、ホ-タン市街になり、塔がみえるが、「国際バザ-ル」のモスクであろう。団結広場の北をとうり、毛沢東とホルバンが握手する像のうしろを通る。
14:00、その団結広場の西南に面する「玉都大飯店」着。今日の宿泊地である。駐車している車は、降砂でおおわれ灰色である。道はあるくとパウダ-状にまいあがる。歩かないところは堆積している。
15:15、観光に出る。Taxiで、さっきのユルンカシュ川をわたり、15:40~16:00、絨毯博物館見学。これまで各地で絨毯工場は見ているので、特に興味無し。
さてこれからが少し大変であった。まず、絨毯博物館から帰るにあたり、バスはなく、taxiもひろえず、700m歩いて、315号の幹線道路へ出た。やっとtaxiがきたが、ドライバ-は、検問所の先で待てという。そこは先程はあまり意識せずにニヤから来たが、検問所であり、外国人意外の、すべての乗り物が検問されていた。そのtaxiもならぶ。我々は外国人だからパスポ-トを見せるだけで簡単に先に歩けた。が、現地のウイグル人たちは、自分たちの町だと云うのに、そうはいかず、きびしいチェックをうけている。なにかナチスによるそれを思う。17:05、ようやくtaxiが来たが、疲れた。
国際大バザ-ル着。 バザ-ルといっても、もはやあまりおどろかない。単なる物の売り買いの集積地でであり、ほかへ行くべきだったが、準備不足でガイドに従ってしまった。やむをえず、ミミさんが、アトラスをおみやげに買う。(@60元☓4枚)
18:30~20:30、ホテルへ帰りで休けい。
ホ-タンはニヤよりはるかに大きい街だ。夕食はロンさんが案内してくれて、漢人料理としてもこれまでで一番まともな店だった。

【 レストラン「駱家小厨」、和田市玉洲小区 美食一番条 】                      これまでは街の「食堂」だったが、ここは「中国レストラン」だった。銀耳玉子(ス-プ)、山芋とゴ-ヤの炒め、豚肉・ピ-マン炒め(辛い)、木耳(くらげ)炒め、赤ワイン。
 そのあと、コ-ヒ-がのみたくなり、少し歩いて、塔之依南路と建設路の交差点の南西角にあるビル2階のコ-ヒ-店へ入る。。エスプレッソ、アメリカン、ケ-キ2つで139元。(¥2200位)1階のパン屋で、清真パンも買う。 向かいの駐車場ビル壁面に、一面に、LEDの激しい演出があった。
 0:05、就寝。しかしホテルの外の喧騒は絶え間なく、この時間に子どものはげしい泣き叫ぶ声もある。異常な世界だ。そして、音もなくしのつく雨のように砂がたえみなく降っている。砂は、目や耳にも入る。そのため人はいらついたりするのではないだろうか。砂は住民にとって敵であり、毎年3~4戸が埋まり、砂嵐のピ-クは5月といっていた。この砂(黄砂)がいまや日本に来るのだ。旅行前の2017年2月21日の日本経済新聞夕刊に、日本気象庁が「日本列島への黄砂の飛来をより詳細に予測出来るようになった」との記事が掲載されている。「人口衛星の画像デ-タで分析し、ホ-ムペ-ジで公開している黄砂予想図もさらに細分化する」という記事であった。  (ホ-タン 泊)

9月16日(土曜)                                         朝7時に起きて外を散歩すると、広場前で積もった砂を掃く清掃人がいた。中にはマスクしている人もいるが、この砂にはかなわないと思う。次から次へとふるのだから。広場内では、フォ-クダンスを日課とする人々がいる。漢人であろう。広場奥には昨日も見た毛沢東とホルバンの握手像がたつ。毛沢東の像は大きく、ホルバン像は小さめに作られている。そこに作為はないだろうか。

         【 ホ-タン、団結広場、 毛沢東とホルバン像 】 

           【 砂漠の砂が舞い降り、車は一晩でこうなる。】

       【 ホテル屋上のスロ-ガン 】                            今日は、温度が15~24℃の予想だ。ほっとする。                          9:45、ホテル発。本日は、カシュガルへ向かう。480kmさきである。
  315号線をひき続き西へ向かって走り始める。

            【 対向車線で検問中 】                           検問官がドライバ-の顔をみてウイグル人の顔をしたドライバ-のみを検問の列に並ばせる。その列の長いこと。100台ならばされて、検問に1台3分かかるとして、最後の1台は300分(5時間)待たされる計算になる。これではその人の日常生活はめちゃくちゃにされることになる。昨日までもこういう検問をおおく見た。民族対等をうたう中国政府とは何なのか。10:08、またも、習近平とウイグル人指導者が握手する大看板が対向車線にあらわれる。                               

  【 10:08、カラカシュ(黒玉河)をわたる。ここも玉の産地。】 
  この川は、この先砂漠のなかで、昨日渡ったユルンカシュ(白玉河)と合流してホ-タン河となり、タクラマカン砂漠北部へながれ、やがてタリム河と合流する大河である。この河沿いに、タクラマカン砂漠の北辺・西域北路(天山南路)の要衝クチャまで、砂漠縦断路は、450kmある。                 ところで、玉(ぎょく)とは、崑崙山脈に鉱脈をもち、氷河に削り取られ、ユルンカシュとカラカシュに揉まれ、ここホ-タン近辺で採石される鉱物のことで、中国人には、ダイアモンドなどの宝石や金よりも好まれ、取引価格は、最高級品の羊脂玉の場合、1kg780万元(1億円)にも達する。紀元前242年~紀元後1002年までこの地に栄えた「于闐(うてん)国)」(西域十六ケ国の一)の経済的基盤はこの玉の取引による利益といわれる。いまでも、北京の富裕層、台湾の実業家、米国の中国系人に売られる。玉座、玉音、玉の輿、珠玉、玉石混淆、玉にきず、の玉とは、玉(ぎょく)のこと。玉をまとえば、肉体はほろびないとの信仰のもと、「金る玉衣(きんるぎょくい」という漢代の王の遺体の衣服には2498枚の玉板が金の糸で綴りあわされているそうである(北京歴史博物館)。 玉は軟玉であるが、硬度のある硬玉が翡翠(ひすい)のこと。この橋を渡り終え、かくして、和田(ホ-タン)をあとにすることになる。
・ホ-タン地区は1つの市と7つの県で構成。
・ホ-タンはホ-タン紙(桑の樹皮を煮込んですくって天日干し。桑皮紙)でも有名。
・ホ-タンの歌舞は、ドラン・メシラブといい、12ムカムの一である。これらは2ムカムの一である。これらはガイドさんの説明である。
  また、唐代の玄奘三蔵はインドの帰り、ホ-タンに寄り、西域南道をとうって長安へ帰った。
  大谷探検隊もきている。第一次探検隊の渡辺、堀が1902年11月21日から1903年1月3にまで、ホ-タンにきた。第二次隊の橘も、楼蘭の調査のあと、チャルクリク~チェルチェン~ニヤ~ケリアをヘてホ-タンに至り、6月21日ホ-タンを立ち、7月8日、カシュガルに着いている(p.161)。第三次隊の(   )も。
東京国立博物館に、ホ-タン郊外で発掘された「如来像頭部」(3~4cの銅造鍍金、gilt blonze)が大谷探検隊将来品として所蔵されているが、これは第一次のときのものであろう。その遺跡は、ホ-タン北東の砂漠の中にあり、ダンダンウイクリフ遺跡と呼ばれる。

   一路、カシュガルへ向かう。砂漠の南のへり(?)を走る。 
10:51、また検問だ。武装した警官隊。我々は「外国人観光客」なので検問はなく、パトカ-の先導で先へ行かされる。ドイツ人観光客バスも同様だった。
「大云(TAYUIN)」とボデイにかいた軽トラが走っている。
11:38、給油。給油中も皆、降ろされる。乗っていてはいけない、と。「柴油」と書かれた給油機があったが、レギュラ-ガソリンのことか? また、「畜牧車」専用レ-ンがあった。
11:55、「皮山98km、叶城175km、咯什(カシュガル)389km」の標識を見る。
12:26、何かをおいかけて覆面パトカ-が追い越して行く。 
12:28、みぎの鉄路にホ-タン以来、はじめて対向列車とすれちがった。 

   13:09、皮山(ピ-シャン)通過。 
   14:17、叶城(カ-グロック、中国名イエチョン、葉城とも。)

     「 首輪を荷台に繋がれていた犬が落っこち、あわってて助けるドライバ- 】 
この町、叶城は、崑崙山脈を横断してチベット奥地にいたる重要道路の分岐点である。その道路へすこし乗り入れた。

          【 崑崙山脈からチベット奥地、ラサへの、重要道路 】 
場所柄、1950年台の「中印国境紛争」の「烈士記念館」があった。14:35~15:25、昼食。
葉城を過ぎて、中国全土の羊の品評会で最優秀賞をとるのはこのあたりの羊とのことであるとガイドが言った。一頭500~600元(8000~9000万円)
16:25、ヤルカンドで降りる。中国名シャ-チャ(沙車)。ロンさんがゆっくり中国語発音をくりかえしてくれて、耳に残った。スヴェン・ヘデインの著書に度々登場する街の名だ。 すぐまた、検問所がある。我々はパス。彼ら検問官のの給料は月給2000元(?)。タクラマカン沙漠の井戸の管理人は一人4200元。ウイグル人の「反逆」を警戒するとはいえ、内地の、あふれた労働者にこういう形で仕事を与えるために、武装警官という職があるのかも。はりきって仕事(検問)している。わけがわかっているのだろうか。帰国後読んだ本で、しかし「都市戸籍者」はこういう職につかないと読んだ。そうするとかれらは「農村戸籍者」なのだろうか。 

  【 16:46~17:20、ヤルカンドのバザ-ルを歩く。なにも買わず。】

   羊の肉がぶらさがり、多少蝿がたかっているが、気候乾燥しているため腐敗は遅いためか、店主も買う人も誰も文句言っていない。
 ヤルカンドは、西域三十六ケ国のうち、第三規模の都市国家だったとのこと。大きいのだ。第一が、カシュガル、第二は、クチャ。 そしてヘデインの何回かの立ち寄り拠点。ヤルカンド。名前にあこがれてきたが、それがいまやウィグル人が抑圧されている町であり、検問や武装警官が我が物顔でいるのを見ると、遥か悠久の歴史とは何であったのかと、胸が引き裂かれる思いで、ヤルカンドを去った。
18:09、「咯什、144km」の標識。  「大葱」(タ-ツオン)と書かれたトラック。にんにくのこと。
18:55~19:00、SA休憩。マンゴジュ-ス6元。うまかった。 
19:24、英吉沙(ウイグル語でインサ-ル、中国名インジ-ジャ、日本語ヤンギサ-ル←ヘデイン翻訳本などで。)を通過。ナイフで有名な町だ。
19:34、左に「山鋼集団」というセメント(?)工場。咯什まで47Km。

          【 昔ながらの三輪車。】   
高層ビルが行く手にせまってきた。昔(1995年6月)アメリカ合衆国を西から車で横断し、シカゴの大都会に迫ったとき、はるか西から高層ビル群を望んだことを思い出した。検問所があり、川をわたるとカシュガル市の市街地になった。  

           【 カシュガル、 アパ-ト群】】
 21:21、ホテル「色満賓館」(セマン賓館)に到着。カシュガル市色満路337。
 鉄製の門があり、ご他聞にもれず武装警備員の出迎えを受け、パスポ-トを見せる。部屋は、19世紀の建物とおもわれる1号館の2階だった。 
 夕食は、清真も漢人もすこし飽きたので、イタリアンかそんなものが食べたく、それらしい料理があるらしい「一甸(いちでん)コ-ヒ-」(色満路148)に行くことを提案した。全員でtaxi で行った。
 21:50~23:20。ワインもあり、イタリアン風を注文したが、料理はやはりどこか羊の油っぽく、満足度は半分。帰りは全部歩いた。20分くらい。   (カシュガル 泊)

         【 ワインは       】  

               【 色満賓館、 ゲ-ト 】 
 威圧的なゲ-トで、嫌悪感をもよおす。とにかくウイグル人を敵視するゲ-トといってよい。だが、1世紀以上前の1895年、まだ共産中国が出現しない前の、民族融和政策の清朝時代の1895年7月10日、探検家の
Swen Heddinは、タクラマカン砂漠死のキャンプの同行者、部下のカシムを、この領事館の門番にさせてのである。現代の門番でなくよかった!

       【 室内、ロココ調というか、ロマノフ調というか、水色と白の装飾】

                                                 9月17日(日)
9:00,朝食。出発8:50、本日は、パミ-ル高原の一角、カラクル湖(標高3535m)まで往復である。カシュガル川をわたる。

         【 広州人経営の工場 】                             この工場は日用品を製造しているが、ここカシュガル向けでなく、内地=中国本土へはこんでいる。広州人経営というのがひっかかる。2009年のウルムチ「暴動」は、「出稼ぎ」に広州へ行っていたウィグル人たちが賃金「差別」されたことに連動しておこったときく。     

       【 「中巴(中国・パキスタン)公路」の標識が目にはいった。】             この道路はこの先、カラクル湖を経てクンジュラブ峠の国境を越えて、パキスタンに至るのである。ロンさん(いま50才位)は30才の頃、中隊長として30人の部隊をつれてクンジュラブ峠へ行き一ヶ月すごした事があるといった。
9:55~10:10、小雨が来るなか、気温がさがり、ある集落でこれからに備え防寒具を着用する。
10:45~10:50、紅山口・郵政食堂、酸素袋を購入。@150元。 

      【 11:07、前方に雨雲の切れ目から、氷壁。】 
11:10~19、トイレ休憩。11:19,右に水力発電所。検問所(辺境検査 BORDER CHECK)。 
11:45、ドライバ-のロンさん曰く「今、標高3000m。気温、9℃」と。
11:50、自分の時計で標高、3075m。 
11:57、酸素袋から酸素を吸ってみる。 すこしおおげさである。 

      【 11:57、3235mの白砂(ペイシャ-)湖。ブロン湖ともいう? 】  
ザクロ石を買う。売っていた人たちはキリギス人とのこと。

           【 12:17、ヤクの放牧が見える。】 
そして視界が急にひらけ、12:35,カラクル湖に到着した。  

        【 カラクル湖の水辺。右奥がゴンク-ル・アタ(7649m)方向。 】 
 通常到着地よりもっと奥に進んで停車した。200mくらい歩いて水辺に至る。しかし、このあたりは来年からは自然保護のため立ち入り禁止となるとのこと。通常到着地(写真中央奥の水辺付近)も、ボ-ドウオ-クが作られるとガイドが説明した。水は静かで澄み切っている。東南にあるムスタ-・アタ山は、全山、雲におおわれていたが、執念の賜物か、12:49~59の短時間、頂上付近を一瞬、かいま見せてくれた。

       【 雲の中に、ムスタ-グ・アタ(氷山の父)峰、7546m 】

   左あがりの稜線が左に垂直に切れ込んだあたりが頂上付近である。
  全山を望めなかったのは残念だったが、満足である。ずっと東のコング-ル・アタ(7649m)からこのムスタ-・アタ(7546m)までのあいだに「峰が7つある」とロンさんが言ったが、雲に覆われたりで数えられなかった。白い雪と雪が眩しく、目を凝らせない。
 スヴェン・ヘデインはこのムスタ-グ・アタを征服しようとしたが、果たせなかった。彼の見た景色を求めてここに来たが、その分、残念であるが、満足である。
 ところで、カラクリ湖は大カラクリ湖と小カラクリ湖がある。ここから北東方向のパミ-ル高原の山中に、南岸から北に半島が突き出して、湖を東西に分割する湖を「大カラクリ湖」といい、こちらは「小カラクリ湖」とよばれるようである。
 私はさらに奥地のタシュクルガンの集落やクンジュラブ峠に足をのばしたかった。いつか、また来たい。

 【 この先、タシュクルガン、クンジュラブ峠→パキスタンに続くカラコルム・ハイウェイ 】
  13:40、下山開始。下山の景色も雄大であった。「コング-ル・アタは崑崙山脈の端」とガイドの説明だったが、そうすると、ムスタ-・アタもパミ-ル高原でなく、崑崙山脈といえるのでは無いかな? 昆侖山脈の冒険記をさがしているが、いまのところ、ない。 

   【 車窓右手の、下山の景色。 このあたりが、ゴング-ル・アタ峰。7649m 】   

             【 放牧の羊が道路を横断 】  
  15:30~16:05、往路で立ち寄った「CHINA POST」で昼食。ジュジャンル-ス(魚香肉 )、ユ-メイツアイ(油麦菜)、チャチャントウ-フ(家常豆付)、ホンジャオル-(紅焼肉)を食べた。ここでは沢山の漢方薬も売られていた。昆侖雪菊、これは血管をきれいにする。日本の紅花(べにばな)とは違うものだと。ロバの皮(?)を乾燥させ粉末にし、お湯を注いでのむ薬も300年前からあるのだと。大云(タ-ユ-、タマリスクの根)を着けたビンもあった。ここにはなかったが、「マカ」という崑崙山脈でとれる漢方薬の原料はなんだろうか。
  氷山地域の景色は徐々になくなり、カシュガル郊外から市街地もどってきた。

   習近平と子どもたちの広告や、赤、黄色のプロパガンダ広告物があふれてくる。

                 【 月星上海城 】 
  17:55、ホテル(色満賓館)についた。朝、食事前にもちょっと行ってみたが、このホテルの敷地内にある19世紀のロシア領事館だった建物を見にゆく。というか、ロシア領事館の敷地がそのまま現ホテルであり、一号館から三号館まで当時の建物がホテル棟で、あまり改造もされていない。領事館本館のみは、そのままで保存されている。玄関の扉にその旨が刻まれた真鍮が打ち付けられている。スエン・ヘデインの時代、総領事はかのペトロフスキ-であった。大谷探検隊も世話になっている。19世紀から20世紀にかけて、「中央アジアのグレ-ト・ゲ-ム」のライバルのイギリス領事館はここから数百メ-トルのところときいたが、行く時間がなかった。

               【 旧ロシア領事館 】 
19:00頃からレストランの廊下風のあずま屋で夕食。ワインを注文すると、ワインメニュ-はなく、実物のボトルを持ってくる。このやり方がわからず、いらだった。 (カシュガル 泊)

 

9月18日(月)
 今日はドライバ-とガイドのつかない自由行動日である。しかしあてもないので、ガイドさんは、無料でついて下さり、ドライバ-はガソリン代をみてくれれば案内する、ただし16:00まで、ということで合意した。
 10:00、発。しかしホテルのゲ-ト内でなにやら集会が有り、ゲ-トから10分くらい足止めをくった。これは、今年から毎週月曜朝に義務化された集会であるとのこと。地域の職場、町内単位ごとに組織され、職場や家庭からかならず1人は出席義務の官製集会だという。中国政府の締め付けはここまできている。

      

 

  車窓にテレビ塔らしき塔や、古い城塞のような集落がみえた。あれが「カシュガル城」ならん。

       【 10:35~11:20、アバク・ホ-ジャ廟。】 
アバク・ホ-ジャというイスラム教一宗派の宗祖一族の墓地・廟である。マ-ザ-(麻 )という。土葬や火葬ではなく、ミイラ葬である。廟だと云うのに、警備の警官がわんさかといる。ウィグル人の集まりを警戒しているのだ。

     【 班超記念公園に行ってもらった。11:27~37。 】
だが、修理中で入場できず、残念至極である。昔、世界史(中国史)で習った人物で西域経営に遠征した将軍であるが、カシュガルに縁が深いことは今回知った。後漢時代の軍人、AD32~102年。ゼンゼン王国(桜蘭)で北匈奴の使者と鉢合わせし、乗るかそるか、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」と部下を励まし、北匈奴の使者を破る。その後カシュガルに赴く。ヤルカンドも攻める。部下の甘英(カンエイ)を大秦国(ロ-マ帝国)に派遣(行き着けず)。ロ-マとはビザンチン(今のイスタンブ-ル)のことならん。班超没後、後漢は東トルキスタンに勢力をとりもどせなかった。「かれは(自分と同じ)山西省生まれ」とロンさんは誇らしく言った。

       【 11:55~12:30、エイテイガ-ル・モスク 】 

  【 モスク内のミハラブ(壁のくぼみ、聖地メッカの方向 】 
新疆最大規模のモスクというが、それほどには感じず。建物の中の所々に、中国共産党の横幕のスロ-ガンがかけられていた。また境内では物陰で密偵たちの講習会が行われていた。これはガイドさんの説明。20人くらいの男女が木陰でこしかけ、誰かの話をきいていた。

        【 モスクの出口から広場を望む 】
そとの広場は広く、大鰹のビジョンが設置されていた。みやげ店で「咯什旅遊図」(8元)を買う。
12:40、モスクの東の道路(職人街)をぶらつく。
13:10、モスク南の道路の反対側、バザ-ルに行く。今回の旅行でバザ-ルはホ-タン、ヤルカンドに次ぎ3回目。ホ-タンでスカ-フを4枚しか買わなかったので追加を買う。       

  13:25、スライマンさんが、みみとぼくに夫々イスラムの帽子をプレゼントして下さる。ありがとう、マッカラム。である。 

       【 バザ-ル 建物壁面 インクジェット? 】 
 エイテイガ-ル・モスク界隈から、taxiで人民路に行って漢人料理店で昼食にする。(13:45~14:45)。路面店で、入り口は頑丈そうなアルミ格子である。「暴動」に備えている。
これで今日の、案内付きの「自由行動」は終わりである。このあとは、ホテルにもどり、休憩する。
仮眠してから、19:00、夕食前の近所の散策に出かける。検問のゲ-トを左へでて、西へ400m位歩く。道路反対側へ渡り東側へもどる。

          【 カシュガルの肝っ玉かあさん 】 
地元の人達の中にまぎれこみ、いっしょの歩くのは、きもちのいいことだ。色満賓館を右手にみたあと、大交差点を右に折れ、「北西路」を南へ歩く。19:50、歩道に面した階段上のケ-キ店へ入る。 ケ-キとコ-ヒ-を注文。

 

 コ-ヒ-・カップと皿がしゃれている。カシュガルでこのようなものを見るとは予想していなかった。スペインの、サルバト-ル・ダリ風。

 ケ-キのかたちも独創的でカラフル。店内で写真許可をえて写真取ろうとすると、ポ-ズをとってくれるし、開放的である。昨年のウズベクでも、カメラを向けるとポ-ズをとるし、進んで撮ってもらおうとした。ウィグルはそこまでではないにしても、中央アジア的である。

             【 ウイグル婦人と。】

       【 それはこの店でした。20:18、店をでる。】 
途中、路上駐車している乗用車をwatchingしてみる。日本車けっこう多く意外であった。NISSAN 、
TOYOTA(結構多い)、HONDA、SUBARU(1台だけだが健闘)、あとバイクだが、SUZUKI、
KAWASAKI。タクラマカン沙漠にはいる前、ISUZUの軽トラが前を走っていたこともあった。(9月14日)
ホテルにもどり、20:30、昨夜とおなじあずまや風廊下で夕食。ビ-ル 新疆産、6元。

 

【 耳炒肉22元。麻婆豆腐12元。柴菜( )蛋湯6元。ごはん2元。計48元(¥864.-)】 
カシュガルは憧れの地であった。いわく、中国の奥地、タクラマカン沙漠の西端、この西はパミ-ル・中央アジア……。だが、現地でウイグル人が差別されていることを見聞し、胸のいたむものがある。カシュガルといえば、1948年の大地震。3日前もクチャで地震。本年5月11日に、クンジュラブ峠手前のタシュクルガンでマグニチュ-ド6.5。タシュクルガンは地震が多い。スウェン・ヘディンの1897年の寄稿文にも記録されている。 (カシュガル 泊)    

9月19日(火曜)
今日は飛行機でウルムチへとぶ日である。
8:20朝食、8:50色満賓館(かのロシア領事館のあと)を出発。 

     【 9:10、カシュガル机場でロンさんと写真を握手して別れる。 】 
11:15、国内便HU7748、ウルムチ行き、離陸。
おもえば、カシュガルは憧れの地であった。曰く、中国の奥地、タクラマカン砂漠の西の端。この西は、もはやパミ-ル高原で世界の屋根。ここからさきはけわしい。現在は自動車道路も通っている。しかし20世紀なかばまで、それはスヴェン・ヘデインの探検記を読めば分かるように、命がけであったであろう。また、カシュガルといえば、地震。1948年の大地震。本年5月11日も、昨日行ったカラクリ湖の先の、タシュクルガンでマグニチュ-ド5の地震。ヘデインの時代にも彼自身、タシュクルガンで地震にあっている。カシュガルよ、さらば!
飛行機は雪をかぶったテンシャン山脈をみおろして、12:50、ウルムチ机場着。

        【 ウルムチ空港、外。秋の気配がした。】
13:20~50、空港前のラグメン店、うまかった。うまさからいえば、9月14日、タクラマカン砂漠の塔中でたべたラグメンに次ぐ。おかわりをした。 

          【 ニュ-ヨ-クのクライスラ-・ビルに似たビル 】 
14:30、旅行初日に泊まった金谷大飯店、着。荷物をとく。

            【 金谷大飯店のまどから、建物ウオツチング 】  

                  【 同じく 】 
15:15、市内観光にでる。もはやドライバ-はロンさんではない。taxiの乗り継ぎである。
15:30~17:00、新疆ウイグル自治区博物館。Xinjiang Uygur Autonomous Region Museum。

   トルファンやウイグル各地で発掘された「重要文物」を所蔵している。

              【 「桜蘭の美女」のミイラ 】

 

 

 

              【 上の4点、 アスタ-ナ出土品 】
あと、ベゼクリク千仏洞、キジル千仏洞その他の出土品も合ったであろう。時間がなかった。 
私の関心事は、これらに加え、12民族の解説であった。  
 1. Uygur  維吾()族   ウイグル人 
 2. 漢人  漢族      「中国人」は共産中国の設立後の政治的な名称で、シナ人が適当。
 3. Mongolian 蒙古族   モ-コ人 
 4. Hui  回人族 
 5. キルギス族
 6. Xibe 錫伯族       シベ( ) The Sibe   満州人のこと? 
 7. 塔吉克族        タジク人  
 8. Russian ウルス     ロシア人 
 9. Tartar 塔塔(  )  タタ-ル人? 
 10. Daur  (   )    内モ-コ? 
 11. Uzbek         ウズベク人 
 12. Manchu  満州族    満州人  
カザフスタン人は含まれないようである。 
「新疆民族風情陳列」の蝋製像が楽しめた。
また、ウイグル人の歌と踊りを「ムカム」というが、その楽器の種類の展示がある。ガイドのスライマンさんが時々「12ムカム」という言葉を使っていたが、代表的なムカムが12種類あるということであろう。民俗的・古典的な音楽の集合体のことである。  

                【 12ムカム 】                    

                【 12ムカム 】 

                【 鳥 人 】
最後に売店にて、この博物館のパンフレット、および、『地図上的中国 新疆』(30元)、『ウルムチCITY城市地図』(8元)を買う。小島康誉(やすたか)という人の『シルクロ-ド新疆の旅』(1991年・名古屋市のポプラ社発行)も売っていたが荷物になると思い、買うのを断念した。ところが帰国後、NHK・BSでこの方が出演するキジル千仏洞のプログラムがあり、私財を投じてウイグル文物の保存に努めている方だと知った。
新疆ウイグル自治区博物館の前に、「MUJI」が進出していた。

   TAXIをひろって、ウルムチの新バザ-ルへ行く。17:30~18:30。二三日前、ずっと愛用してきた帽子のベルトがこわれ、被れなくなった。日広連・長野大会のとき上高地で買って以来の空色のCAPだが、かわりにウイグル製のグレイのCAPを買う。また、どうせ行くのなら、スライマンさんのいとこが経営する衣料品店がいいので、その「龍草宮」で買い物をする。

               【 新バザ-ル 】
移動して、最後の夕食に中国料理レストランに行く。18:50~21:00まで食事を楽しむ。

 

  そこそこ、大理石の店だったが、乾燥した空気と喧騒は付き物だった。
あすでスライマンさんともおわかれなので、自宅連絡先を教え合う。ショックだったのは、彼に、否、彼のみならず、E-mailのアドレスがないことだった。「ウイグル人は、e-mailを持てない」! ウイグル語のインタ-ネットもない、持たせない!とのことだ。中国政府云う「諸民族団結」とは中国政府(中国共産党政府)による抑圧と制裁・懐柔・弾圧のことである。

   LED照明と動画デスプレイの洪水の中、20分くらいゆっくり歩いてホテルにもどる。21:30着。 
   (ウルムチ 泊)

9月20日(水)
 今日は日本へ帰る日である。ウルムチ空港で、スライマンさんと分かれる時、彼がウイグルの赤ワインを一本プレゼントしてくれた。 僕らもこころづけをわたした。ウルムチの人々が置かれている環境を思うと胸が締め付けられるおもいだ。どうか、何かあっても、無事で過ごしてほしいと祈らずにはいられない。
 9:20、ウルムチ発、CA4192便は珍しく定時に飛び立ち、12:30成都(チェンツウ)第二タ-ミナルについた。   

  成都空港第二タ-ミナルから第一タ-ミナル(向こうに見える)への誘導表示は、途中で途切れ、少し迷子になった。なんとか移動手段(マイクロバス)乗り場にきたがマイクロバスは小型で1台だけ。みんな荷物はあるし、幼児子ども連れもいる。ぼくらは幼児連れの人に譲った。この小型1台だけで往復している。

            【 成都、第一タ-ミナルの広告 】

           【 15:28、成都を飛びたつ。】 
成田空港第一タ-ミナルには21:00頃到着。
無事帰宅したのは、24:00頃であった。 

                                                                                         

Ⅱ. 屋外広告物視察・研修   (『総合報道』紙 平成29年11月25日号掲載記事に加筆 )

《寄稿》 中国 新疆ウイグル自治区訪問  屋外広告物メインに視察  
                    アポロ広告㈱社長 小松 洋                                                   

  今年9月10~20日、中国の新疆ウイグル自治区で、ロ-ドサインを中心に自立・壁面・屋上等、屋外広告物の視察研修を行った。地元ウイグル人の日本語ガイドは、広告物専門家ではなかったが、それでもだいぶ助けていただいたことに感謝したい。
 新疆ウイグル自治区は、チベット、内モンゴルなどと同じで本来、中華圏ではないが、中国が同化製作を進めている地区だ。このため、民族間の軋轢もあるようだが、どのような屋外広告物が展開されているのか、日本を発つ前から大変興味のあった地域だ。 以下、種別(形態)、素材・機材、広告主、媒体社についてまとめた。                                              

1. ブルテンが圧倒的                                       まず、形態別では、自立看板が都市部、郊外、そして砂漠(タクラマカン砂漠!)においても小型サイズは少なく、米国で良く見かけることの多い「ブルテンタイプ}の存在が圧倒的であった。もちろん、街のなかでは小型の自立看板も見かけなくはないが、それは草の根レベルのはなし。小企業の活発な看板広告活動はあまりないような気がした。 

         【自立 ウルムチ 高速312号線】 

       【自立  ウルムチ郊外 国道312号  鎮(町)の広告 】

         【自立 トルファン郊外 高昌故城景観地区の表示 】 

                 【  その構造  】
 壁面は都市部(ウルムチ市、カシュガル市など)において動画タイプをはじめ、ロケ-ションのよい場所で多く活用されている。また、壁面に施設名(ホテル名など)が漢字で書かれ、欧文と違って全く違和感がない。むしろ重厚感があった。 

            【  トルファン市内 壁面  】

        【  カシュガル市 (バザ-ル) 壁面文字  】  

          【 カシュガル  ホテル名  壁面  】 

        【 カシュガル  高層ビル 壁面広告  】  

         【 カシュガル ビル壁面文字 銀行名  】                                                                      屋上は動画(ビジョン系)を含め、広告板タイプのほか、単独の屋上文字が大変素晴らしかった。これは書体を一字ずつ独立させるか、または切り離して設置シたもの。文字サイズもかなり大きく、また高層建築物屋上に設置してあるため、風圧も考慮すると、どのように取り付けたのかという意味でも大変興味深かった。

           【 クチャ  屋上   ホテル名】

             【 カシュガル  ビル屋上文字  】

 

   

             【 ウルムチ空港前の屋上文字 】  
 このほか、ストリ-タ・ファニチュアでは、バス停、ごみ箱の広告媒体、車体ラッピングも都市部で見かけた。

 日本国内にあまり見られず、目を弾いたものでは、高速道路料金所のゲ-ト上や、道路をまたいで(道路占用して)ア-チ状に長大な広告板を展開する方法もあった。 道路占用は、旧ソ連圏旧車會主義圏では定番なので、当然かも知れない。

       【 料金所ゲ-ト上部広告 】
 ただ、道路占用としての横断幕や、旧ソ連圏に多く見られた三面変換ボ-ドは比較的少なかった。 
トルファンからクチャまで約700Km、列車(南疆鉄道)にも乗ってみたが、残念ながら列車内、駅構内の広告物(交通広告)はなかった。空港(北京、ウルムチ、カシュガル、成都)広告は、通路天井から吊り下げた大型バナ-広告や、壁面のタ-ポリン内照サインなどがあり、これらは世界共通と言えよう。 

2.タ-ポリンが主流 
 素材・機材をみると、屋上、壁面でも面積の大きい物は、殆どがタ-ポリンによるインクジェットプリント出力。ただ、その取り付け方が悪く、剥がれやシワを多数見かけた。

   もっとも冬は厳寒、夏は灼熱の高温(たとえばトルファンで今年の最高は52℃、地表温度は80℃くらいあったという)で、温度差が激しい気候であれば、やむを得ないか。表示面の剥がれやシワはあったものの、傾いて壊れそうな広告物は自立、壁面、屋上ともいずれも殆ど見かけなかった。 
 機材で目立ったのは、やはり大型動画ビジョン。世界中、どこにでもあるから驚かないが、カシュガル市の新疆最大のイスラム教モスク(エイテイガ-ル・モスク)前広場にも巨大なサイズが設置されていた。
 夜間の照明は派手。これは中国の伝統だろうか。建物の輪郭イルミナ-ションや、照明文字もLEDが多く、和田(ホ-タン)市でも、高層の駐車場ビル壁面全面にLEDによる激しい演出を見かけた。

                                                  3. 目立った政府系広告 
 広告主の分類は、なんといっても多かったのが、中央政府または自治区政府系。その内容も標語やスロ-ガンなど、その数量は他を圧倒していた。その次が、公共地区(工業区、産業区)、町(鎮)、観光地、景勝地などへの案内(誘導)や告知。最後が、企業、商業施設、外国車だった。 
 企業広告は、「楼蘭庄酒」、「モナ・リザ(プロバイダ-?)」、「クチャ県大地芋業有限公司」、「カシュガル健康医院」、「カシュガル曙光男科医院」、「月星上海城(高級5つ星ホテル)」、など。これらは、いずれも地域性に富んだ会社らしい。

 

 

 

 

 

 

また、高速道路料金所ゲ-ト上部の広告面は、「中国人民保険」の広告がほぼ独占して掲出されていた。

   

外国車関連の屋外広告では、フォ-ド、徳国車(ドイツ車)、等。日本車の広告は見かけなかったが、カシュガルに日本系デ-ラ-があった。日本車は思っていたより走っている。

                                                   媒体社・管理社は、他国のように 表示版がなかったので、わからなかったが、自治区政府の相当な関与が予想された。 
 最後に私が最も注意を惹かれた広告物は、タクラマカン砂漠の砂漠公路わきの砂丘に掲出されていた標語看板と、砂漠公路・ニヤ側出口ア-チ(及びその文字)であった。

 

       【 タクラマカン砂漠ど真ん中にある中国石油の標語 】

        【 タクラマカン砂漠 塔中のゲ-ト  】 
これからも、機会をみつけ、世界各地の屋外広告を視察したい。  

雑誌「POP EYE」に代表対談記事が掲載されました。

2018年8月号(No.236)
雑誌「POP EYE」(総合報道社刊)                                

シリーズ対談
第26回 「海外のサイン事情に学ぶ日本の現状と課題」
アポロ広告㈱ 代表取締役 小松洋 ☓ 日本サイン株式会社 北山誉至宗 氏