2018年 Eygpt  エジプト 屋外広告物視察   6月21日(日)~7月1日(日)  
  目次 第1章 旅行記
     第2章 屋外広告物視察


第1章 旅行記
1日目 6月24日(日)
  21:20、成田空港をMS(エジプト航空)カイロ直行965便にて離陸する。
今回はベストワ-ルド社の企画である。私たちは過去に、5回、ベストワ-ルド社の企画に世話になっている。(2006年コ-カサス三国、2008年ドバイ・イエ-メン、2010年ウクライナ、2013年バスク、2015年バルト三国・ペテルブルグ)

2日目 エジプト時間6月25日(日)
  3:25、カイロ空港着陸(日本時間10:30)。時差は、7時間。
  6:30、ルクソ-ルに向けてカイロ空港発、乗る前に、成田ではOKだった手持ちの単3乾電池(12本)が没収された。
  7:30,1時間のフライトで、ルクソ-ル空港に着陸(街の東南7km)。チャ-タ-バスでカルナック神殿へむかう。
  車内でガイドのMOHAMED ABD ELWAHABさん(TRIWAYS旅行社)の自己紹介があった。18年前、日本に3年間留学したとのこと。かなり日本語を話せ、日本語でのガイドは問題なかった。通貨の説明があり、1USドル=17エジプトポンド。1エジプトポンド=¥5~6,大体¥7.-である。6日間の彼へのチップは、まとめて一人20USドル。その他の注意事項、(1)クレジットカ-ドは外では(街なか)では使用するな。 (2)ホテルのSAFTY BOXは、中国人がよくトラブルを持ち込むので注意。(3)街中のトイレ・チップは2~3エジプトポンド、など。


 8:48~ カルナック神殿(の中のアムン大神殿)
 この神殿には圧倒されたのひとことに尽きる。(特に列柱室)
 まず、神殿に入る前の参道の両側には羊の頭をしたスフィンクス(ram-headed sfinx)が並ぶ。右側スフィンクスの手前に、船着き場の池がある。これは往時、ナイル河につながっていたという。
 神殿の城壁は高さ(   )m。入り口は第一塔門(the first pylon)と呼ばれる。
 門を通過すると、第一庭で、正面奥には第二塔門が見え、その左右に一対の巨像(高さ  m)が対面しているが、これはラムセス2世像とのことで、顔面はつぶれている。ただし、この像は、第21王朝の大神官でファラオでもあったパネジェムの像、とする説明もある。(現地購入の『エジプト』日本語版、BONECHI社、)
 第一庭内の、左側には諸神の三つの礼拝堂、セリ2世神殿。右側はラムセス3世神殿である(列柱が印象的)。
 第二パイロンを通過すると、巨大な太さの円柱群(towering stone pillars)が所狭しとぬっとそびえる。



 大列柱室(the Great Hypostyle Hall)である。
 太さ(円周)15m。高さ23m。通路両側に計134本。面積5500平米。
 屋根はなく青天井であるが、円柱頭部の飾り(コラム)は、パピルスが開花した様子を表しているとのこと。このホ-ルは、ラムセス1世が計画し、セテイ1世とラムセス2世が立てたとのこと。(「LONLEY  PULANET」より。)


 【 右:トトメス1世オベリスク、左:ハトシェプスト女王のオベリスク 】 
第三パイロンを通過すると右手にトトメス1世オベリスク、左に倒れたオベリスクがころがっている。
 10mくらいですぐ次の第四パイロンであるが、第四パイロンを入った左手の、天衝くばかりの高さ30mのオベリスクは、ハトシェプスト女王のオベリスクで、エジプト石柱では最高の高さである。これらのオベリスクは、赤みかげ石で、ナイルの上流アスワンから運ばれた。オベリスク1本約300トン。
 オベリスクはどのように建てられたか?については、英国人のワンゲル・ワッサンが説明していると、ガイドのムハ氏。


          【 アムン神本殿 】
 第五パイロンとまた列柱群を通り、奥まった突き当りにこれも巨大な室がある。これがアムン神の本殿にあたる。(Sanctuary of Amun, verycore of the temple.または、Sacred Barque Sanctuary)
  アムン神とは何か。エジプトの神は、ラ-、とよばれることは知っている。太陽神である。但し、純粋に太陽神(ラ-)を唯一の神として祭られた時期は、古王国時代、中王国時代であった。アムン神が登場したのは、新王国時代で、このテ-ベ地方(いまのルクソ-ル地方)の土着神たるアミン神が太陽神と結合して(アムン・ラ-)、国家最高神となった。新王国時代で太陽神(ラ-)唯一神があがめられたのは、アメンホ-テプ3世のアマルナ時代だけである。彼の妃がネフェルトイテイで、ツタンカ-メンは息子である。アマルナ王朝に対しては反発もあった。ツタンカ-メンガ短命であったのはその結果か?
 このカルナック神殿が破壊されたのは、ずっとくだって、アケメネス・ペルシアによる。その後アレクザンダ-大王の後継者により再建された。
 本殿内壁面もオベリスクにも列柱にもありとあらゆる所がヒエログリフが刻まれて装飾されている。ヒエログリフの解読はシャンポリオンで有名だが、ヒエログリフの辞書完成は、アラン・ガ-ドナ-(英国人 1879~1963)による。(←ガイドのムハ氏の説明)
 さて、回れ右して、途中から神殿の左外にでて、「聖なる池」をながめる。周辺に、フンコロガシ(スカラベ、scarab)の拡大石像がある。フンコロガシなる昆虫は、エジプトでは聖なる生物である。

 第二パイロン内側の列柱室にもどり、その偉容さを再確認せざるをえない。
これらの石もアスワンから運ばれてきたのか? 宿題を残して、カルナック神殿(のアムン神殿)を辞した。
古代ギリシア、古代ロ-マの神殿は私はまだ見たことがないが、ここカルナック神殿は恐らくそれらに匹敵するか、または、凌ぐのではないだろうか。これも自分の宿題として残った。

 10:50,ナイル河に停泊中のエスメラルダに到着した。つよい太陽光の中、もう外で活動はできない。今日からこの船に3泊し、上流のアスワンまで行くのである。
外気温は40~42度もあったので、船内に入るとひんやりした。ハイビスカスジュ-スがwelcome  drink として、ふるまわれた。
13:00の昼食に地場のワイン「obelisk」をのむ。夕方までシェスタ。外に出るのは危険であった。
 17:55,夕方観光に出発。
 18:10~18:30,PHILIP JEWERY。 18金のカルト-シュなどを見学。

 18:40~19;30、ルクソ-ル神殿。
 正門に立つ。ここは、さっきのアムン大神殿の付属神殿である。
塔門左右にラムセス2世の一対の座像、二対の立像。塔門左にオベリスク1本。右にあったオベリスクはパリ、コンコルド広場に持ち去られている。パリで見たのはここにあったのだ。ナポレオンの時?


       【 ラムセス2世の中庭。】

中庭東半分くらいに、建物(モスク。ガ-マ・アブ-・イル・ハッガ-グ)がせりだしている。
アメンホ-テプ3世列柱廊→アメンホ-テプ3世中庭へとたどる。ひるまカルナック神殿をみているので、ここの巨大さにも麻痺してしまった。


      『 アムン神ル-ム 】
 ここでUタ-ンし、アメンポ-テプ3世本殿(Barque Shrine of Amun)の奥までは行かなかった。
 エスメラルダ号に戻り、夕食。「OBLISK」1ボトル。 ベリ-ダンスショ-は官能的でなかった。ス-フィ-ダンスは2013年トルコ( コンヤ )で見た時より上手にかんじた。エジプトにもあったことに驚く。 
 売店で「EYGPT」ガイドブックを日本語版と英語版で買う。各、US20ドル。英語版ではどのように説明されているのか、興味があった。 
 エスメラルダ号にて第一泊。

3日目 6月26日(火)
 今日は、ナイル河西岸の「王家の谷」へ行き、ナイル河をのぼりエドフまでいく日程である。
 まず、バスで12Km南へ行って、数年前にできたという橋を、ナイル河の対岸(西岸)にわたる。それから12kmぶん北上し、集落や畑地の中をとうるが、
カラカラに乾いた乾燥地帯である。。ナイル河にはワニはいない?
 左へカ-ブして山間部へはいる。 右側、丘のうえに、Haward Carter's House(ツタンカ-メン墓の発見者の宿舎、現在博物館)を見る。日本の早稲田大学吉村教授の研究ハウスもこのあたりで、彼が来ると日の丸が掲揚去れるとのこと。フランス隊の研究Houseの説明もガイドさんからなされたが、ききもらしてしまった。 
 7:40,ファラオたち王家の墓が65ヶ所発見されている「王家の谷 Vally of the Kings」に着く。


              【 入り口 】
10分くらいトレインに乗りかえ、エントランスで下りて炎天下のなか、8:10,まず、右手の、第20王朝、ラムセス4世の墓( KV4 )にはいる。傾斜のないトンネルが35m。1世紀から3世紀にかけ、迫害をのがれてコプト教徒たちがこの中で生活した彼らの落書きの説明がなされたが、どれだか分からなかった。 天井にラムセス4世の「カリト-シュ」があると。つきあたりの壁。
 ・外へ出て、メイン通路を少しあがり、左手の、ラムセス2世の息子たち(98人)の墓地(KV5)の入り口は格子になっていて入れず。格子越しにのぞいただけで何も分からず。8:25。
 ・次に、第18王朝、ツタンカ-メン(TUT ANKH AMUN)の墓




         【 ツタンカ-メンの墓、と思う? 】
入り口入ると、ちょっとした階段をおり、下り勾配の通路の先に「前室」がある。「前室」に入って右に「玄室」があり、黄金のマスクの棺(かれのミイラ安置)を見下ろせる。ミイラそのものは露出していなかった。短命のファラオ、ツタンカ-メン。身長は164cm。盗難に会わず、完全なかたちで発見されたのは、1922年11月4日。奇跡だ。ハワ-ド・カ-タ-とパトロンのカ-ナヴォン卿による。発見時、棺のうえには、かわいた矢車草のの花がおかれていた(by his young wife アンケセナ-メン) ハワ-ド・カ-タ-はそれが印象深かったと行っている。墓そのものは奥深くはなく、比較的こじんまりとした王墓の印象であった。
 ・9:00、第19王朝メルエンブタハの墓(KV8)。 MERENP TAH。ラムセス2世の跡継ぎで、かれの13番目の息子。玄室(Burial Chamber)は入り口の高さより78mも深いところにあり、そこに至る下り坂の途中に「WELL ROOM」があったほどである。見終わってのぼってきたエントランスで、係員が写真とって良い、というので1枚撮った。
 ・ラムセス2世の墓(KV7) 。 この大ファラオの墓は本日、非公開であった。
 ・最後に、ラムセス9世の墓(KV6)。入ったが奥行きはみじかく、50mもなかった記憶である。
 まとめ。「王家の谷」の墓は約3500年前からである。それ以前は、5000年前の(サッカラ-の)階段ピラミッド、4500年前の(ギザの)ピラミッドの様に巨大で、目立っていたが、この時代、目立たない場所に目立たないように作られたのである。全て新王国時代の王墓である。

 9:45、王家の谷を発つ。
 9:50~10:35、石材店に立ち寄る。一番固い石は玄武岩とのこと。ここらでは、多くアラバスタ-(雪花石膏)が用いられる。但し水の使用は厳禁。アラバスタ-といえば、2014年、南フランスカルカソンヌの城内で見て以来である。めのう(onex)のぐい飲みを買う。20us$×3=60us$。つきまとっていた子供達になんだかわからぬが、1us$のバクシ-シ(喜捨)を与えた。かれらは、getするまでつきまとう。

 ハトシェプスト女王葬祭殿


 岩山の背後に「王家の谷」がある地理関係である。
 葬祭殿の意味はよくわからないが、英語で「Memorial Temple of Hatshepsut」というから、追憶寺院とか記念寺院とかの意味であろう。ハトシェプスト女王は、
第(  )王朝のファラオである。 ほとんど、近代建築のように見える。神殿の横幅は100m。第一テラス、第二テラス、第三テラスとあり、三層である。各テラスにむけて、列柱、柱廊( colonnade)が並ぶ。 第二テラスの柱廊の左半分の部分は「 Punt  Colonnade 」と呼ばれる。puntとは、今のソマリア(紅海沿岸)のこと。
 背後の岩肌は荒々しい石灰岩(limestone)で、高さ300m。神殿の奥は礼拝堂として、その岩山の中に掘られている。建築家は当時の有名なセンム-トによる。 (その1200年前にインホテップという大建築家もいた。)私は第二テラスで仲間の一行を見失い、第三テラスとその左半分神殿内に一行を探しに探しに行ったが、一行は第二テラスの左側列柱のあたりから出てきた。
 この寺院のポイントは、女性でもファラオに成れたということ。彼女はトトメス1世の妻であった。
 この神殿で、1997年11月17日、イスラム原理主義テロ集団による無差別銃撃事件があり、61名の観光客が悲惨にも犠牲になった(スイス人36名、日本人10名、ドイツ人4名、エジプト人警備員2名、.......)。
 
 ラムセス2世の妻( ネフェルタリ )の墓は、熱暑の危険を感じて、見送った。
 ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿)はそもそもスケジュ-ルの中に入っていなかった。


 メムノンの巨象はみた。
 顔面は風化で無く、構成している無骨な岩石の塊である。高さ13m(現在の6階建てビルの高さと同じ)、重さ1300トンもある。アメンホ-テプ3世葬祭殿の残された唯一の遺跡である。アメンホ-テプ3世は1380年BC頃。ツタンカ-メンの祖父。

 本日の観光はこれで終わりである。
 ナイル河の船着き場から、モ-タ-ボ-トで対岸(東岸)にわたる。対岸のルクソ-ル神殿がすばらしい。
 エスメラルダ号に帰着すると、まもなく、船が上流へ向けて動きだした。水面はほとんど波はなく、滑るようである。これがあの大河といわれるナイル河であるが、このあたりでは思っていたよりも川幅は狭く、波もたたず、滔々と流れる。 


          【 後方のクル-ザ-】


             【 右窓 】


             【 左窓 】
 17:00、上流のエスナ( Esna )のロック(閘門)を見るべく、屋上デッキに上ったが、なかなかエスナに到着せず、しびれが切れる。《あとで見に行った。》

       
 20:00,夕食。地場ワイン「オマ-ルハイヤ-ム」をボトルでとる。同行のO学園F女史の話に耳をかたむけた。
 オマ-ル・ハイヤ-ムとはなじみある科学者天文学者の名前である。たしかにここは、イスラム文化圏である。
 明晩の船内パ-テイの準備に、売店でガラベ-ヤ(エジプトの民族服)を買う。ミミさんのはスカ-フ2枚おまけで25US$。僕のはくろのロ-ブで、白スカ-フ1枚おまけで10us$。これはタ-バンにもなった。
 船内二泊めである。船は夜中、エドフ(Edfu)の左岸(西岸)に停泊した。 Bahl an-Nil。 

第4日目  6月27日 水曜日

 今日の行動は、エドフ・ホルス神殿をみて、河をのぼり、コムオンボ神殿を見て、アスワンまで行く。
 ここ、エドフという町はグレコロ-マン時代、上エジプトの州都として栄えた。
馭者付きの二人乗りの馬車に乗る。進んでいく街なかの、イスラム世界の景色はこころになじむものがある。



         ホルス神殿( Temple of Horus )

 これも石造で、巨大なパイロンと大列柱室がある。が、新王国時代の建物ではなく、アレキザンダ-大王後のプトレマイオス王朝の、BC.237年から、BC.57年にかけての建造物である。BC57年とは、かのクレオパトラ7世の父の時代である。ギリシャ人の王朝であったから、この地方を支配するために、エジプトの神話の、ホルス神にささげられている。ホルス神とは、オシリス神(男)とイシス神(女)の息子で、鷹(はやぶさ)の姿をしている。黒みかげ石の、鷹(はたぶさ)の姿の一対のホルス像が、36mの高さの第一パイロンの両脇で警護している。
 第一パイロンのなかも巨大な中庭(Court of Offerings)で、左右と後方の3面が柱廊で囲まれ、正面は壁である。その壁に入り口があり、左右にやはり一対の黒御影石のハヤブサ(falcon)が鎮座していたがいまは左のだけが残っている。
 この神殿の本殿(Sanctuary of Horus)は、この先二つの列柱室(hypostyle Halls)と二つの控えの間(Antechambers)の先にある。かっては金のホルス像があった。木造の聖なる舟(barque)が立っているが、オリジナルの物はル-ブル博物館にあると。
 二つ目の控えの間から東外へでると、本殿の裏へまわる回廊となる。そこの右下にナイロメ-タ-がある。
神殿(城壁)の面積、奥行き160m、横幅80m。

 9:00,エスメラルダ号に戻る。船、出航する。
 水、1.5リットルのボトルで2本で1usドル。
 エジプト綿のTシャツ 20USドル×8枚、買う。(料金は7着分で可) ブランドはケリ-・トラ-でエジプト綿のメ-カ-。孫6名の名前をヒエログリフで刺繍してもらう。 はいていた左靴のソ-ルが剥げてきたので修理、3ドル、tipのみ。
 12:00昼食。 Y女史、N女史と同席。

 コム・オンボ神殿( kom Ombo )
 エドフから65km南、15:45頃、船はナイル東岸に接岸。

       【 船上からのコム・オンボ神殿 】

 砂地の土手をのぼり、2~3分で神殿である。砂は砂漠の砂である。ここはナイル川がカ-ブして突き出た岬のような所らしい。
 こんなに近くて、よくもナイル川の洪水から免れてきたものである。
 いままで巨大な神殿ばかりみてきたので、こじんまりに見える。興味が惹かれたのは、ワニを祭り、ワニのミイラもあるということ。
入場したのは、どうも神殿後部からだったと記憶する。そのためか、記憶が少々、錯乱している
 神殿はあわせてホルス神もまつる左右対象の神殿である。通路も至聖所(←なじめない日本語であるので、本殿とする)も別々で、左側がホルス神殿、右側がソベック(Sobek)神殿である。 古くは、中王国時代の証拠がみられるが、この神殿はずっと下ってプトレマイオス6世の時代の建築である。
  さすがエジプト、と思うのは、列柱室があることで、ホルス神とソベック神に分かれている。 また、壁面や円柱にレリ-フが刻まれていること。その模様は、カレンダ-のレリ-フ、「出産と授乳のレリ-フ」、医療器具のレリ-フ(Relief of Surgical Instruments)、など。
 屋外に円形のナイロメ-タ-が掘られている。
 ワニのミイラ館。ミイラは撮影禁止。  crocodile   arigator

 17:45、アスワンへ向け夕日のを出航。tea time に上部デッキへ出ると、満月に近い月が昇った。 

ドビッシ-のピアノ曲「月の光」を、i-padのyou tubeで聴く。辻井喬行さんのピアノ。
 19:30,夕食。
 21:00,ガラベ-ヤ・パ-テイ。もりあがった。ギリシア人団体と踊った。Niovi、28才。 
 夜中に、アスワン左岸に(上流からは右岸)につく。

第5日目 6月28日(木曜日)
 アスワンで目覚める。ルクソ-ルから200km、コムオンボから46km。
 5:00,起床。朝食に梅干し、キムチが食卓にでる。ベストワ-ルド社の定番。



       【 アスワンダムより上流を見る】

今日は、アブシンベル神殿へむかうが、まず、アスワンダムをわたる(6:53)。
左にイシス神殿のある(明日行く)フィラエ島をみる。
このダムは、1898~1902年完成。(日露戦争の前だ。日露戦争1904~1905年) 長さ2140m。高さ51m。この工事で、上流のヌビア人集落44ケ村が水没。かれらはコム・オンボに移住。
 7:01,アスワン大学入り口。 7:05,検問。 ヌビア砂漠、ワ-デイファリファ砂漠。8:45~8:55,途中唯一の休憩。


 トツカ(tsuca)砂漠、ムバラク大統領時代の運河わたる。幅10mくらい、なみなみとした水量。
 バス車内でエジプト・チョコレ-トの注文があった。ブランド名「ネフェタリ(ラムセス2世夫人)」(パシュテル社)12ヶ入り、200g。賞味期限8ケ月。お土産様に15ヶ買う。 ×8usドル=120us (1ドル=17.8エジプトポンド、 1エジプトポンド=¥6.5)
 以下は、ガイド・ムハ氏の説明メモ。
  ・羊の取引 一匹6万円。
 ・エジプトは主食は小麦。70%を輸入。
 ・アラブ人の国家は17. 日本人は援助するも偉ぶらない。
 ・
 10::00、アブシンベル村境に入る。ユネスコの労働者宿舎。 10:12,パ-キング着。


            【 ナセル湖 】
アブシンベル神殿 (Great Temple of RamusesⅡ)
 


 ・ルクソ-ルより700km。
 ・設置理由----南方のヌビア人にたいする抑え。金取引の独占のため。 Byラムセス2世(在位 BC1274~1244)
 ・アスワン・ハイダム建設による水没危険から、奥行き210mback、高さ68mup。1964~1968年。
 ・岩山の中にド-ムを堀り、神殿を収める。
 ・入り口ファサ-ドの四像について----左から・とし若いラムセスⅡ、落ちた頭と冠、壮年のラムセスⅡ、とし老いたラムセスⅡ。 (以上4像)
                 30mhigh、幅35m wide。
 ・ド-ム内突きあたりの至聖所の四神について
                ----頭のない神(プタハ像)、アムラ神(アムン・ラ-)ラムセス2世、ホルム神(ラ-・ホルフクテイ) 
 ・太陽暦、天文学  2月22日ラムセス2世の生誕日と、10月22日ラムセス2世の即位日に、像に日が差し込む。
            または6月21日と12月21日の、夏至と冬至の日に。  どちら?
 ・カ-デイッシュの戦い(BC.1274年、対ヒッタイト)の平和条約文のレリ-フがある。大列柱室の左がわ3本目と4本目に間にある。

         【  大神殿 内部へ。 】
 
 大神殿を出て、みぎへ約5分、小神殿がある。
・小神殿( Temple of Hathor  ハトホフ神殿 ) 

 ・ラムセス2世が妻ネフェルトアリの為に建造。ラムセス2世は妻300人と言われる。
 ・入り口ファサ-ド----ラムセス2世、ハトフル神・雄牛(ネフェルトアリ)、ラムセス2世、(入り口)、ラムセス2世、ハトフル神・雄牛(ネフェルトアリ)、ラムセス2世 以上6像
    ・列柱室、柱の上----ネフェルトアリ、ハトフル神、イシス神   内部は大神殿より優雅である。(ガイドさん)
 ・神殿の前は、アスワンハイダムにせき止められたナイル河(ナセル湖)が満々と広がる。対岸まで5km以上はあるとのこと。アスワン・ハイダムを起点に長さ500km。そのうちエジプト領土内で300km、ス-ダン領土内で200km。アスワン・ハイダムが爆破されれば1000km下流のカイロ市も60mの深さに水没するとのことだ。世界最大の人造湖である。
 もう1回、大神殿まで戻って写真を撮り直ししたりして、みんなから遅れ、 見失い、焦って早足になったりして、息が上がりかけ危険であった。たどり着いた食堂で水をぶっかけられ、こと無きをえた。 12:0食事。 

 13:15,アブシンベルをはなれ、アスワンへもどる。
 途中、14:40~50,休憩。気温48度C。 15:35,東へおおきくカ-ブ。 16:35~45,ワ-デイ・ファリファ砂漠のふちで休憩、その砂踏みに行く。
 17:00,ガラス細工工場にたちより、香水ビンの製造をみる。砂漠の砂を700度Cのガスバ-ナ-で焼いて製造する。250CCのロ-タスの香水を、小分けビン5個付きで買った。
 18:20、エスメラルダに帰着。
 21:00,ヌビアン・ショ-を見る。 ギリシャ人・グル-プは明日、帰国する。

第6日目 6月29日(金曜)


 今日は、イシス神殿とアスワンハイダムを見学して、午後、空路、カイロへ飛ぶ。
 6:15起床、朝食後、8:15,出発。もうエスメラルダ号には戻らない。さらばエスメラルダ、贅沢だったクル-ジングよ! 毎日船室へ戻ったとき、バスタオルで作られた、ワニや、猿や、(   )がでむかえてくれたものだった。

          【 アスワンの港、見納め。】

 サラヒ!(おはよう)
 8:30、バス出発。アスワンダム脇からイシス神殿のある島へモ-タ-ボ-トでわたる。
アスワンダムは、下から見上げる機会はなかったが、高さ51m、長さ2140m。


         【 フィラエ(アギルギア)島 】
 イシス神殿はもともと、プトレマイオス時代にフイラエ島に建設されたが、アスワンダムの建造(1898~1902年)により水没した。その後アスワンハイダムの建造(1960~1971)により水面上に現れたが、今度は水流にさらされ神殿崩壊の危機にさらされたため、1972~1980年、解体され、いまの島(アギルギア島)に移動されている。一昨日、エドフで見学したホルス神殿のホルス神を、イシス神はここ、フィラエ島でうんだとのこと。イシスのだんなオシリスの聖地の島(ビガ島)は半水没、半冠水しているとのこと。
 船着き場(Boot Landing)から上陸し、あずまやの先、両側に列柱のある外庭(Outer Temple Court)に圧倒されながら行くと、人物のレリ-フが鮮明な第一塔門(First Pylon)が18mの高さでそびえる。 この中がイシス神殿である。ホルス神をうんだレリ-フの説明(Birth House)は聴き損ねた。第二パイロンのさきは聖域である。
 私は島を一周した。神殿の東側にあるハトフル神殿のたたずまいが印象に残った。弦楽器を弾く猿を含む演奏家たちや、こどもの神・ベス神のレリ-フで装飾されている。(←自分では読み解けない。) トラヤヌスのあずまやで一行に合流した。
 イシス神はロ-マ帝国時代までには、すべてのエジプトの神々の中で最もポピュラ-な神として、ヨ-ロッパではブリテン島にいたるまで、崇拝されていた。「イシス」は聖母マリアとの比較で研究書その他に登場する。「イシス」についてはよくわからないで来たが、今回、その聖地に来たことで多少なりともわかり、溜飲がさがった思いである。
 帰りのボ-トのなかで、人相の悪い(と感じた)男がいた。後できくと、観光警察官だとのこと。悪いことをした。
 水平線に、アスワンダムが横切り、水面は若干、波立って、風があった。
 10:25,バス発。 軍事基地のわきを通る。アスワンダムはいざ他国との戦争となれば、エジプトにとって最大の防衛地点(の一つ)であろう。他国にとっては戦略的攻撃目標で有ろう。
 アスワン市内にもどり、10:45~11:50,ナイル川を望めるレストランで昼食をとる。
 12:15~25、アスワン・ハイダムに行く。 1960~1971年建造。長さ3600m、高さ111m. ダムの上からの眺望。高さの実感が沸かず、ひたすら上流に目をこらしてみる。 ここを起点にできたナセル湖は世界最大の人造湖。長さ510km。面積5250k㎡。幅5km~35km。水量135billion ㎥。
気温が高いこともあり、10分間程しか滞在しなかったが、ハイダムの全景を見ることができず残念であった。近くに、このハイダム建設の大事業を記念するコンクリ-ト製で、ハスの花を表したモニュメントがある。いかにも社会主義的記念物に感じたが、当時、ナセル大統領は親ソビエト共和国的であった。これだけの建造物を作るということは、上り坂のエジプトの国力と、ナセル大統領の統率力・指導力、およびソビエト連邦のしたたかな戦略力を感じざるをえない。
 アスワン空港にむかい、14:20,カイロへ離陸。

 15:20,カイロ空港着陸。 カイロのアラブ名は、イル・カ-ヘラである。西暦973年以来。ファテイマ朝の首都として出発した。
 17:15、まだ開業2~3年目という、Le Meridien Pyramids Hotel & Spa(El Ramaya Sq.-Pyramids)に投宿となった。おおきな交差点に面している。
室内の窓より、クフ王とカフラ-王のピラミッドが望めた。


第7日目 6月30日(土
 今日は、ギザのピラミッド、考古学博物館を見学して、21:00,成田空港へ向けて帰国する日程である。
 7:35ホテル発。 ギザでは、日本人の考古学学者の(     )女史がガイドについた。現地で発掘もおこなっており、書外国の研究者との交流もかなりありそうな方である。
 ギザのピラミッド大地は石灰岩の地盤である。他のピラミッドは砂の上。
 クフ王、カフラ-王、メンカウラ-王、の順に南西方向から北東方向に展開している。
 クフ王のピラミッド---------------- 一辺230m、高さ147m。石は、当ピラミッドの南にある石切り場より算出。それにしても相当な量をまかなったことになるが、間に合ったのか?   
 カフラ-王のピラミッド------------                頭頂部の化粧石は石灰岩、ヘロ湾(←どこ?)より運んだ。
 メンカウラ-王のピラミッド--------
 ・ミイラ造りは70日館かかるが、クフ王のピラミッドからミイラは一体も出てきていない。
 ・当時、鉄器文化ではなく、青銅器文化である。 鉄器使用はロ-マ時代から。
 ・BC5世紀、ギリシャのヘロドトスがギザのピラミッドを見に来ている。
8:20~8:45、Grand Pyramid  of Khufuに入場。勝手の盗掘入り口より。22mは水平に進む。そこから斜めにあがる。76歩、45m、で玄室に至る。



 9:00~9:15,ピラミッドの絶景ポイント。
 例の観光警察官が我々を撮影してくれようとしたが、チップを要求される気がして断った。
クフ王の西側に「太陽の船」館、早稲田大学の研究棟がある。
9:25~10:15,スフィンクス見学。
 
カガニ神殿---ミイラをつくる場所。(ということは、カフラ-王とメンカウラ-王はここでミイラにされた?)
  www.aeraweb.or-----------なんのことだったか?
10:20~11:15,労働者の住居街あとの見学。
   カラスの壁遺跡に特別入場(普通は非公開)
 斜面にかれらのお墓。  
 Petety Tomb
 Ptah Shepsw Tomb    
  第一~第二王朝では殉死制度があったが、第三以降は無い。ということは、第4王朝のころ、クフ王のころはなかったことになる。

 昼食(←どこで摂ったか思い出せない)。 出発12:35.
 12:40~13:10、パピルス店。(2016年ウズベキスタンのサマルカンドで、サマルカンド・ペ-パ-店にはいってことあり。)

13:45~16:30,エジプト考古学博物館


 1897~1901年、フランス人建築家により建設。
 観光客がたくさんいて、ゆっくり回れず、世界的に大人気である。手狭のため、ギザのアレキサンドリア・ロ-ドに新館を建設中。(日本のODAが半額出資)
  【 1997.9.18,ここの観光バスをイスラム原理主義者グル-プが銃撃、ドイツ人ら10名死亡。 10.30死刑判決。これに反発し彼らは1997.11.17
    ルクソ-ル西岸のハトシェプスト葬祭殿で無差別銃撃事件を起こす。】
 まず、2階のツタンカ-メンの部屋→1階の王朝別展示→2階のMumm室、の順でまわる。
 《ツタンカ-メンの部屋》メモした物
   玉座----木製、金貼り、貴石を嵌めこむ。 妃に香油を塗らせるツタンカ-メン図。

       【 ツタンカ-メン玉座 】
   トランペット。扇子(ダチョウの羽、把手は象牙)。おりたたみベッド。ツタンカ-メン----身長は164Cm。
   犬。 矢車菊(王妃アンクエスアメンが棺の上においた花。No Photo )、日傘、アクセサリ-、ブレスレット、首飾りリング、いずれも金ピカ。
   王冠を頂いたハヤブサの像(ホルス神?)
   ひつぎの中身、蓋は三つ。(←ペトリュ-シカに似ている。)
   黄金のマスク。(ミイラ自体はルクソ-ルの王墓で公開、というが、見たっけ?)
   大きな櫃(ひつ)、メモとり忘れで説明思い出せず。
 《1階》
   中王国----スフィンクス、石棺(その中)、将軍兼神官Rahotep(ラ-ヘテプ) and his wife(ネフェルト)像
   古王国-----クフ王像(小型、7.5cm。彼のかたちはこれしか残っていない)、クフ王のハンコウ、クフ王の母の内臓と棺(アラバスタ-製、彼女の墓はクフ王            ピラミッドの前にある)、4500前のホルス神、ジョアモ-ルの木(?)木像
   1階右角にシャンポリオンのロセttッスト-ンの写真がある。
 《2階Mummy室》
    Room56-----トトメスⅠ、 トトメスⅡ、ハトシェプスト、トトメスⅢ、アメンホ-テプⅡ、トトメスⅣ、Merenptah、セテイⅡ、ラムセスⅡ、アメンホ-テプⅠ、
          Queen Ahmose MERITAMUN 、King Sequnenre Taa Ⅱ、
    Room46(?)-----ラムセスⅢ、ラムセスⅣ、ラムセスⅤ、ラムセスⅨ、High Priest of Amun,PinudjemⅢ、Un Known Man of Mummy、Queen Isetemkheb D,
            Queen Nodjmet、Prince Djedptahjufankh、Queen Maatkare with her Pet Baboon、Queen Nesikhonsu、
 その他、1階中央ギャラリ-東側にアメンホ-テプ3世(アクエンアテン)と妃ネフェルトイテイの巨象、ギャラリ-中央に三角錐のキャップスト-ンがおかれている。
  人混みにつかれ、じっくり見ることができず、ざんねんであった。

 17:00~18:30、デパ-ト・カルフ-ルで暇つぶし。(時間つぶし)
 空港に直結したメリデイアン・エアポ-ト・ホテルで夕食。「サッカラ-」ブランドのビ-ルを初めて飲む。
 21:30予定のフライトが遅れて離陸する。

7月1日(日)
 日本は夕方であった。18:26,(エジプト11:26)、成田空港に着陸。ル-タ-と充電器を返却。解散。
---------------------------第1章  終了------------------------------------------

第2章 屋外広告物視察


   【 6月25日 ルクソ-ル空港 ロビ- 】


   【 6月25日 ルクソ-ル市内 広場 自立型 】


   【 6月26日 ルクソ-ル市内 ナイル河沿岸 】 


   【 6月27日 エドフ市内 壁面 タ-ポリン 】


     【 6月27日 エドフ市内 壁面 タ-ポリン 】


  【 6月28日 アスワンダム ウェルカム・サイン 】 


   【 6月28日 アスワン市内 壁面広告 】


   【 6月28日 アスワン市内 屋上広告 】


      【 6月28日 アスワン市内 自立看板 】


      【 6月28日 アスワン市内 建物(バルコニ-)】


         【 6月30日 カイロ市内 】


            【 6月30日 カイロ市内 】


             【 6月30日 カイロ市内 】


        【 6月30日 カイロ市内 (媒体--PETRA社) 】


         【 6月30日 カイロ市内 】


           【 6月30日 カイロ市内 】


          【 6月30日 カイロ市内 】


          【 6月30日 カイロ市内 】


           【 6月30日 カイロ市内 】


          【 6月30日 カイロ市内 】



            【 6月30日 カイロ市内 】


 【 6月30日 カイロ市内  エジプトでも橋桁に広告掲出はOKのようである。
          日本では禁止場所である。】


           【 6月30日 カイロ市内 】


            【 6月30日 カイロ市内 】


       【 6月30日 カイロ市内。 「Smarty Pub」型。】

 ------------------------------------以上、EYGPT、終了。---------------------------------