2015年バルト三国・ペテルブルグ

      2015(平成27)年 8月17日(月)~8月25日(火) 9日間

      Ⅰ. バルト三国及びサンクトペテルブルグの屋外広告物視察研修
          (『総合報道』紙2015年11月25日号掲載文に一部加筆・修正)
      Ⅱ. 屋外広告物ギャラリ-
      Ⅲ. 旅行記

Ⅰ、屋外広告物視察 (『総合報道』紙2015年11月25日号掲載文に加筆・修正)
  広告物メインに視察
 この夏(8月17日~25日)、北欧バルト三国とロシア・サンクト・ペテルブルグにて、自立広告・壁面サイン・屋上広告を中心に屋外広告物視察をおこなった。
 バルト三国は、2010年に訪れたのウクライナと同じく、旧ソ連圏であるが、こちらも広告物の量は予想以上に多く、かつ目をみはる規模のものも多く、広告状況の活発さを感じた。地震は非常に少ないが、設計および工事はしっかりしている印象である。
 まずバルト三国とは、1990年代にソビエト連邦より独立したリトアニア、ラトヴィア、エストニアの各共和国とで、面積はそれぞれ日本の6分の一から9分の1、人口は130~290万人くらいだが、国土は全体的に平旦で、政治的には三国とも北大西洋条約機構(NATO)に加盟、通貨は共にユ―ロである。

 (1)リトアニア共和国       
 「日本のシンドラ―・杉原千畝(ちうね)」さんでも知られてきた国である。カウナス市にのこる旧日本公使館は今、杉原記念館として残る。第二次世界大戦中、杉原さんが発行したナチスからのがれる「命のヴィザ」によって多くのユダヤ人が生き延びた。そのなかには、(米国)シカゴ・マ-カンタイル取引所(先物取引き所)の創設者レオ・メラメド氏も居るとのことである(日経新聞2016年3月11日号)。 
  さて、この国での見ごたえのある広告物は、首都ヴィリニュス市郊外の、主柱をフォ―クに見立て、野菜を突き刺す大型自立広告(写真①)と、カウナス市内の、赤いパジャマと黒いパイプをくわえた男の大壁面広告(②)であった。前者はインクジェットプリントと造形を組み合わせたもので、後者は壁面に直接スプレ―ペイントしたものといわれ、両方ともたぐいまれな独創性を感じた。
 自立型では縦10m×横30mくらいの大型サイズや、大型壁面広告もたくさんあったが、屋上広告は少なく一つしか見えなかったのが残念だった。

                               【写真①】                

                               【写真②】

(2)ラトヴィア共和国
 中世ハンザ同盟の主要都市として知られる首都リ-ガでは、大聖堂尖塔の改修工事に、なんと巨大なインクジェットシ―トの養生幕(写真③)がかかっていた。以前、他国で見た大聖堂の養生幕は単に黒の網状幕だったものだが…。また、壁面広告も多かった。

                  【画像③】

 (3)エストニア共和国       
  この国はインタ―ネット先進国で・テレビ電話のスカイプ発祥の国であり、大相撲元大関把瑠都(バルト)関出身の国であるが、この国でも、乗り物のラッピング(窓も許可、写真④)やインクジェットはもちろん定番である。本年はこの国の首都タリンが「2015・欧州文化首都」に指定され活況があった。印象にのこったのは、ロシアとの国境の町・ナルヴァの市町村境界標識(写真⑤、⑥)である。単に平板に町名を書くのでなく、立派な造形物であった。

                                【写真④】                            

                              【画像⑥】


 (4)ロシア (サンクト・ペテルブルグ )        
 エストニアからロシアへ入国する際、二時間も入管で待たされ、シェンゲン協定国とのちがいをまざまざと見せつけられたが、サンクト・ペテルブルグの中心街アレクサンドル・ネフスキ―通りの夜間の広告景観は、ビル屋根上の巨大な動画広告(写真⑦)や内照式の多彩なストリート・ファニチャ―(写真⑧)の光に満ち溢れ、西欧の都市かと見まがうばかりである。                            

                             【写真⑦】

                              【写真⑧】

 自立広告物は巨大というほどではないものの、ユニポ―ルにもかかわらずガッシリした構造のものや、ウクライナでおなじみだったユニポ―ル両持ちタイプや、道路をまたぐ道路占用看板(写真⑩)など多彩で楽しめた。広告表現手段は、固定画面のほかに、動画、スクロールタイプ、またこれはロシシア圏の特徴といっていいと思うが、三面変換ボ―ド(写真⑨⑬)が実に多い。 壁面広告は少ない。

                             【写真⑨】

                                    【写真⑩】

 サンクト・ペテルブルグ名物の運河観光船に乗り、マリインスキ―劇場にさしかかると、運河をまたぐ橋桁に広告板(写真⑪)がかかる。これは日本では禁止場所であろう。

                                   【写真⑪】

●交通広告(駅看板)
 サンクト・ペテルブルグの「モスクワ駅」コンコ―スの壁面に、6m×20mくらいの巨大な壁面看板(⑫が二面あったが、これもタ-ポリン製である。「フィンランド駅」では看板類はみかけなかった。メトロの地下深くもぐる高速のエスカレ―ターの中央分離帯には内照式の行灯広告(⑬)がズラリと続く。これはウクライナのキエフのメトロにもあったので、スラブ・ロシア圏の特徴であろう。地下鉄駅は地下に深い。

                                 【写真⑫】

                                  【写真⑬】

●屋外媒体社(製作会社)
  リトアニアでは、BRA社、Logopro社(チェコの会社)、Valkenda社、JC Decaux社(フランス)、また珍しくClear Channel社(米国)をみかけた。
  ラトヴィアでもJC Decauxは、屋外壁面媒体やバス停広告、モリスの広告塔などで多い。
  エストニアでは、Megamedia 社、Neomedia社、Artdepoo社、またこの国でもJCDecaux社の媒体に出会う。
  サンクト・ペテルブルグでは、Volgobalt社、Russ社、POSTER社あたりが大手のようすである。


(7)総論
・自立型は各国とも頑丈で一般に大型化の傾向である。
・壁面広告はバルトで多く見かけ(写真⑭)、ペテルスブルグでは少なかった。
・逆に屋上広告はバルトに少なく、ペテルスブルグでは動画(L E D)タイプとして多い。(写真⑮)
・ストリ―ト・ファニチャ―(特に歩道の電飾自立両面型)も多い。
・デジタル・サイネ―ジも出まわっている。

                              【写真⑭      】

        【写真⑮ アレクサンドル・ネフスキ-通リ、モスクワ駅広場の屋上・動画】

        【写真⑯ アレクサンドル・ネフスキ-通リ、    の屋上・動画】

日本との比較でいえば、
◎道路看板は、車道分離帯中央に屹立したり、車道をまたいだり、道路占用タイプが非常に多い。
◎道路占用媒体としての横断幕も非常にポピュラ―である。(写真⑰、⑱)
◎日本では一時流行ったがその後はそうでもない「三面変換ボード」が多い。
◎広告面素材では鋼板やアルミ複合板とともに、タ―ポリンが実に多く、ペテルスブルグ(モスクワ駅前広場)では屋上広告にタ―ポリンをじかにかぶせた実例があった。(写真⑲)
いずれにせよ、多彩な広告物を楽しめた視察であった。

                    【写真⑰ リトアニアの首都 ヴィリニュスにて。】

                                  【写真⑱】

                               【写真⑲】

Ⅱ.屋外広告物ギャラリ-






Ⅲ.旅行記
1日目 (8月17日、月曜日)
 11:40,スカンジナビア航空にて成田をとび立つ。今回はベストワ⁻ルド社の歴史・地理研修をテ-マの旅で、我々はベストワ-ルド社には5回目の参加である。添乗員のぞき総勢18名。顔見知りが8名いて楽しい。
 デンマ-クの首都コペンハ⁻ゲン空港、現地16:05,着。 日本との時差は7時間遅れ。
 乗り換えてコペンハ-ゲン発21:00発、1時間半とんで、リトアニア共和国の首都ヴィリニュス空港に現地時間23:30,到着。 日本との時差は6時間遅れである。コペンハ-ゲンとの時差は1時間早い。 宿泊ホテルは、Crowne Plaza Hotel Vilinius (MK Ciurlionio St.84 LT-2600, Vilnius)。

2日目(8月18日、火曜)ヴィリニュス滞在
 朝食のあと、ホテル前の通リを日本大使館前まで歩いて往復。そのあと近くのス-パ-マ-ケットを覗く。   Crowne Plaza Hotel Vilniusを、専用バスで出発。今日のコ-スイは、市内観光、午後は郊外のトラカイ城である。
 9:20、聖ペトロ&パウロ教会
  リトアニアはロ-マ・カトリック教徒が多い。この教会は(     )年の創立。
屋内の壁は真っ白な漆喰で、柱も梁も、彫刻物も真っ白である。様式はバッロク建築とのことで、バロックの凍れる音楽と言われる(『地球』による)。音楽CDを2枚買う。
 10:00~10:15,背後の展望台から首都を眺める。展望台というには高度があまりなく中途半端な高さ。
 坂を歩いてくだり、
10:20~35,夜明けの門という所へ行く。かってのヴィリニュスを囲む城門で、9門のうち、今に残るただ一つの城門。築かれたのは、(    )年。
10:46,ヴィリニュスの中心、カテドウロス広場で下車。大聖堂、王宮、城の丘がある。城の丘の上にあるゲデイミナス塔という塔を見上げる。。
 11:00~11:20大聖堂(アルキカテドウラ Bazilika)にはいる。ヴィリニュスの司教座教会である。1253年、カトリックに改宗したミンダウガス大公により創建。彼はリトアニア最初の王位につき、この1253年はリトアニアの建国記念日になっている。現在の建物は、18世紀に大改修されたクラッシック様式建築とされ、ファサ-ドのギリシア神殿式列柱により、ここがキリスト教会大聖堂とは連想できない。この大聖堂をどう位置ずけるか?リトアニア建国のシンボル、で良いだろう。そしてここは、歴代王室の墓所でもある。大聖堂左側には高さ53mの鐘楼が立つ。
  歩いて10分ほどで、聖アンナ(オノス)教会。林の中から、ゴシック様式の尖塔があらわれた。天高く燃え上がるような美しさ!フランボワイアンゴシック(火焔式)建築とのこと。(『地球』による) 別名オノスとはいかなる意味か? リトアニア語でアンナの意味らしい。
 12時から13時まで1時間の自由行動になった。
 どうしようか?地図をみると、旧市街の南の端、さっき寄った「夜明けの門」まで1km位だ。よし、往復してみよう。ビリウス通り、デイジョイ通り、夜明けの門通り、と南下する。途中、右側にヴィリニュス大学前、聖ヨハネ教会前、を通る。
  
        【 聖ヨハネ教会。今はヴィリニュス大学の構内となっている。】
 さらに右側に旧市庁舎前、国立フィルハ-モニ-前などをとうる。
  
          【 旧市庁舎。現在はコンサ-トホ-ル。 】
「夜明けの門」には、12:31に到着し、すぐ回れ右する。復路も同じコ-スだが、旧市庁舎前てまえの右側に、聖カジミエル教会があった。
 
             【 聖カジミエル教会 】
  あとから分かったことだが、夜明けの門の近くに「聖三位一体教会」という教会兼修道院があり、宗派はなんとウクライナ・カトリックで、東方正教の儀式を残しつつ、ロ-マ法王に仕える珍しい宗派だ。これは16世紀ポ-ランド・リトアニア連合国が東方の、ベラル-シ、ウクライナに進出した結果の宗教的妥協の宗派らしい。(『地球』P.196) 珍しいので中を見たかったが時間がなかった。
 帰路は景色が異なり、旧市街を堪能した。12:50,カテドウロ広場の集合時間にまにあった。

 13:00,バス出発。
 13:38,郊外のトラカイ城前に着く。
 トラカイ城を望む湖のこちらのカフェで、14:00~15:00,昼食となり、キビナイを食べる。少数民族カライメ(karaimu. 15世紀、クリミヤからリトアニア大公によって傭兵として連れてこられたトルコ語系の民族。現在約200名)の民族料理で、窯で焼かれたミ-トパイのこと。見かけ餃子に似る。
 トラカイ城は湖に浮かぶ出島にあり、跳ね橋をわたって行く。14世紀後半、チュ-トン騎士団の侵略に備えた城塞で、現在は「トラカイ歴史博物」。中庭はいつかドイツでみた中世の農民軍要塞を思い起こさせる。

       【 トラカイ城  日本語のガイドブックを買う。】
 16:20,トラカイ城発。
 17:20、ヴィリュニスのホテルに帰着。夕食は18階にあるレストランでとる。ビ-ルは「Svyturs」だったか?

第3日目。 8月19日(水) カウナス~ラトビア・リ-ガへ。
 きょうの日程は、首都Vilnius→(A1号線を西へ)→カウナス市→(A1号線、A8号線、A9号線)→シャウレイの十字架の丘→(A12号線を北上、国境をこえラトビア共和国に入り、A8号線)→ラトビアの首都リガ、までである。
 8:00,ホテル発。
 平坦な国道A1を西へ。
 8:20、この旅で一番見応えのある屋外広告物にでくわした。支柱をフォ-クに見立て、トマトを突き刺す看板である。(←写真は本稿第1章の写真②を見てください。)
 9:14,カウナス(kaunas)のインタ-チェンジを降りる。
 カウナスはリトアニア第二の都市。14世紀に記録にあらわれるとのこと。ハンザ同盟の代表部。両大戦間のの22年間は、首都だった(ヴィリニュスがポ-ランドに占領されていたため。)
 9:30~10:45 ひっそりした通りにある杉原記念館(旧日本領事館)到着。住所、Vaizganto 30.Sugihara hause.
 恥ずかしい話だが、昨夜ビ-ルを堪能しすぎて今朝は腹痛におそわれ、杉原記念館にかけこむ思いで到着したのであった。
 さて、第二次世界大戦当時、カウナスはリトアニアの首都であった。1940年7月、日本の領事館に、ナチスからのがれ、ソ連、日本経由でアメリカへ逃れるため日本の通過visaを求めて多くのユダヤ人がおしよせた。その時の領事代理、杉原千畝は本国に何度も許可を求めたが答えはそのたびに「否」。領事館自体も退去をもとめられる時間との戦いの中で、杉原は独断でvisaを発行することを決め、総数2139のvisaを発行し、これによって実際に日本を通過し第三国に渡ることができたユダヤ人は6000人をこえるという。(そのなかにはシカゴマ-カンタイル取引所(金融先物市場)グル-プ名誉会長のレオ・メラメッドもいる。)杉原千畝は日本のシンドラ-とも呼ばれる。
 日本外務省は戦後、これを公式に謝罪した。だが、実際、かれはこの経歴のあとも、ほされた。日本外務省の体質にはいろいろ問題点があるとのことだが、どこまで謝罪されているだろうか。リトアニアでは、ヴィリニュスに彼の名を冠した通りがうまれ、彼を記念した桜の植樹もおこなわれた。【日本では『人道の桜』というオペラが公演されており、2020年の12月、このオペラを鑑賞した。この項、2022年10月加筆。】
 館内では、かれの功績を説明するvideoを見、いまもそのまま残されている彼の執務室とその机を見、座らせてもらった。2階が自宅で、1階がオフィスで、いまもその時のままであるらしい。 
 杉原記念館をあとに、バスは新市街地を通りぬけ西方の旧市街にむかう。途中、聖ミカエル教会とおもわれる建物が見えた。 11:05,カウナス城前でバスは停まる。振り返るとビル壁面にパイプをくゆらした赤シャツの男がえがかれた壁画が望める。(←この壁画については、本稿の第1章、写真②、を見て下さい。)
 カウナス城 中には入場できず、南側面を眺望しただけ。13世紀、ドイツ騎士団領とリトアニア公国の国境がネムナス川(北を流れる)で、ドイツ騎士団の侵略を防ぐためにこの城が築かれ、1363年には騎士団に占領されるも、15世紀に勝利した記念的城塞である。
 となりの聖ギオルギ教会 。内部はバロック風だ。。
 司教座ゲストハウス。
 市庁舎広場
 ベルク-ナスの家は行かなかったと思う。
 この広場の北東カドに(聖ペトロ&パウロ)大聖堂がある。入場する。現在、リトアニアのカトリックの司教座である。
 大聖堂の西側の通リのレストラン、「BERNELIU UZEIGA  ベルネリュ・ウゼイガ」で昼食。ツエペリナイ(Cepelinai、ひき肉をマッシュポテトで包んでで茹でる)を食べる。1ビ-ル+1ワイン。
 通りを北にすスむと右手に「YAKATA・ボ-トの小屋」という日本料理レストランがある。
 バス乗り場近くで、CLEAR CHANNEL社(アメリカ)の屋外媒体看板があった。
 れいの、パイプをくゆらした赤シャツの男の壁面ペイント画は、東がわのすぐまじかだった。
 いま、私がいるのは、バルト三国である。実感がわかない。

 13:27,カウナスを発つ。
 国道A1号線を北西へ。13km位行って、A8号線を一路北東へ。 
 14:01頃、左に頭部が白い台地があった。なんだろうか。
 約80km位行って、PANEVEZYSDEで左折、こんどはE272号線(A9)を同じく80Kmくらい西へ行って、   16:15、シャウレイ(Siavliai)北にある「十字架の丘」に到着。
 こんもりとした丘がびっしりと大小様々なサイズ、形、の十字架でうめつくされて、ある種、異様であるが、暗さは感じず。いようであるが、ここには誰かの遺体や聖骸があるわけでなく、自然発生的にそうなったとのこと。日本語の「世界人類が平和でありますように」も立っていた。
 農家見学、17:02~17:50。 リトアニアは国土の70%が農地で、耕作地も大規模。作業は機械カされ各種、農業機械が倉庫にならんでいる。ベルギ-製の農業機械がある。ここは面積250haで、玉ねぎと人参をおもに栽培している。日本メ-カ-の農機具は目につかなかった。一部の人を除きカタコトの英語も通じなかったが人々は友好的であった。 親日的ともかんじた。リトアニア西部の(     )には、ヨ-ロッパで最大級の日本庭園があるとのこと。
 帰国後、もと日本海上自衛隊海上幕僚長のY氏からおききしたはなしであるが、エストニア海軍の将官から「日本は米国となかが良いそうだがその秘訣をおしえて頂けないか」と聞かれたそうである。バルト三国(リトアニアはその一国)は、もとソヴィエト連邦形成国であったが、隣国ロシアは昨2014年、ウクライナのクリミア半島に電撃的に侵攻し領土化したことに危機感をいだいているようである。バルト三国は既にEUにもNATOにも加盟して集団自衛権を確保しているが、かの国を脅威と感じている。事実、リトアニアからロシア方向は障害になるような高山、沼沢、河川は少なく、一気に進軍が可能な地形とおもわれる。
 ウォッカを振舞われて暑さ凌ぎになった。
 心残りであったが先を急がないとならない。

 18:32,ラトビアの国境をこえた。検問所はない。青地にEUの星マ-クとラトビアの国名が入った標識が立っているだけである。こちら側の住民とあちら側の住民の行き来に、目にみえる規制は感じられない。
 首都リ-ガまでは1時間走り、19:40,ド-ガヴァ川のこちら岸のRadissonBlu Dougava Hotel、に到着。
対岸にそびえる塔はリ-ガ大聖堂ではないだろうか。ホテル・ロビ-の壁時計は三つ、Newyork、Riga、Tokyo 、であった。20:10、散歩に出る。大通ㇼのむかいは国立図書館とのこと。小コンビニ「La TS」。20:30、帰着し夕食は部屋でとる。

 第4日目 8月20日(木) リ-ガ滞在~エストニア・タリンへ。
 Riga中心部は対岸である。ダウガヴァ(Daugava)川にかかるアクメンス橋を渡る。
 まずは、ユ-ゲントシュテイ-ル建築群である。 9:20~9:40.
 Jugenda Stila Nami.  ユ-ゲントシュテイ-ルとはドイツ語で、フランス語ではア-ル・ヌ-ヴォ-。
これは19世紀後半の新芸術運動がラトヴィにもおよんだもので、1900年頃から数十年間という短い期間で集中的に、新市街に建てられている。中心部の4割の建物が、ユ-ゲントシュテイ-ルだという。その特徴は、「建物をア-ト展示場にしてしまったかのような、デフォルメされた人面、悪魔、動植物、美女のオンパレ-ド」。「過度に装飾的なデザイン、曲線や植物模様の多用」である。(「地球の歩き方」による)
 その代表的建築家がミハイル・エイゼンシュタイン(映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインの父)。その建物はアルベルタ通り、エリザベテス通りに集中している。 エリザベテス通りの、10b番地、アルベルタ通りの8番地、13番地、などを堪能した。
 9:58,オペラ座まえで下車し、ここからは歩く。
 自由記念塔。1935年、ラトヴィアの独立を記念してたてられた。高さ51m。頂上の女性像はMilda。ラトヴィアを構成する三つの地域(クルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレ)の連合を表す三つの星を掲げている。ソ連時代にも壊されなかったが、近づくだけでシベリア送りとうわさされる時代もあったとのこと。ロシアのかげはどうしてこのように強いのだろうか。。
 10:04、ライマの時計  自由記念塔の広場にある高さ10mくらいの自立した塔のうえに乗せられている時計。
 10:30 聖ペトロ教会  ルタ-派のプロテスタント教会。ラトビア、エストニアはルタ-派プロテスタントの国である。(リトアニアはカトリック。) 高さ123mの塔の途中にある展望台までエレヴェ-タ-で昇る(高さ72m)。天気が良く、リガ市街が360度、一望できる。北方向にあるリガ大聖堂は尖塔にインクジェットのシ-トをかけられ、修理中の様子。そのすぐ右手に、ダウガヴア川に停泊している大型クル-ズ船が白い。この川こそ、ハンザ同盟の川だったのだ。 しかし今、「ハンザ同盟時代の港は流され、建物で現存するものはない」とのことだ。なにか一つでも、ハンザ同盟の時代のものを見れると思ってきたので、胸をかきむしられるおもいであった。ならば、大ギルド・コンサ-トホ-ルはどうなのか? いま見ているダウガヴァ川の姿に、おもいをはせるばかりである。教会に入板ばかりのところに、ハンザ同盟時代のリ-ガ港の絵がかざられている。ルタ-はの教会はじっくり見たことがなかったが、高い天井やヴォ-ルトなど、カトリックと違わない。ただ、祭壇などは仰々しくなく、ここではピアノが主役であった。
 そのハンザ同盟とは、12世紀から17世紀にかけて栄えた、フランドル~北ドイツ~ポ-ランド~バルト海沿岸のリュ-ベック、ハムブルグ、ケルン、ダンツッヒ、リ-ガ、などの貿易港都市同盟である。最盛期は14世紀。ギルド(職人組合)で有名である。
 市庁舎前広場ブラックヘッドの会館 ブラックヘッドとは、未婚の貿易商人たちの友愛会のこと。この館でコンサ-トやダンスパ-テイが開かれていたが、1941年、ドイツ群の空襲により失われ、1999年に再建。
正面ファサ-ドの上部に大時計。その下の四つのたて溝は、ハンザ同盟の四つの都市(リ-ガ、ハンブルグ、リュ-ベック、ブレ-メン)の象徴で、よっつの都市紋章が浮き彫りされている。 市庁舎も再建され、広場中央に、リ-ガの守護聖人・聖ロ-ランドの像が立つ。
 市庁舎の右をぬけて北方向へ歩むと、尖塔をインクジェットシ-トでおおわれたリ-ガ大聖堂につく。
 11:20~37,リ-ガ大聖堂
 尖塔の高さ90m(シ-トで見えない)。 1211年、僧正アルベルトにより建築開始。バルト三国で最古のキリスト教会。ロマネスク、バロック、と時代を継承する。1776年、塔がたてかえられ、高さ90m。北側の4枚のステンドグラスが有名とか。パイプオルガン(1883年製)も巨大で、パイプは6718本とか。内部は外観ほどい暑さがかんじられなかった。

 「三人兄弟」へむかう。
 途中、純白のカトリック教会を覗く。Our Lady of Sorrows Catholic Church。
 また、なんと、イギリス国教会の教会があった。材料はイギリスより運んできたとのこと。
 11:50、三人兄弟。 建物の名前である。似た建物が三つならんでいる。右端が兄貴格。左端が末っ子格。
 鐘が吊るされた塔で有名な聖ヤコブ教会まえを通る。2001年はリ-ガ800年祭だったという。
 国会議事堂の前も通る。なんと言ってよいか、ラトビアはロシアなどに比し、出しゃばらない国と感じる。
 12:05,スウエ-デン門。現存するリ-ガ唯一の城門。その上は住宅である。スウエ-デン兵がこの住宅をよく利用していたので、この名がある。

 城壁をたどって、火薬庫、ラトビア軍事博物館(入らず)で右に曲がり細道を行くと、やがて右に「大ギルド
コンサ-トホ-ル」(入らず)。みちを挟んで左が「猫の家」12:21~13:45,(昼食)。 ズイル
(茹でた黒豆、Zirni)を食べる。
 「猫の家」からリ-ヴ広場を抜け、カリチュ通りのかどで見応えのある壁面広告を眺め、「ライマの時計」そばでバスにもどり、15:00,リ-ガを発つ。ここからエストニアの首都タリンまで約300kmである。

 16:00,エストニアとの国境。休憩~16:15。サンドイッチ、水、ビ-ル(Saku)を買い込む。
 17:45~18:15,休憩。
 19:15 タリン(Tallin)のホテルに到着。Nordic Hotel Forum。Viru valjak3,)。ドライバ-をねぎらい、一緒に写真を撮る。
 19:50~20:50,ホテル周辺を散歩する。 ホテル~タムッサ-レ公園~エストニア劇場前~ショッピングセンタ-「ソラリス」(この中のレストラン「徳丸」を探すも見つからず。)~エストニア・ドラマ劇場前~ホテル。
 21:30,ホテルの部屋でエストニアのビ-ル「Saku」を味わう。

第5日目 8月21日(金) 午前中タリン滞在~ペテルブルグ。
 ホテルは新市街にあり、パルヌ街道という路面電車の走る大通りに南面している。Hotel Viru、Hotel Estoriaなどの大ホテルと対面している。�
 朝の行動はまず、9:12,アレクサンドル・ネフスキ-聖堂でバスを降りる。Aleksander Nevski Katedral.
もちろんロシア正教教会である。1901年建築。タリンなのに何故これを最初に見なければならないのか、不愉快さを感じた。
 ト-ムペア城の方に歩き、「のっぽのヘルマン」(Pikk Hermann)という名のある塔(高さ50.2m)を見上げてきてから、アレクサンドル・ネフスキ-聖堂に入るが、ここにはほとんど興味がわかず。
 9:50、大聖堂(ト-ムキリク)Toomkirik。城壁が印象的。エストニア最古の教会。1219年デンマ-ク人が
ト-ムペアを占領した時に建築開始。墓所でもある。
 10:05,ト-ムペアの展望台。Toompeaとは、高さ約25mくらいの丘のこと(海抜では約47m)。市街が見下ろせるが絶景というほどの高さではないので、屋根ばかり見えるが、町の区画がわからない。ただ海鳥が頻繁に飛んできて、展望台の手すりなどに身近にとまる。フィンランド湾が近い。
 10:20,2番目の展望台。左手にバル-ンが浮かぶ。
 コフト通りという道をくだり、城壁をかすめ、10:40~11:20,聖ニコラス教会へ行く。Niguliste Kirik。13世紀前半の教会。いまは博物館。1944年にはソ連の空襲もあった。ここでの見ものは二つ。一つは、タテ1.6m×ヨコ7.5mのカンバスの「死のダンス」Surmatants。但し描かれたのは15世紀、ベルント・ノトケなる人物による。もうひとつは、二重の観音開きの主祭壇。普段は第二面が開かれている。
 11:27~市庁舎前広場。(ラエコヤ広場)
 12:00~13:00,昼食。at クルドセ・ノッツ・クルツというエストニア料理専門店。
 城壁の下沿い(ヌンネ通り)をたどってタルン駅前に出る。
 13:20,タルン駅前をチャ-タ-バスはロシア、ペテルブルグに向け、出発した。駅周辺、およびその先に撮りたい広告物がたくさんあったが、カメラを構えておらず、残念なことをした。
 14:40頃、Rakuvereという町をとうる。ここも撮り損ね。ここを右折(南下)し30km行くとRofu村があり、そこが大相撲・大関把瑠都(バルト)凱斗関の出身地である。かれはスウェーデン系エストニア人とのこと。
 14:58~15:10,バス休憩。
 15:36,Johbi(ユフビ)通過。
 16:10,右側に「NARVA」(ナルヴァ)の標識がでる。単なる板切れ一枚の標識ではなく、立派な造形物である。(2006年、コ-カサス旅行でもこのような市町村境界造形物を多く見た。)いよいよロシアとの国境である。バスは変なことをした。みぎがわのかどを曲がると野っぱらみたいなところで10分ほど止まる。それから検問所に入っていく。運転手がわれわれからパスポ-トを集め、下車していずくかへ持っていく。我々は下車しない。20分くらいすると運転手は帰ってきて、16:51,国境の川(ナルヴア川)を渡る。対岸右側にロシア側のイヴァンゴロド城(Ivangorod)が見える。振り返って右手上流にエストニア側のNarva城、その奥にアレクサンドリ教会の塔が見える位置だったと思うが、これは帰国後、読んで知ったこと。
 今度はロシア側の検問所でとまる。降ろされない。(16:52~17:15)。このあと、面とうしのためおろされる。係官たちは無表情、不愉快であった。
 18:16頃、ようやくバスは走り始める。やく2時間、ここに止められたことになる。ここからペテルブルグまであと150km! 平坦な道が続く。
 19:17,カシコヴォ。
 19:47,クラスノエ・セロ?
 19:55,鉄道を陸橋で越え、サンクト・ペテルブルグ市に入ったと思われる。
 20:00~16,バス休憩。 Featon、とはガソリンスタンドの名称?
 20:18,高速に乗る。20:19,環状線へ。20:21,空港との分岐通過。20:23,3cAへ。(路線名?)
 20:29,高速をおり、一般道へ。20:38,フォンタンカ川をわたり、右折して川の北側を走る。左にニコライ聖堂と思われる尖塔が見えた。行く手右側の対岸に巨大煙突が6本ある。20:51,ネフスキ-通りで右折、そして1~2分で、今夜から3晩滞在するColinthia Hotel(Nevsky pr.57、五ッ星)にようやく到着。降り立ったところはまさにアレクサンドル・ネフスキ-通り。西欧の都市と見まがうばかりの光の洪水であった。

第6日 (8月22日、土曜日)
 本日の行動は、午前中ペテルゴフ、午後ツア-ルスコエ・セロ、夜は自由行動。
 9:00,バス出発。両替所に寄った。(ネフスキ-通りを東へ、モスクワ駅手前を右折=リゴフスキ-大通り、そのとうりの右側)
 10:20~12:15,ペテルゴフ着。 サンクトペテルブルグの南西30km、フィンランド湾に面した高台と斜面に展開する、北方戦争に勝利したピョ-トル大帝得意の絶頂にある時代の宮殿である。クロンシュタットとペテルブルグの中間点停泊地である。  完成は1723年(彼の死の2年前)
 まずは高台の「上の庭園」。フランス式。
 大宮殿。(全館写真禁止)
 フィンランド湾がわ斜面に展開する「下の庭園」。カスケ-ド(すべりおちる階段式の噴水のこと)の噴水数64! それ以外にも150以上! 水源は22kmはなれた上流にあり、「上の庭園」で貯め、斜面を16m下に流れ落としている。二列のカスケ-ド下の大池の中央にある金箔のサムソン像。金箔の彫刻像250!斜面下には館の点在。(それらの中に「モン・プレジュ-ル宮殿」フランス語で「私のお気に入り」がある。)。圧倒されたの一語に尽きる。昼近く、食事するところがなく屋台みたいな売店で何かを買い込みそそくさと空腹を満たすのは、絵にならなかった。

 14:05~16:00,ツア-ルスコエ・セロ。
 サンクトペテルブルグの南25kmである。
 トルストイの「戦争と平和」、トロツキ-の諸著作で私には耳になじんでいるところだ。ツア-ルスコエセロはモスクワ均衡にあるものと勘違いしていた。それが、エカテリ-ナ宮殿を見たとき、これだったのかと感嘆した。300m近い長さの、青と白の外壁は、ロシアン・バロックとか。南面は600ヘクタ-ルの公園(フランス古庭園)。建物内部は金ピカすぎてついていけないほどである。かろうじて、「大広間」(1761年大黒屋満太夫がエカテリ-ナ2世に謁見し帰国許可をえた場所)、「琥珀の間」で現実にもどる。この規模といい、装飾といい、広大さといい、ロマノフ朝の権勢を実感する。
 16:00に辞し、16:50、ホテルに戻る。
 18:00~ 自由行動に出かける。まず、歩いてモスクワ駅の広告看板調査に行く。建物にはいると器が大きい。コンコ-ス右手上部の壁面に巨大看板が2面ある。まっすぐプラットホ-ムにでてみる。陸(おか)式でなくフラット面である。右のホ-ムにモスクワ行の高速列車をみる。モスクワ迄4時間とのこと。もっとホ-ムの端まで行って見たかったが、なんとなくビビって引き返す。
 駅前にもどって出て、周辺の建物、屋上の看板、ストリ-トファニチャ-(路上の広告物)を眺める。
 次は食事だ。オクチャ-ブリスカヤ・ホテルのレストラン、ビロジコヴァヤのレストラン、ショッピングセンタ-「ストックマン」の中を探すがいまいち。結局、ビ-フストロガノフのあるCafe(ネフスキ-通りの北面、coffeeshop  company))に入りゆっくりたのしんで、21:50頃ホテルに帰着。

第7日 (8月23日、日曜日)
 朝、コンセルジェにたずねてデジカメ用の電池を、ホテルの1本裏通りにある店まで買いに行ってきた。
 さて今日は、午前中エルミタ-ジュ、午後市内観光、夜はまた自由行動である。
 9:30,バス出発。
 9:50,ニコライ聖堂。入場せず、運河の対岸から眺めただけ。これだけではわからない。 (ゆうがた自由行動で運河クル-ズ線に乗った時、ここを通った。)
 10:05,イサク聖堂。ここも入場せず、観光客めあてにつきまとう民族衣装の人たちと写真を撮っただけ(200ル-ブル)。だが、この聖堂のスケ-ル感はあった。地上の高さ101.5m。1710年創建、1858年完成。

 10:25~13:40,エルミタ-ジュ美術館。
 こここそ、1917年ロシア10月革命の、冬宮、そのものである。建築物そのものは、1762年創建である。広場の中央、ナポレオン戦争を記念した「アレクサンドルの円柱」がある。(逆に、パリのヴァンド-ム広場にはフランス軍がロシヤ軍からうばった大砲でつくったという円柱がある。) この広場の反対側に1827年創建の旧参謀本部とむきあっている。
 美術品はよく下しらべしてこなかったため、もったいなかった。しかし、帰国後、自分で撮った写真と美術本との照合で、少なくとも以下の作品は見たのだ。
 ・レンブラント 「フロ-ラ」
 ・  〃  「ダナエ」
 ・  〃  「放蕩息子の帰還」
 ・レオナルド・ダ・ヴィンチ 「リッタの聖母」
 ・テイツア-ノ  「ダナエ」
 ・ラファエロ  「コネスタビレの聖母」
 ・ラファエロ  「聖家族」
 ・エル・グレコ 「使徒ペテロとパウロ」
 ・ファルコネ  「指を立てて注意するアビル」(彫刻)
 ・クリステイアン・マイヤ- 「玉座」(造形)
 以上、重量級である。
 窓の外、ネヴァ側の対岸に、ペトロパヴロフスク要塞!
 
13:50~14:35 クンスト・カメラ
 エルミタ-ジュ美術館からネヴァ川の宮殿橋を渡った左手すぐのところにある白亜の3階建ての建物である。カメラの博物館ではない。クンストカメラとは、美術・骨董品の陳列室の意味なので、camera関係かとおもうと、あてがはずれる。ピョ-トル大帝記念人類学・民俗学博物館の正式名称のとうり、世界各地の少数民族資料の展示がある。ここも時間に追われ、つっこんだ見学ができなかった。思うに団体ツア-のコ-スは大体が表面を撫でるだけ。興味があったら、別に時間をたっぷり取ってくればいいのである。
 来た時のネヴァ川にかかる宮殿橋をこんどは逆にわたり、すぐ川沿いに右折する。左に海軍士官学校(旧海軍省)を見て、左に曲がると、青年の騎士像のあるデカブリスト広場でちょと降りる。
 15:50~16:02,血の上の救世主教会。ここも入場せずそとから見るだけ。それにしても、おどろおどろしい色彩の建物である。なんとなれば、1881年、「人民の意志」派による皇帝アレクサンドル2世暗殺の地にたてられ、1907年に完成。
 16:15~17:00、クズニェ-チヌイ市場。ここでハチミツ500ル-ブルと、チ-ズ120リ-ブルを買う。
 またすぐ東のブロックの「ドストエフスキ-文学記念館」(ドストエフスキ-終末の地)に行ってみたが、階上には入れず、Tシャツ(600ル-ブル)を買ってお茶を濁す。私は若いころ(浪人時代)、「カラマゾフの兄弟」文庫本5巻を2年にわたって2回通読したことがある。第3巻は難解だった。その「カラマ-ゾフの兄弟」はここで書かれた。かれは1881年1月28日、ここが終焉の地となった。
 モスクワ通り~フォンタンカ河北岸~ネフスキ-通リ、で17:30にはホテルに帰着したと思う。

 さて、夕方の自由行動に出かける。目的は、巡洋艦オ-ロラ号を見ること。
 ネフスキ-通ㇼを昨夕と同じくモスクワ駅まで歩き、18:12,「ブロ-シャチ・ヴォススタ-ニャ」駅改札をはいり、メトロ1号線にのる。社内でスリランカから来たという人とちょっと話した。18:29,2つめの、「ブロ-シャチ・レ-ニナ」駅で降りると、そこは既にネヴァ川の向こうで、フィンランド駅とつながっていた。フィンランド駅への連絡通路には広告看板が2枚あった。 1917年7月、ヴラデイミ-ル・レ-ニンが装甲列車でおりたったという「フィンランド駅」をぜひ見たく待合室にずかずか入ってみた。こじんまりした駅舎だった。待合室の壁には広告看板らしきがないので、証拠に写真を取ったら、すると係官と思しき女性係官人が来て、やんわり、写真はだめといわれたので、辞去した。
 駅前にはレ-ニン像が、さっそうと立つ。駅前からネヴァ河のオ-ロラ停泊地までtaxiで行く。ドライバ-はeuroを欲しかったようで、交渉して10euroでいってもらった。
 18:55,巡洋艦オ-ロラ号停泊地についた。が、オ-ロラはいない。ホテルのコンシェルジェもtaxiドライバ-も修理中とは言ったが、現場で修理していて乗れないだけと勘違いしていたぶん、本当にがっかりした。1917年10月、ボリシェヴィ-キ10月革命の砲声をあげたオ-ロラ号を見たいと思っていた。オ-ロラは1907年起工、1900年進水式。 そのオ-ロラが、1904年の日本海海戦で砲撃を受け舷側に(どちらの舷側?)大穴があき、フィリピンに脱出したことがあるとは、しらなかった。1948年退役。6731トン、19ノット。
 さて、手持ち無沙になった。ネヴァ川は波がたち、荒く見える。黒々とした水量は、黒の塊りに見える。
 そのとき、川のほうから渡し舟にみえるクル-ズ船がやってきた。きけば、運河巡りして中心街へもどるとのこと。これぞ、わたしぶね!のったあ!ひとり400ル-ブル。19:19,出港。
 クル-ズ船はゆれた。日差しは秋をおもわせ寒い一歩てまえ。19:25,対岸の運河(フォンタンカ川)にはいると波静かになった。右は「夏の宮殿」のある「夏の庭園」だがうっそうとした樹木の連続である。いくつもの橋のしたをくぐる。橋の上から手を振る人もいる。が地理不案内のため土地勘が掴めない。19:51,たて方向の運河に右折する。19:53,今朝バスで止まってみたニコライ聖堂を右にやりすごす。19:56,マリインスキ-劇場の橋をくぐる。(橋桁に大きな広告。モスクワのボリショイ、ペテルブルグのマリインスキ-。昔はキ-ロフだった?) やがて、19:58,モイカ川を右折。20:08,イサク聖堂前の大きな橋くぐる。
 20:15,ネフスキ-通りの河岸で終着。ストロガノフ宮殿の横だった。
 ネフスキ-通りは、1階に文学カフェが入居し、屋上に巨大な動画スゥリ-ンのあるビルの橋のところだった。ネフスキ-通りを右側を東に歩く。右手に円柱のある両翼をひろげたカザン聖堂(ペテルブルグにおけるロシア正教の中心)、左側に大書店「ド-ム・クニ-ギ」。そこは運河の橋でで奥に血の上の救世主教会が見える。
やりすごすと同じ左手にサンクトペテルブルグ・フィル・ハ-モニ-の建物。右手にでかいデパ-ト「ゴスチ-ヌイ・ドヴォ-ル)、エカテリ-ナ2世像のある公園、やがてフォンタンカ川の橋をわたって400m、コリンシア・ホテルにたどり着いた。
  さて夕食である。21:00~22:35,ネフスキ-通り北側の「Cafe Confectionery Bar」。2バグット+2ストロガノフ+1beer。1800ル-ブル。ユ-ロ現金も、クレジットカ-ドも受け付けず、ル-ブル現金でしか受け付けなかった。

 第8日目 8月24日(月)
 7:00,モ-ニングコ-ル。 9:15,ス-ツケ-ス出し。ロビ-にて、H氏と、歓談。かれは、ユダヤ人の金利のかんがえかたについて、「ヴェニスの商人」のシャ-ロックを引き合いにだして語った。私は、ト-マス・アクイナスの金利の考え方について語った。
 10:10、ホテルをバスにて発つ。10:38,プ-ルコヴォ空港着。
 添乗員のN氏からおにぎりが提供されたので、カフェに入って、ボルシチを味噌汁代わりに注文したが何日ぶりかで美味であった。
 空港内広告を何枚か撮ったが、係員からのおとがめは特になかった。
 S女史、Y女史がduty freeの店でワインを購入して、税関を通った。
 A04ゲ-トから搭乗し、13:45,コペンハ-ゲンにむけ離陸した。
 飛び去る眼下のペテルブルグの街は、1942年9月から1944年1月まで900日間、ナチスドイツ軍の包囲に耐え、陥落しなかったのだ。偉大なことだと思う。私としては、行きたかったクロンシュタット島、スモ-リヌイ、は持ち越しになった。
 バルチック海の上をとんで、ペテルブルグ時間の15:35,(コペンハ-ゲン時間14:35)、コペンハ-ゲン空港着。買物時間なく、16:05,TOKYO-NARITに向け離陸。
 11時間20分くらい飛んで、TOKYO-NARITAに、3:27、日本時間で8月25日、火曜、9:27に着陸した。