2012年スペイン

 2012(平成24)年1月1日(日)~11日(火)、スペインを訪問(同行者、妻と友人夫妻)
 目的は屋外広告物視察と歴史風土体験である。
    1.屋外広告物視察
    2. スペイン歴史風土の体験

1. 屋外広告物視察
■バルセロナ

   【 エスパーニャ広場  衣料企業の宣伝広告物(造形) 】

    【 エスパ-ニャ広場  バス・ラッピング 】

 

 

    【 グラシェラ通り 夜間 道路横断電飾      】

     【 グラシェラ通リ  上に同じ    】

     【 メトロ  Liceu駅ホ-ム壁面 電飾 】

     【 グラシェラ通り脇道、壁面広告 】

      【 グラシェラ通リ 道路横断電飾 】

      【 その昼間の状態 】

     【 グラシェラ通リ  壁面広告 】

    【 カテドラル北側広場  ピカソの描画 】

      【 バルセロナ市街 → 空港間  自立広告物 】

     【 バルセロナ市街 → 空港間  自立広告塔 】

■バルセロナ~サラゴサ間

  【 牛の造形 no.1  A2-E90号線  1月5日16:45  】


■サラゴサ

    【 バス・シェルタ- 】

     

     【 バス停。路線別に自立。】

      【 バス・シェルタ- 】

     【 壁面  ペイント 】

     【 フェンス  ペイント 】

     【 AGORA社の媒体 ポスタ-ボ-ド 】

 

         【 モリスの広告塔 型 】

■サラゴサ~マドリッド間

 【 牛の造形 NO.2 A2-E90号線 1月6日 13:46 】

      【 牛 NO.3  1月6日 14:57 】

■トレッド

     【 トレドの菓子・マサパンのA型看板 】
【スペイン語でZの発音はザでなく、英語でいうthの発音なのでサに聞こえる】

■アルマグロ

        【 民家の窓辺 】
   
■アルマグロ~マドリッド間

      【 いわゆる野立て看板 】

【 三面変換ボ-ド (日本ではトライビジョンという商品名もある。】

     【  トラックの宣伝カ- 】

        【 空き広告  A42号線 】

          【 これも空き広告 A42号線】

 

 

       【 これも空き広告】

       

■マドリッド

   【フラメンコ・ダンス店(タブロ-)の店名そで看板】

      【 マヨ-ル広場の壁面広告 】

      【 その取付かたに注目 】

   【 スペイン内乱時に勢力のあった政党のペナント 】

      【 ソフィア美術館 ファサ-ド 】

       【 スペインのポストは黄色 】

         【 壁面 垂れ幕 】

         【 時計店 ファサ-ド 】

        【 バルのファサ-ド 】

2. スペインの歴史風土体験
  
2012年1月1日(日)
 11:15、定刻に成田空港をスイス航空機で飛び立つ。
 12時間飛んで、スイス・チュ-リッヒ空港に現地時間15:48(日本時間23;50)、着陸。
 17:30(日本時間 2日1:30)、スペイン・バルセロナへむけてスイス航空で飛び立つ。
 18:50、バルセロナ空港(El Plat)着陸。(日本時間2日2:50)。
  19:55、近郊線鉄道(セルカニアスCercanias)C2号線Nordに乗り、20:15,目的のバルセロナ・サンツ駅に
  到着。(日本時間2日4:15)。駅の上のホテルに泊まる。大きな駅であるのに、ホテルの入り口は全く  目立たず、探すのに一苦労したが、快適なホテルだった。

1月2日(以下スペイン時間)
 朝食のあと、早速、周辺散歩にでかけた。
 あさの空気はつめたく、緊張して、心地よく、駅の北側は、スペイン工業公園といい、さっそくモダンな造形にであう。さすが、スペイン、バルセロナ!という感じだ。


 タナゴサ通りという通りに沿って、ミロ公園を通る。

           【 ミロ公園 】
 更に闘牛場~エスパ-ニャ広場~国際展示場前~モンジュイック北斜面の噴水(マジカロ噴水)まで行って、Uタ-ンした。
 9:40、ホテルにもどり、チェックアウト。
 今日の宿泊ホテルへ移動すべく、10:00、バルセロ・サンツ駅からメトロ3号線にのり4つめ、Liceu(リシウ)駅でおりる。通リを南へ1分、ホテル・ウサ・オリエンタルに着く(10:20)。これが今夜のホテルであり、この通りがなんと、ランプラス通リである。バルセロナには3日間滞在する。 
 10:45,現地在住の神尾くんが現れる。彼が今回のガイド約である。
 まずは、私にとっての今回の旅行の最大の目的地の一つ、ランブラス通リをじっくり眺める。
 そして、カタル-ニャ広場へ向かう。この通リこそ、1936~37年、バルセロナの労働者たちが、フランコ軍に対抗するためバリケ-ドを築き、また、ときのバルセロナ市支配者、ヘネラリタ-トと銃撃戦をかけてたたかった通リである。広場につく右手建物3階に、ホテル・コンテイネンタルが今もある。内戦時、ジョ-ジ・オウウェルが宿泊したホテルだ。
 そして、テレフォニカ(中央電話局)。1937年5月3日、アナキスト組織(CNT)の労働者が制圧していた戦略的建物である。1937年5月3日、カタロニア共和国政府(ヘネラリタ-ト)が退去をせまった。ヘネラリタ-トはフランコ軍を武力で対抗しようとせず、革命の分岐点となった。この建物を背に写真を撮ってもらった。いまは電話局ではない。

      【 かつてのテレフォニカ。中央電話局。 】
 12:00,カタル-ニャ広場から西廻りの2階建てバスにのり、グラシェラ通りを北上、アントニ・ガウデイ設計のバトリョ邸、ミラ-邸、を眺める。
 デイアゴナル通リを北西にまがり、やがて、カンプ・ノウ(サッカー・スペイン一部リ-グ・FCバルセロ-ナの本拠地スタジアム)をかすめ、バルセロ・サンツ駅前に来る。今朝散歩したコ-スそのままにエスパ-ニャ広場からマジカ噴水にいたり、ここから一挙にモンジュイックの丘にのぼる。1992バルセロナ・オリンピックのメイン・スタヂアム、ミロ美術館をとうり、丘を下って、コロンブスの塔、バルセロネ-タのヨット・ハ-バ-で下車する。

    【 1992バルセロナ・オリンピック・スタジアム 】

          【 ミロ美術館 】

    【 コロンブスの塔。ランブラス通りの南の終点 】
 バルセロネ-タのヨットハ-バ-のテラスレストラン、〈CAL PINXO カル・ピンチョ PALAU MAR〉というレストランにはいり、ム-ル貝、サラダ、イカスミパスタ、イカスミ飯、赤ワイン等を摂る。赤ワインはここカタロニアのでなくガリシア産(スペイン北西部、サンチャゴ・デ・コンポ・ステ-ラの方)だった。カタロニアのワイン産地はバウセロ-ナ南西のペネデス(Penedes plains)が有名。
 15:10,食事を終え、また2階建てバスに乗り、15:50、カタル-ニャ広場にもどる。
 こんどは、16:00発の東廻りのバスにのり、ガウデイ設計のグエル公園にゆく。山(斜面)の中腹にあった。

 【グエル公園からモンジュイック(ユダヤ人の山)を見る 】

  【 グエル公園からサグラダ・ファミリヤ 】
 バスで カタル-ニャ広場へ帰る。
 ポルタル・ド・ランジャル(天使の門)通リをゴシック地区へ歩く。もう夕暮れになった。デジカメが不調になり動かなくなった。途中、カメラ店があったので、cool pixを買う。幸い同型があった。 
 カテドラル
 王の広場
 19:50、サン・ジャウマ広場の一角にあるピザ店〈EL CAFE D'EN VICTOR〉で夕食。神尾君は20:56発の電車でカタル-ニャ駅から帰宅した。我々も、21:40、店をでて、フェラン通リ経由でホテルへもどった。

1月3日(水)
 今日はまず、サグラダ・ファミリアへ行く。
 7:55、ホテル発。メトロL2号線にのり、途中L5号線にのりかえた。
 混むというので早めにきたので、列に並んだのは、16人目だった。9:00に入場。Temple de la Sagrada Familia、とよばれていたが、  年から、Temple でなく、     にある。9:30,リフトに乗り、上階へ。

 

 

 

 

 


10:30,退出。

 

      【 古物店に仏像があった。】
 続いて、北方向にあるサン・パオ病院に歩く。HOSPITAL de Sant Pau。世界遺産。

      【 サン・パウ病院 】
 アントニ・ガウデイにつぐモダニスモ、ドメネク・イ・モンタネ-ルの設計。
 11:23,ガイド・ツア-に入る。

 

     【 何の説明か?】
 ガイドツア-は長く、12:28、終わる。
 12:55、taxiを拾い、13:15、ホテルに帰着。するとすでに、神尾くんとエウラリア夫人がきていた。午後は彼らとともに行動する。エウラリアさんは、昔、日本で神尾くんの下宿を訪ねた時、玄関であっている。だが、お顔は思い出せないでいた。初対面とおなじである。13:17,taxi2台に分乗して、昼食に行く。
 13:40~15:50、バルセロネ-タの砂浜・ボ-ドウオ-クに面したジョアン氏のレストランである。大鍋のパエリアだった。ジョアン氏の父上(故人)に神尾くんが日本語を教えていた縁でしりあっているとのこと。食事代は、ジョアン氏のおごりだった。恐縮した。
 夏は海水浴で賑わうとのこと。いまもは冬だが、日差しは燦々としている。冬知らずではないか?
 taxiで、フランシア駅の前をかすめ、16:15、サンタ・マリア・デル・マル寺院へ着く。

 このあと、ピカソ美術館に行ってみたところ、電気トラブルで数分前に閉館されていて入れず、では、と向かったカタロニア音楽堂は、15:30ですでに閉館になっていて入れず、連続で憑きがなかった。
 次に向かったサルバト-ル・ダリ美術館は入れた。(入場券、エウラリアさんのおごり!)
 さらに、ピカソゆかりの、クワトロ・ガッツも行かずばなるまい。行った。混んでいたがなんとか席に着けた! 


クラ-ラ Clara. ビ-ル+スプライト、
    カンニャ Cana  生ビ-ル、
    セルベッサ Cerveza  ビ-ル。
 スペインという国は、社会的風土が一部、中世にとどまっている中で、これら、ダリといい、ガウデイといい、ピカソといい、個人的に桁外れの才能を発揮する怪物的個人を産出する。特異な社会であることを痛感する。
 19:50 神尾夫妻をカタル-ニャ広場駅まで見送る。同時に明日朝の券売機を確認してきた。
 20:10 ホテルに帰着。

1月4日(水) 今日は、郊外のモンセラット山にゆく。特異なかたちの山と、修道院がある。
 6:10、ホテル発。

      【 朝、ひとけのないサンプラス通り 】
 6:48、セルカニアス4号線にのり、7:45,Vacarisses-Torreblanca駅で下車(3.60ユ-ロ)、神尾くんが迎えに来ていた。かれの自宅はここにある。8:05~8:25、訪問し、朝食をいただいた。壁に日本の掛け軸、風鈴、ジャポニスクの絵画、が飾られている。エウラリアさんの趣味であるとのこと。庭から北西に奇っ怪なモンセラット山の山塊が間近に、険しく、神々しくそびえる。毎日この景色を見れるとは羨ましい。彼は「セザンヌのサン・ヴィクトワ-ル山よろしく、この山を描いている」と言った。これだけでも、神尾くんがスペインに住む価値はあるだろう。

     【 神尾君自宅からのモンセラット 】
 今日もエウラリアさんが、同行する。エウラリアとは、バルセロナの守護聖人の名前である。本人は「マリアとよんでもらってもいい」と言っていた。
 8:50、駅前からtaxiに乗り、モンセラットの登山鉄道駅へ行き、9:20の登山電車をつかまえる。
 頂上駅、MONISTRAL-MONTSERRA、には9:33、到着。 バルセロナから50km、標高  m。

         【 下界は雲海の下】


 まず、この奇っ怪な、つるつるの、のこぎり状の山の岩石はなにか? どのようにしてできたのか?海底からの隆起である。この山塊にいだかれた教会堂(Basillika)に入る。

黒のマリア像(ラ・モレネ-タ La Moreneta)がある。なぜ黒か?

 少年聖歌隊(エスコラニア)のCDを1枚、買った。
 ここは、1025年創立のベネデイクト会修道院である。ベネデイクトとは、聖ベネデイクトのことであり、ベネデイクト会修道院とは、かれが、529年、イタリア・ロ-マとナポリの間のモンテ・カッシ-ノ山に創建した修道院のことである。広大な領地、財産を有するようになって、910年、内部からクリュニ-改革運動が起こる。更にフランシスコ会、ドミニク会が生まれる。このようにベネデイクト会は、カトリック最初の修道会である。
 10:10,教会を出て。ケ-ブルカ-でサン・ジョアン展望台へ上がる(7.20ユ-ロ)。

 

 奇っ怪な山頂群が目の前だ。これらを巡回する登山コ-スがあるらしが、滑りそうでいやだな。峰々には、ユ-モラスなニックネ-ムがつけられているらしい。遠くピレネ-の白い山脈が望める。天気がさらによければ、地中海のマジョルカ島もみえるとか。
 14:20、モンセラットより下る。下の駅で神尾夫妻と別れる。
 われわれはそのまま、カタル-ニャ鉄道にのりかえてバルセロナの中心部へ帰る。ホテルに16:15,一旦もどり、荷物をおいてから、ミラ-邸とバトリョ邸を見にいくことにした。
 16:30、Liseu駅発、16:44,Diagonal駅で下車。
 16:50~17:45,ミラ-邸。

 

 


 17:54~18:40,Casa Batllo. バトリョ邸。


 歩いてカタル-ニャ広場、ランプラス通りにもどり、19:40,ワインとパエリアの夕食を摂る。
 21:33、ホテル帰着。

        【 カタル-ニャ広場 】
 1月5日(木) 今日はサラゴサへ移動である。 
 朝、昨日見損ねたカタロニア音楽堂を見にいく。建築物として世界遺産である。8:05,着いたはいいが、しかし、開館時間前であったので、眺めるだけである。せっかくバルセロナまで来たのであるから、粘った。
これは昨日見たサン・パオ病院設計者、ドメネク・イ・モンタネ-ルの作である。

         【 カタロニア音楽堂 】
 帰路、カテドラルよこの狭い道をぬけた。短いバルセロナ滞在であったが、この通りは馴染み深くなってしまった。CARRER DELBISBE通りというらしい。

 


 8:30,旅装で神尾くん、現れる。
 8:40,神尾くんとレンタカ-をとりに、taxiで空港へ向かう。
 9:10、空港着。AVISでマニュアル車のPEUGEOTを借りる。4日間でレンタル料170.64ユ-ロ、返す時の燃料代48.68ユ-ロ、これに消費税(18%)39.48ユ-ロ、合計258.80ユ-ロ。道中の事故その他にそなえて、AUTO EUROPE の車任意保険にも入れた(200ユ-ロ)。スペインはオ-トマチックのレンタカ-が少なく、したがって私は最近マニュアル車が苦手のため、運転は神尾くんと高須くんにまかせることにした。
 ホテルにもどると、まだ時間があったので、近くのグエル邸(Palau Guell)に行く。これもガウデイ設計で見逃せない。

 

 

 

 グエル邸の売店で、日本語による子供用絵本2冊、買う。
 11:42、 HOTEL HUSA ORIENTE、チェックアウト。3泊、2室、税込み、329ユ-ロ。
 こうして、11:45,ホテル発。さらば、バルセロ-ナ。
 11:55,高速A2-B23に乗った。一路サラゴサへ。


 サラゴさまでは、約  km。
 昨日のモンセラット山が右窓にせまり、刻々山容を変化させて後方に去る。
 徐々に乾燥した地形になる。

 


 12:55,サ-ビス・エリアに入ってランチ。ここで、高須夫人が置き引きにあってしまう。警察を呼び届ける。14:40,旅行再開。
 景色は緑や樹木が少なく、茶色の地肌の乾燥地帯のアップダウンである。
 Lleida(レイダ)
 右手方向の奥深く、ピレネ-の山麓に足をのばしたかった。そこは、バルバストロ、シェタモ、ウェスカ(Huesca)など、内戦時のアラゴン戦線だったところであり、ジョ-ジ・オウウェルによって書かれている。(「カタロニア賛歌」)
 そんな空想にひたっていると、突然前方右手の小山の上に、牛の形の黒の大看板が現れた。
 しまった!不覚!カメラを手探りするうち、通リすぎ、振り返ってリアウィンドウから、かろうじて、カメラにおさめた。スペインに来る前から、黒の牛の看板のことは承知していた。しかしどこにあるかの情報がなかった。かまえていなかった。ドライバ-に減速してくれ、と叫ぶ暇もあらばこそ、運転していなかったことを悔やむ。安全に路肩にとめることはできたはず。

 


 ひとり、心中ジュクジュクとしているうちに、左手に、FUJIKURAの工場があった。それから5分もしないうちに、ZARAGOZA だった。
 17:00,橋をわたる。これがエブロ川であろう。左にピラ-ル教会がそびえる。

 


 スペイン新幹線(AVE)のサラゴサ駅(ESTACION ZARAGOZA-DELICIAS)の地下駐車場着。ホテルはこのたてものにあり、昨日のホテルと同じHUSA HOTELだったので、昨日、予約してあった。HUSAチェ-ンは日本にもあり、第一ホテル、リ-ガ・ロイヤルなどがそうであるようだ。
 17:43、ホテル着。
 神尾くんは言った。「昔ヒッチハイクでサラゴサ駅で野宿した。朝起きたら人の足が目の前に。そこは切符売場の下だった。その駅がこんなに豪華になったとは!」【彼は翌日、「あれは旧駅のほうでここではなかったとわかった。」と言った。】 
 18:27、TAXIでピラ-ル教会へ出かける。人混みで橋は渡れない。

 
 人混みである。今日はお祭りのようである。教会の南側、ピラ-ル広場は山車が出て大混雑。迷子になったらやばいと思って、手をつなぐ。人混みの向こう、広場の東端にある(ムデハル様式)のカテドラル(ラ・セオ)を見に行く。はいれなかった。


 20:10~、地下室の《TRAGANTUA》という店で夕食とする。神尾くんのカンで行った。。タパス料理(一口つまみ料理)であったから、バルだったかも。ペ-ルセペス(貝?蕀皮動物?)、マテ貝、きびなご(イワシ)、ガリシア風タコ(胡椒が振ってある)など。
赤ワインは甘く、グルジアの赤ワインを思わせた。21:48,支払い、144ユ-ロ。



1月6日(金) 今日は、トレドに行く。
 高須くんが運転するかもしれないので、追加契約のため、AVISに行くが今日6日はスペインの祝日で休みであった。
 8:50、ホテルを出る。一晩の駐車料は12.75ユ-ロだった。
 9:45~10:25、昨日の置き引き被害届けのためサラゴサ警察署に行く。
 10:45、ピラ-ル教会隣接の駐車場にとめ、アルハフェリアにいくことにする。途中、ロ-マ遺跡、

      【 ロ-マ遺跡 】

         【 市場前を通る。】
 市場では、ゴヤの「市場の火事」について、誰かが語った。ゴヤは、サラゴサから44kmほど南の村の出身である。(フェンデトドス)

 【 11:20~12:05,Palacio de la Aljaferia(アルハフェリア宮殿)。世界遺産。】
 ヨ-ロッパ最北のムデハル様式建築。(昨夜のラ・セオもムデハルである。)ムデハルとは、キリスト教徒がレコンキスタによってイスラム教徒を圧倒した時代の、イスラムの建築様式である。これに対し、レコンキスタ以前の、イスラムが圧倒していた時代のイスラムのはモサラベという。『LONELY PLANET』にも次のように書かれている、「(アルハフェリアは)グラナダ・アンダルシアのシリ-ズや、コルドヴァ・メスキ-トのシリ-ズではない。」(P.365 意訳) どちらにしても、わたしは、2006年のアゼルバイジャン、2008年のドバイ、イエ-メン、2011年のモロッコ以来、イスラム建築に安心感を感じているが、このアルハフェリアでもそう感じた。

 


 ホテルにもどり、荷物を積んで、サラゴサを立つ。
 13:30,A2号線にのる。マドリッド方向である。アリゾナ州にあるような、地形がある。


 13:46,突然、カ-ブの右手高台に、牛の黒い看板が現れる。昨日の二の舞である。正面に迫ってきたがピンぼけ!


 14:00~14:30、休憩。ドライバ-を高須くんにかわる。
 14:57,また、左に牛! 撮影りそこねた。
 15:00、「CALATAYUD」の標識を通過する。神尾くんがなにか説明してくれたが思い出せない。ハイキングコ-スか山間リゾ-ト地だったか?


 15:30、アラゴン州からカステイ-ヤ・イ・レオン州に入る。高度880m.気圧913ヘクトパスカル。すでにメセタ高原であろう。
 15:54,牛、4回め!


 16:10,牛、5回め。


 16:24,牛、6回め。正面に来たがピンボケになった。これが最後の牛だった。昨日の1回めを含め、満足できる写真はとれなかった。
 これはある酒造メ-カ-の牛の形をしたアルコ-ルの宣伝看板だったそうである。それが、高速道路にアルコ-ルの宣伝は顰蹙をかうようになり、政府が撤去命令をだした。これに反発したメ-カ-は黒く塗って抗議して今日に至っているとのこと。しかし逆に外国人旅行者にたししては、スペインの観光の宣伝になっているのである。わたしは、屋外広告業界紙『総合報道』によって、この黒い牛の看板に興味を持った日本人女性の寄稿文を読んで以来、これが見たかったのである。昨年(2010年)、バルセロナの闘牛は禁止されたが、それにもかかわらず、である。
 16:41、グアダラハ(Guadalaja)通過。1937年3月、スペイン共和国軍がフランコ・イタリア軍に大勝利し、反フランコ・カタロニア民衆を力つけた戦場はこのあたりだろうか。
 高速に休憩所があらわれず、しびれを切らした高須くん(?)が一般道に逃げる。

      【 アルカラ大学構内 】
 そのうちに、なんと、アルカラ大学へ迷い込む。こういうことは、よくあることで、私も、1993年、合衆国ワシントンD.Cで、Uタ-ンを求め、なんとペンタゴン構内に迷い込んだ経験がある。アルカラ大学警備員の誘導で本線にもどれた。アルカラ大学はなんと、1499年創立。スペイン初? (またこの町は、『ドン・キホ-テ』】の作者ミゲル・デ・セルバンテスの生まれた町。)
 17:15、ようやくトイレ「休憩。ここで、マドリッドの地図を買っておく。7.50ユ-ロ。
 ドライバ-が神尾くんにかわる。低く、強い西日が襲いかかってきた。が、彼は平気だとのこと。きみは、スペインの怪物的人種の一人に変わってきたようだ。
 コ-スをトレッドにとるためには、マドリッドの郊外環状線のどれかから、A42線にはいればよい。
 または、M45かM50から→N4 Andalucia方面、へ。そして、CARRETERA DE TOLEDO、でおりればよい。現地の人はそう言っていた。が、私は眠りに落ちる。一瞬、薄ぼんやりとトレドの丘の灯火が見えたが、またねむり、19:00、車が止まった時ようやく起きた。そこは暗い闇のなかに、「HOSTAL EL CARDENAL」の灯火のある城壁の前で、ビサグラ新門の近くであった。


  19:30、寒さの中を出かける。ビサグラ新門をくぐり、坂をあがり、「太陽の門」を通過し、ソコドベル広場へ出る。広場を迂回し、さか(Calle del Comercio)をくだり、20:18、大聖堂(カテドラル)まで行って見た。夕食は、路地を入って、「LIZARRAN TOLEDO」。カステイ-ヤ産のワイン、BATUTA TINTOを取る。65.60ユ-ロ。
 22:20,夕食おわり、同じコ-スを戻る。

       【 タベ-ラ病院の夜景がよかった。】

1月7日(土)
  さて、トレドこそ、中世スペインの首都である。1001年間。奈良と姉妹都市。北米toledとも姉妹都市。
  年表式にまとめる。
   BC.2世紀(190年頃)、Toletum トレトウム、として記録あり。第二次ポエニ戦争時、ロ-マによる制服。
     (395、ロ-マ東西分裂)
   409年頃、ゲルマン民族侵入(スエビ、アラン、バンダル族)
     (476,西ロ-マ滅亡)
   560、西ゴ-トの首都となる。
     589、国王(レカレド)、キリスト教に改宗(アリウス派)。先住ロ-マ系市民と融和。
    (711,イスラム、ジブラルタルを渡る)
   712,イスラム、トレド征服。 西ゴ-ト、152年でおわる。 トライトラ(Tolaitola)と呼ばれる。
     イスラム、改宗強要せず。モサラベ時代。
  (722、半島北部からレコンキスタ始まる。)
  1085,レコンキスタ、トレドを征服。 イスラムの支配、375年でおわる。
      カステイ-リャ王国アルフォンソ6世、エルシド、ビサグラ旧門よりアルカサ-ルに入城。(モサラベ時代おわる。)
                                    ムデハル時代となる。
  1226~1493 フェルナンド3世~ カテドラル建築。
  アルフォンソ10世、アラビア天文学、ギリシャ(アリストテレス)哲学、医学、数学を翻訳 →西欧へ。
  1357、残酷王 ペドロ1世。
  1492、カトリック両王、グラナダ陥落、イスラム追放。(ムデハル時代終わる)。
  1550、ビサグラ新門建築
  カトリック両王の次女(狂女ファナ)の息子カルロス、神聖ロ-マ帝國の王(カ-ル5世)を兼ね、スペイン領を拡大。
        新大陸、ブルゴ-ニュ、ナポリ、シシリア、フランドル、ドイツ、オ-ストリア、---その首都トレド。
  1561、カルロスの子、フェリペ2世、首都をマドリッドへ移す。 トレド、1001年の首都、おわる。
    新大陸の金銀、国内蓄積されず。栄光おわる。

 9:00、ホテルにおいて市内見学に出かける。今日は半日、トレド滞在。午後、ラ・マンチャ深部へ行く

          【 ホテルの門、朝。】

    【 ビサグラ新門を入って、振り返る。】

        【 タベ-ラ病院の朝。】

       【 ソコドベ-ル広場 】

【 狭いCalle del Comercio通リをカテドラルの方へ下る。】

     【 サント・トメ教会、美術館。】

           【 同じく 】
  かのエル・グレコの宗教画『オルガス伯爵の埋葬』を見る。私はこれで、スペイン中毒に罹る。

   【 10:20~11:00、エル・グレコの家、美術館 】
 エル・グレコはトレドと切り離せず、トレドはエル・グレコと切り離せない。ここには、
 ・『sジエナの聖ベルナルデイ-ノ』
 ・『トレド全景』 Vista y Plano de Toledo
       (タベ-ラ病院からの全景。息子が右端に描き込まれている。)
 ・『悔悟のペドロ』 などがある。我々は高齢者で入場料はとられなかった。

  【 11:05~25、被昇天の聖母のシナゴ-グ。 CHINAGODA del El Transit 】

      【 同じく 】
  1355年、ペドロ1世の特別許可で建築される。ムデハル建築。

【 11:30~40、白い聖母のシナゴ-グ  】 Sinagoga de Santa Maria La Blanca.
  13世紀、ユダヤ人を厚遇したアルフォンゾ10世による。馬蹄形のア-チが5つの本堂をつなぐ。モロッコの古典的なアルモハッド様式。1階が男性、2階が女性の信仰席。

       【 同じく】

      【 12:00~12:40、カテドラル。】

        【 同じく 】

        【 カテドラルのせん塔 】

   【 13:00~13:20、アルカサ-ル。】
   1085年、レコンキスタ軍が築く。スペイン内戦中は72日間にわたってフランコ軍が籠城した。6階にその司令室   がある。 どういうわけか、日本の鎧兜の保存もあった。大きくピカピカだった。『TOLEDO その歴史と芸術』日本語版(6ユ-ロ)を買う。

【 アルカサ-ルから見る景色。メセタ高原、ラ・マンチャ。】

      【 ソコドベ-ル広場に戻る。】

     【 14:00~40、ソコドベ-ル広場から観光バスに乗る。】
  タホ川を渡ってトレド外周を一周するコ-スである。

            【 タホ川を渡る。】
 タホ川を渡る。余談だが、タホ川はスペインからポルトガルへ流れ、ポルトガルではテ-ジョ川と呼ばれ、リスボンで大西洋に流れ込む。その河口は海のように広くり、大航海時代、ポルトガルの大航海の拠点であっ。じゅうようなことは、このテ-ジョ川・タホ川が、他のヨ-ロッパ地域と異なり、中流から上流まで内陸航路として開発されず、内陸発展をもたらさなかったことが、イベリア半島を遅れた地域にしてしまったということである。

 

 

       【 この建物の見学、逃す 】

       【 トレドを去るタホ川 】

     【 この建物も行き逃す。】
 15:20、ホテルへ帰る。昨夜車を駐めた場所がなんと駐車違反で罰金をと取られる事になった。

    【 16:00,トレドをたつ。】
 ラ・マンチャの深奥部、アル・マグロへ向かう。高須くん運転。N401号→Ciudad Real→アルマグロをめざしたが、のっけから、CM42号に乗り入れる。しかしおかげで、Consuegraと、 Canpo de Crioptana の風車を拝めることができラッキ-だった。

    【 Consoegra 】

    【 またCM42を行ってしまった。】

  【 まだCompo de Criptanaではないと思うが、、、。】

  【 というのは、de San Juanのてまえだったから。】

    【 カンポ・デ・クリプタ-ナかも。】
 東南部深く行ってしまい、ある・マグロからは遠坂っている。
 ようやく17:23、Tomellosoで西へ行くA43号線へ曲がる。
 17:37、給油。73.05リッタ-×@1.369ユ-ロ=100.00ユ-ロ。方向がよくわからなくなり、ガソリンスタンドで現地のひとに聞くと、先導してくれる。新切である。日本でここまで期待できるかな?

    【 給油したガソリン・スタンドをあとにする。】

     【 先導してくれた地元車】
 多分、A43→A4南→CM4124→出口175で降り、更に田舎道を西進。

   18:30先導車、とまる。多分、Balanos de Calatravaという町であろう。この間ヘッドライトをつけずスモ-ルランプだけで走っていたらしく、指摘された。持ちあわせていた贈答用タオルを、感謝の気持ちでわたした。

  18:36,アルマグロの町に入る。すでに夕闇である。大きな通りでなく、街頭はほとんどなく、暗く、漆黒の闇とも思えた。しかし、ここがラ・マンチャ、深奥部だとおもうと、感無量でもあった。
 神尾くんが3~4年前、泊まったことがあるというホテル「Retiro de Maestre」に19:05,到着。なんと、5ツ星クラスであった。

       【 町の中心 マヨ-ル広場。右側から。】

     【 同じく。 左側から。】

      【 レ-ス、刺繍店。このレ-スを買う。】
 レ-ス店の名は、「Santander ---------」。13点、147.15ユ-ロ。

       【 レ-ス店の前。マヨ-ル広場 】
 夕食は、「ARTES EV VILLAR」で過ごす。

1月8日(日)

 【 朝散策。マヨ-ル広場にアル・マグロ公の銅像を見る。】
そうか、チリの初代提督は、この地方の人だったのか。それにしても、大航海時代のスペインの植民地経営は血塗られているのだが。
 10:30、ホテル精算、86.40ユ-ロ。
 高速道路に乗らず、N-401号線を行くメセタ高原ど真ん中か。

   【 11:55、CIUDAD REALのまちなかを通る。】
 シウダッド・レアルとは「王の新しい都市」の意味とのこと、おそらく1492年以降、作られたのだろう。
 トレド手前で、高速A42号線となる。

   【 12:14、左にトレドのアルカサ-ルを見る。】
 12:40,休憩したあと一路マドリッドへ。

    【 ついに13:10、マドリッドが見えて来る。
 高速A42号線はいつの間にか都市の通りとなり、14:00、HOTEL PLAZA MAYORに到着。
 15:30、アト-チャ駅内のAVISに行き、レンタカ-を返す。

    【 15:30、アト-チャ駅内AVIS の店舗 】

    【 15:57~18:20、プラド美術館 】

 駆け足同然に、ほんの触りしか、見なかった。1819年開館。建築家ファン・デ・ビリャヌエバ。
 ・El Descendimient 十字架降下 
 ・El Jardin de las Delicias 快楽の園 ボッシュ
 ・La Anunciacion 受胎告知
 ・El Transito la Virgen 聖母被昇天
 ・La Adoracion de los Pastores 羊飼いの礼拝
 ・Las Meninas ラス・メニ-ナス  ベラスケス
 ・La Maha Desnuda  裸のマハ 【着衣のマハ、は無し。その後2012年、上野・西洋美術館で見た。】
 ・El Lavatorio 弟子の足を洗うキリスト
 ・Las Tres Garcias 三美神 ル-ベンス
 ネ-デルランドの作家の作品が多いのも、スペインがネ-デルランドを支配下に置いた歴史による。
 短時間できりあげたのも、高須くんがアルカラ通りの王立サン・フェルナンド美術アカデミ-にどうしても行きたいからであったが、20:00到着してみると、なんと、19:00で閉館であった。だから、時間的にむりであった。しかもそこへ行くのに徒歩で行ったし、くたびれて19:00,カフェテリアで休んだところは、目的地まで2~3分のところであった。しかしここには、ゴヤの「イワシの埋葬」という名画があるとのことである。
 21:00~23:30,グランヴィア通りから南へ入ったフラメンコ・タブラオ「Torres Bermejas」。

 ショ-は21:30からはじまった。歌手、踊り子、ギタ-、それぞれに芸風がある。歌手は日本の浪花節のような渋い声、地声を絞りだす。踊り子のステップ、足さばき、靴音はサパテア-ドという。神尾くんによれば、ホアキン・コルテス、アントニオ・ガデス等が一流の男性歌手、男性舞踏家とのこと。小笠原よう子(俳優・菅原謙二の妹)も有名。堪能した。
 【帰国後、映画「フラメンコ・フラメンコ」をみてまた堪能した。そこでは、歌(カンタ)では、ミゲル・ポペタ、ホセ・メルセ-などの男性歌手(バイラオ-ル)、エストレ-ジャ-・モレンテ、ニ-ニャ・パスト-リなどの女性歌手(カンタオ-ラ)、踊り(バイレ)ではサラ・バラス、エヴァ・ジェルバブエ-ナなどの女性ダンサ-(バイラオ-ラ)、イスラエル・ガルヴァン、ファルキ-トなどの男性ダンサ-(バイラオ-ル)、そしてパコ・デ・ルシア、マノロ・サンル-カルなどのギタ-リストが出演している。】
 11:30、ホテル帰着。

1月9日(月)
 8:00、行動開始。
近くのサン・イシドロ教会。マドリッドの守護聖人サン・イシドロを祀る。
8:50、マヨ-ル広場、カエテリアで朝食。
9:45、スペイン広場、ドンキホ-テとサンチョ・パンサ像。
10:00~11:55、王宮。花瓶24ユ-ロ。『La Guerra Civil, Espana 1936~1939』24ユ-ロ。
12:35~30分ほど、チョコラテリア・サン・ヒネスに行き、チュロスをためす。これは揚げ菓子で、チョコラ-テ(熱い液状のチョコレ-ト)にひたして味わうものだった。
 午後は、ソフィア王妃芸術センタ-でピカソ「ゲルニカ」を見る。
 スペインでのスケジュ-ルはこれで大体終わった。夜はカヴァ・バッハ通りのバルのはしごなるものを試しに行ったが、もう少し、違う過ごし方をしたかったが、対案が浮かばず、なにか冴えないバル時間だった。
 22:00、ホテル帰着。