2014年南西フランス

       期間…2014(平成26)年10月1日(水)~10月15日(水)


今回の目的は、南西フランスの中世キリスト教の異端といわれる「カタリ派」の遺跡・城塞をみることと、中世ロマネスクの教会建物・彫刻群をみることであった。さらに副次的に、屋外広告媒体をみることであった。飛行機はHIS社に手配、車はHERTZに手配、宿は自分たちで手配、現地ガイドのない個人旅行であった。
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■目次 
Ⅰ. 日程
Ⅱ. 旅行記
Ⅲ.. 屋外広告物の視察

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Ⅰ. 日程
■交通・移動手段…レンタカー(RENAULT MEGANE ルノ-・メガーヌ)
■宿泊方法…初日のみ日本で予約しておき、あとの日はその日その日の到達地で泊まることにし、あまりスケジュールに追われることはしないことにした。 また、都市型ホテルはなるべく避け、現地の人と交流できやすいと思われるシャンブル・ドット(Chembre D’hote)に泊まることを優先した。

■予定したコ-ス
 大まかにつぎのコ-スを予定した。
(出発地)ツ-ル-ズ→モワサック→カルカソンヌ
→レンヌ・ル・シャト-→カタリ派の城砦(モンセギュ-ル、ペイル・ペルテュ-ズ、ケリビュス城)
→ピレネ-山麓トレド周辺ロマネスク修道院(サン・マルタン・ド・カニグ-、サン・ミシェル・ド・キュサ、セラボンヌ小修道院)
→ペルピニャン周辺(サン・マルタン・フノヤ-ル)
→ナルボンヌ周辺(フォンフロアッド修道院)
→ここから一気に北上しプロヴァンスへ
→カマルグ湿原→アルル→ポン・デユ・ガ-ル→アビニョン
→プロヴァンスの三姉妹(シト-派の三修道院) →マルセイユ (終着)。
  しかし2週間の日程ではとても無理で、ペルピニャン周辺、ナルボンヌ周辺、「プロヴァンスの三姉妹」は途中で大胆にカットせざるをえなかった。 

■結果コ-ス
10月1日(水)羽田発
10月2日(木)パリ(シャルル・ド・ゴ-ル空港)着→国内便に乗換えてツ-ル-ズ(ブラニャン空港)着。        レンタカ-を借りツ-ル-ズ→モワサック(泊)。
10月3日(金)モアサック→ツ-ル-ズ(泊)
10月4日(土)ツ-ル-ズ→カルッカソンヌ(泊)
10月5日(日)カルッカソンヌ滞在(連泊)
10月6日(月)カルカッソンヌ→ミルポア→モンセギュ-ル(泊)
10月7日(火)モンセギュ-ル→レンヌ・ル・シャト-→ペイル・ペルテイ-ズ城→キュックニャン(泊)
10月8日(水)キュックニャン→ケルビュス城→カニグ-(サン・マルタン修道院)→プラド(泊)
10月9日(木)プラド→サン・ミシェル・ド・キュサ修道院
       →ブール・ダモン(セラボンヌ小修道院)→ピレネ-山麓より脱出し
       一路プロバンス方面へ北上→ベジエ。(泊)
10月10日(金)ベジエ→ポン・デユ・ガ-ル→ユゼス→アビニョン(泊)
10月11日(土)午前中ド-デの風車、 アビニョン滞在(連泊)
10月12日(日)アビニョン→アルル→ド-デの風車→アルル(泊)
10月13日(月)アルル→ゴッホの跳ね橋→カマルグ湿原→アルル(連泊)
10月14日(火)アルル→マルセイユ(ダビタシオン)
        →マルセイユ・プロバンス空港にてレンタカ-を返し、マルセイユ発
        →パリ(シャルル・ド・ゴ-ル空港)着。乗換えて→羽田へ。
10月15日(水)18:20羽田着。


            【  青数字:宿泊日と宿泊地。 】

Ⅱ. 旅行記

■1日目、 10月1日(水)

 羽田で 出発前に20万円をユ-ロに替える。また、今回I-PADを持参し現地に着いたらカーナビとして活用する予定なので、空港でル-タ-をかりることにしてあった。
イモトのル-タ-である。しかしカウンタ-で、「ナビとして使ってはいけない」、「共有に画像をいれてはいけない」、などなど、ないないずくしの説明で唖然とする。
 これではル-タ-の意味がないではないか。借りるのやめようかと思ったが他にかわりの用意ができないので渋々かりておく。フランスに車のナビも予約してあるが、i-Padのほうがはるかに使いやすいとおもい準備してきたので、いやな予感がしたが、そのとうり、これ(イモトのル-タ-)がとんでもないしろもので役立たずであった。(後述)しかも返金きかず、後味のわるい1出発となった。羽田空港22:15発。

■2日目、10月2日(木)

パリ(シャルル・ド・ゴ-ル空港)着、04:00
国内線に乗換え、シャルル・ド・ゴ-ル空港発07:20 
ツ-ル-ズ(ブラニャック)空港着08:20

 フランス第四(人口)の都市である。
この空港(Toulouse Bragnac)は昨年8月、ベストワ-ルド社主催の「バスク・歴史地理研修」で来たので、見覚えがある。だがその時は夕方到着・翌早朝発の、泊まりだけの滞在で市内観光もなかったので、その時の残念さから、今回はツールーズを出発点に決めたいきさつがある。
(昨年はせめてと思い、我々(私と美穂子さん)は、夕食後にサンセルナン寺院とジャコバン教会を、また、翌朝朝飯前に暗いなかオーギュスタン美術館とサンテ・テイエンヌ聖堂を見に行った。もちろん閉まっており中にはいれなかった。)

 しかし、今回は、到着してすぐレンタカーを借りる手配をしてあり、車に慣れる必要もあったので、ツ-ル-ズ観光は翌日に延ばし、まずは、ツ-ル-ズの北70kmに位置するモワサックまで車を走らせることにした。かつモアサックは、最初の目的地、サン・ピエ-ル修道院というロマネスクの見どころがある。
 レンタカー(AVIS)は、RENAULT MEGANE(ルノ-・メガ-ヌ)1800ccターボで、これがなかなかよい車であった。私はこれまで海外でレンタカ-を借りてドライブ旅行した経験が4回ある。

① 1993年6月、アメリカ・ワシントン・ダレス空港→フィラデルフィア→ニュ-ヨ-ク・ケネデイ空港。
②1995年6月、アメリカ・サンフランシスコ空港→オクラホマシテイ→シカゴ→ニュ-ヨ-ク・ケネデイ空港。(大陸横断)
③ 1998年12~1999年1月、ドイツ・フランクフルト・アム・マイン空港→オ-ストリア・ウイ-ン市内。
④ 2014年6月、アメリカ・ダラス・フォートワ-ス空港→フィラデルフィア→ニュ-ヨ-ク・ラガ-デイア空港。(大陸半横断)

 今回も、右ハンドル車・右側通行で緊張するが、これまでの4回とも無事故・無違反できたので今回も無事故・無違反を誓った。ただ1998年以来、日本国内で運転している自分の車は、クライスラ-・グランドチェロキ-でアメリカ仕様であるため、運転席の操作ボタン類には日常的に慣れている分、楽である。

 さて、出発だ。空港を出ると右手にエアバス社をのぞみつつ、モワサックへむかうA62号線に合流すべく高速にはいりガロンヌ川をわたり北上するところで、早速1回、分岐をまちがえどこかのsortie(出口)に出てしまった。少しあせったが、あえて戻ろうとするとこれまでの経験から無駄な労力をつかうことになると思い、勘を働かせて適当に走っていくと首尾よく本線に復帰できた。すぐ、最初の料金所がある。ETC車ではないので、チケット・レ-ンにはいり通行券を取ろうとするがまだ車両感覚がつかめていないので、ヨタヨタして取った。

 さてフランスの高速道路(Autoroute、オトル-ト、)は制限速度が130kmであるため、皆ビュンビュンとばしていく。フランス人たるもの、人が変わったかのようである。1990年代にはやったピ-タ-・メイル(イギリス人作家)の「南仏プロヴァンスの12ケ月」という本の中にも、
「(フランスの)村人たちは、ハンドルを握るとグランプリ・レ-ス並みの走り方をする。…日頃の彼らからは想像もつかない…。」
という記述があるが、これは本当である。

 

 

一般にヨ-ロッパ人たちはとばし屋である。以前ドイツでもそうだった。その点、アメリカンズはスピ-ドは抑え気味で、また車マナ-がよい。アメリカは自分たちの文化として自動車を発達させてきた。そのためではないだろうか。
 
 それはともかく、高速沿いの周辺の景色は、町や工場や集落などがあまり見えない。見えるのは、ブドウ畑、森、林、藪、起伏、斜面など、昨年、ツ-ル-ズからバスクへ向かった時とおなじである。
 30分くらい走って休憩所(Aire)に入って一息つく。ナビの入力にもっと慣れないとまずいと思い、あれこれやっているうちに、約40分も休んでしまった。外の空気ははや秋の気配である。
 走りを再開すると、サン・ピエ-ル修道院の回廊をあしらったモワサックの町の標識があらわれ、やがて、CASTELSARRASIN(カステルサラザン)の出口標識があらわれ、ここで高速をおりる。 

 
 フランス特有の最初のロ-タリ-(ロンポワン)も首尾よくこなし、一般道のD813号線を北上する。両側に大型ス-パ-やホ-ムセンタ-など、郊外店が現れた。
 自分の職業(屋外広告業)柄、それらの看板広告に目をやるが、その余裕もあらばこそ、また緊張して走らざるをえない。というのは、片側1車線の一般道と言えども速度制限は90kmと高速のため、皆、どんどんとばして追い越していくからである。自分は日本的に60kmが走りやすい速度だ。
 たが、あせらないことにした。飛ばしてくる後続車のためにこちらが速度をあげなくても、または下げなくても、後続車はべつに文句をいっているようすでもなく、追い越して行くのである。私よりおそい車が1台いた。 私が追いこしたのは、モアサックに着くまでこの1台だけだった。                 
 やがてフランスとしてはめずらしいとおもうが、野立て看板群が右手にあらわれた。両側が木立のため、看板類のみとうしは特別よくなく、不揃いの野立て看板群である。どちらかというと景観上では減点である。美観、美観の一辺倒でもないなと感じる。だが何らかの事情があって、ここに集中しているのだ。まもなく左へ大きくカ-ブし、つぎに右へカーブすると目のまえにモアサックの町があらわれた。川(タルン川)をわたると、そこがモアサックである。

 目的地のABBAYE SAINT PIERRE(サン・ピエ-ル修道院)の場所の見当は頭に入っていたが、ナビと現実のズレに慣れず、右へ曲がるべき所をやりすごしてしまい、行きすぎてUタ-ンし、今度は左に曲がればいいものをまたやりすごしてしまい、しかたなく次の信号を左折し、行った先の川っぺりに車をとめた。(そこはQuai Dupratという川岸。)
 ここからでもSAINT PIERREの位置の見当はつく。車を降りて、推測で歩き、ここだと思う町かどを左折すると、サン・ピエ-ル修道院の南壁面が目に飛び込んできた。来た!来た!ここだ! 到着13:00。

 

 ABBAYE SAINT- PIERRE(サン・ピエ-ル修道院) 13:00~15:45
 

 地元の地図では、Abbatiale Saint-Pierre、という表記である。ガイドブックではAbbeye、のスペルがおおいが、Abbatialeとは小修道院の意味である。 
「フランス一、きれいな回廊」があり、ここの「扉口(タンバン)を見ない者はおろかだ」と中世の当時からいわれたというロマネスクのサン・ピエ-ル修道院である。
 時間的に昼時にあたり、観光客はみな食事にレストランに入ってしまい、修道院の扉口はがらがらである。われわれは独り占めした気分でさっそく、入口上部の半円形のタンバンを見上げる。

 

 

 

 
 ヨハネ黙示録(Apocalypse)の「荘厳のキリスト」の彫刻である。
 真ん中あたりから下は直射日光があたり、そのぶん上部のほうは暗く、コントラストがきつい。あわせて私の眼は、焦点をくきっりとむすべなくなっているので、見えにくい(白内障手術、黄斑前膜手術したのだが)。彫刻のカドがすり減ったり、凹凸の境が甘くなっている所はとくにそうである。細部はあとで専門のグラビアでじっくり見ることにし、全体を目にやきつけることにした。

 次はタンバンをささえる真ん中の柱(トリュモ-)である。
目的は、柱の左側面の彫刻「聖パオロ」、そして右側面の彫刻「エレミア」である。 「パオロ」は精悍な感じがした。「エレミア」は来るまえに何度も写真でみてきたが、虚空をさまようようなうつろな目なざし、風に流れるように伸びた衣装。「あらゆる時代の芸術の中でも最高傑作のひとつ」(中世美術家アンリ・フォション)といわれているそうだ。体はエル・グレコの絵画の人物のように極端に長い。

 今度は、扉口の左右の壁面の彫刻である。左(西側)も右(東側)もそれぞれ三段構成。左は、新約聖書から「罪人の運命」を、右は旧約聖書から「キリストの降誕」を主題にしているという。ギリシャロ-マやルネッサンスの彫刻のような完成された冷徹な美でなく、どこかハンドメイドな、人間の体温とか、素朴、朴訥なぬくもりを感じさせ、緊張を強いられないところがいい。

 

 

  教会の本堂(NAVE)にはいる。「中は暗かった」と述べた旅行記があったが、意外にあかるくむしろカラフルとも思ったくらいだ。側廊はなく、身廊のみである。広くはない。モワッサクは、中世スペインのサンチャゴ・デ・コンポステ-ラへの巡礼路にあたるので、たくさんの巡礼者を収容するにはこれでは狭かったのではないかと指摘する人もいる。
 ここの巡礼路は、ル・ピュイにはじまり、コンク、カオ-ル、モント-バンを経て、ここに至り、やがてピレネ-ふもとの町サン・ジャン・ピエ・ド・ポ-にいたる「ル・ピュイの道」とよばれる。(サン・ジャン・ピエ・ド・ポ-へは昨年のバスクの旅で一泊し、さらにイバニエタ峠を越え、スペインのパンプロ-ナに入ったことがある。) 

        【サンピエ-ル修道院、本堂、身廊。】

 さて、本堂の右側の壁に沿って聖母マリアが十字架からおろされたキリストを抱くピエタ像を見る。印象がやわらかく、コミカルな感じもあり、安心して見れた。祭壇(alter)にすすみ、そのまま反時計回りにまわって教会を出る。
 教会から出ると、さっき駐車した場所が気になった。どうも違反法駐車だった気がするので、移動しにいき、町の中央の広場(Place des Recollets)にある有料駐車場に入れなおす。戻ってきて、南壁面前のレストランで昼食にした。 12ユ-ロのランチ(お急ぎ定食、Menu rapide)を注文するとウィというので、路上テ-ブル席をとってくつろいでいると、5分くらいして「そのメニュ-はなくなった、21ユ-ロのでいいか」とマダムがくる。どうしようもないので、ウイと言ったが後味悪し。そのためか値段のわりに味はいまいち。タラだったかな?
 
 午后2時、回廊への入場時間がはじまる。ひとり6ユ-ロ。回廊への入口は、この修道院のインフォをかねている建物の奥にあり、せまい矩形の入口をくぐると、回廊の北西カドに出る。目の前に45度の角度で北回廊と西回廊が左右にひろがる。中庭にのぞむ列柱は、上部で尖頭型につながり、そのア-チとアーチのあいだから中庭と、大きな杉の木(巨木といっていい、ヒマラヤ杉)の太い幹が見える。幹のてっぺんははるかに高く、中庭に身をのりださないと見えない高さである。

 

                     【回廊】

 私はこれまでまだフランスの修道院の回廊をみたことがなかった。(そもそも修道院なるものは、2006年コーカサスのアルメニアでアルメニア修道院を二、三見たのが最初である。)また、そもそもフランスにはこれまで2回しかきたことがなく、1回目は1990年6月、崩れた「ベルリンの壁」を見に行った帰りにパリのノ-トルダム寺院とルーヴル美術館、ヴェルサイユ宮殿を見ただけ。2回目も2002年12月、パリのマドレ-ヌ寺院、オペラ座、アンバリッド、その他(国鉄5駅の広告視察)を見ただけである。

 修道院も回廊も初めてである。今回ここへきたかったのは、かって、「とんぼの本」で、ここの回廊の写真を見てからである。そのとき、フランス中世修道院の宗教的深遠性、静寂性、思索性、瞑想性といったものに胸をうたれた。学生時代の私の世界史、ヨーロッパ中世史の勉強では、スコラ哲学の暗黒時代といった散文的な理解にとどまり、修道会、修道院それ自体に深く突っ込んでいくものではなかったのである。

 回廊(cloister;cloitre)はネットでみた図では、一辺が約40m、各辺に柱(column)が19本づつ、四辺合計で76本ある。四隅の角柱、計4本も加えると合計80本である。 これらのうち、各辺の中間の柱(計4本)をのぞくすべて(76本)に柱頭彫刻(Capital)が付いている。
 
 さてこの柱頭彫刻の模様であるが、唐草模様というか植物模様というか、植物や動物や抽象的なものが彫られ、意味は読み解けないが、ひとつひとつ見ごたえがある。じっくりと見ていると、きりがない。しかも柱頭の四面にぐるりと彫刻があり、四面で一つのスト-リ-になっているというから、中庭がわにも回って見なければならないが、そこまではできなかった。根気の問題でもあった。ところで、インタ-ネット上には、これら、四面すべての柱頭写真を撮った人のサイトもある。じっくり見るならそちらで見た方がいい。首も痛くならない。 

                   【 柱頭彫刻 】

 彫刻のテーマは、本によれば説話物が42、動物・植物の文様が27、象徴物が7、(計76)、とのことである(池田健二「フランス・ロマネスクの旅」中公新書)。植物のは写実的であり、動物のはどこか鳥獣戯画みたいである。とくに私はこの鳥獣戯画みたいのが好みで、なんとなくひょうきんでコミカルなところがよい。カトリックとかキリスト教とか宗教くさくないところがよい。
 
 さらに指摘されて理解できたのは、柱の並び方である。1本柱と2本柱が、交互に続くのである。これが回廊に優雅さやリズム感を与え、かつての私の第一印象を形成したのだ。
 回廊を西→南→とゆっくりぐるりとまわる。東回廊では美術写真か何かの大がかりな撮影隊が場所を占めており、また西回廊では屋根工事もおこなわれていて全体に静寂というわけではなかったが、私は東回廊の中間の角柱(柱頭彫刻はない)が目的で、そこへ行って写真を撮ってもらう。
 この角柱の面には、厚紙に型押ししたような扁平な浅彫りがある。浅く彫られているのは、デュラン・ド・ブルドンという修道僧である。9世紀にタルン川を遡上してきたヴァイキングの襲撃をうけ荒れはてたモワサックを再建するために、1059年、クリュニ-修道会からここに派遣された修道僧である。モワサックへいったら、どんな写真を撮っておきたかったかというと、この修道僧像の脇での写真であった。サン・ピエ-ル修道院を象徴する人物だ。

 クリュ-ニ-修道会について短くまとめておく。                           ブルゴ-ニュ南部のクリュ-ニ-に910年創建。ロ-マ法王直属を宣言。10~12世紀、大発展。各地の(それ以前の)修道院を改革して支配。第3クリュ-ニ-と呼ばれた第3教会はキリスト教世界で最大の規模を誇った。(池田健二、上記本より)ここで「それ以前の修道院」とは、5世紀にはじまるベネデイクト会修道院のことである。クリュ-ニ-修道院は同じベネデイクト会戒律の強化と世俗権力からの自立を志す。支配下修道院1200、修道僧2万人。典礼は壮麗に満ち、華美となり、クレルヴォ-のベルナルドス(シト-会創立者の一人)から批判をうけ、やがて凋落、フランス革命で第三教会は破壊された。 

さて、回廊をまわり終え、南西カドにある階段から2階にのぼってみる。2階もすべて石造りで堅固であるがなにも置かれていない。四面、壁の部屋であった。1階に降り出口の売店でガイドブックを買う。
 『MOISSAC ABBAYE SAINT-PIERRE Guide de visite』(PIERRE SIRGANT社、4.60ユ-ロ)
 『Visiting Moissac Abbaye』(EDITIONS SUD OUEST社、4.50ユ-ロ)  日本語の本はなかった。

 この英語本によると、この修道院の創建は7世紀ではなく、なんと、5世紀、メロヴィング朝の創始者クロ-ヴィス1世(在位466~511年)による、とある。そこまでさかのぼった記述は読んだことがなかったので少々驚く。クロ-ヴィスといえば、メロヴィング朝の創立者であり、彼のカトリック改宗により、カトリック・ロ-マ教会とフランク王国(ゲルマン民族)が提携しこんにちの西欧の原型がつくられたのである。そうなると、このサンピエ-ル修道院は、その当初からフランス王権の後ろ盾をもっていたことになり、その歴史は、シャルトル大聖堂(着工1145、竣工1220)やパリのノ-トルダム寺院(着工1163、竣工1345)よりはるかにふるいのである。
 たっぷり見た。

 修道院の外へ出て参道のワイン店で地元のワインを赤、白、1本ずつ買った。           GASCOGNE HIGUERE LEGENDE (赤)3.10ユーロ。GASCOGNE DOMAINE DE MAUBET(白)5.20ユーロ。ガスコ-ニュとはここら辺から西のほう一帯の呼び名で、ボルド-へと続くワイン産地として有名だ。これは今夜からのナイト・キャップ用である。
 車を停めた有料駐車場へもどる。日よけ、雨除けのホロ付き駐車場だった。この辺は、夏は強烈な日差しがあるようである。16:00、ここから西へ10分くらいの、シャンブル・ドットに向け発車する。


シャンブル・ドット「Le Lodge de la Madeleine」
 ここは日本で美穂子さんがネットネットで予約しておいた宿である。                  カ-ナビどうりに行くと、最後に細い山道の途中で左側の藪の中へつき進めという変な指示になった。そんなところに径はない。もうすこし進むと左に分岐がありなにやらLodgeの立札がある。文字がかすれて読めないがそれを進んでいくと、農家風のたたずまいの建物があったが名札がない。庭先から声をかけるが誰もいない。ここが目的地かどうかはっきりしないので、街道までもどって別の方角から接近し直してみたがおなじ所にくる。結局ここだろう。         時間はすでに17:00をまわっている。別のシャンブルドットを探そうかと思案していると、1台の乗用車が走りこんできた。中年の女性が降りたち、わたしがここの主人のマリアだと紹介した。母が急病になり看病して、リモ-ジュから400kmをとばしてきたが、おくれてすまない、今日はあと4人のお客が来る、といった。ゆったりと大きな犬もおりてきた。やれやれであった。   
  彼女は靴を脱ぎすて家じゅう、裸足であるきまわる。この地方の真夏の酷暑時の過ごし方の名残りと見受けられる。ジャグジ-にお湯をため始めた。一週間まえはこのあたりは大嵐だった、それと母上を見舞いにいっていたために、なにも家のあと片ずけや掃除をしてないのだと言い訳けした。でも、これはこれでいい環境ではありませんか。たしかに、庭の草々は膝くらいまで伸び、その下はトラクタ-で地面をほりかえしたままの感じで歩きにくい。しかし、周辺は林、藪、草地で集落や家屋は遠く、南にひらけた下り斜面は一旦視界から消え、そのさきは、きれいに畝の筋がいれられた上り斜面の農地となって、むこう側へのびあがっていくいい環境だ。上空は真っ青で、フランス空軍とおもわれる飛行機が高々度でいく筋かの直線的な飛行機雲を描く。空気は透明感があり、日はまだ高い。

        【↑シャンブルドット  Le Lodge de la Madeleine 】
 いつのまにか美穂子さんがいなくなった。探してみると応接間のソファ-で中高年の1組の夫婦と話しこんでいる。フランスにきてフランス語全開といったようすである。ぼくも庭から応接間に入った。フランス語の洪水。やがてもう1組のお客も到着し、宿泊客全員がそろい、アペリテイフもでてきた。やがて、一同食堂へと促され、夕飯のはじまりである。

 最初のカップルは西のボルド-の方から来たといい、主人のほうは、丸顔で浅黒く、目も黒く丸く、短躯で小太り、質問されなければあまり自分からは話をしない一見無口な、小だるまさんタイプ。奥さんのほうは、旦那よりは社交性に富み、異邦人たる僕らを気ずかって、とびかっているフランス語をもう一度ゆっくりフランス語で僕に説明してくれる。チャ-ミングな老婦人であった。中年のもう一組はブルゴ-ニュのほうから来たといい、旦那はちょっと威圧感があったが、きいてみると僕より1、2才年若で、口調は早く自信家のようであった。その夫人は客の中では一番若く、理知的で、翌朝出発前にぼくらの車のGPS(カーナビ)の目的地指定方法を実地で教えてくれた。えてしてフランス人はおしゃべり好きで、会話がとぎれることがない。
 
 食卓には、野菜サラダ、タルト、トリュフもでてきた。この地方はトリュフで有名だ。ここへ日本人のお客は来たことがあるのかマリアさんにきくと、あるという。そのサイン帳をみせてくれた。三重県の方の住所だった。どうやって来たのか(鉄道か車か)ときくと、駅まで車で送迎したとのこと。逆に日本からきたのなら、このへんではアルビには絶対行きなさい、と勧められる。アルビも行きたいが、それ以上に行きたいところが多く、今回は割愛せざるをえないが、少し迷う。ブルゴ-ニュ組もアルビはまだのようだった。

 メインデイッシュがでてきた。なにやらコンビ-フのような味がするので、ブフ(牛肉)ですか?ときくと、NON、NON、である。サングリエ、だという。「sang(u)lier」。美穂子さんにきくと「イノシシ」だという。えっ!イノシシ? 僕は日本でイノブタ鍋をたべたことがあるが、そんなに美味だった記憶がない。マリアさんは、盛んに勧める。イノシシはフランスではポピュラ-に生息しするようでその料理もポピュラ-なようだ。「イノシシの肉はシカに似てなかなかいける」とピータ-・メイルも「A YEAR IN PROVENCE」で書いている(P.262)。イノシシ狩りが盛んなことも書かれている。ブルゴ-ニュの旦那から「sangulier」は日本語では何というのか?ときかれるので「イノシシ」だというと彼は盛んに「イノシシ」、「イノシシ」、と混ぜっ返す。話が盛り上がりフランス語の大洪水で、悪くない雰囲気になったが、ワインは全部で4本くらいしかあかず、みんなそれほど呑んべえでなかった。

 僕らの寝室は2階だった。外からみると粗末な農家にみえるが、中は清潔でひろく、3組の客が干渉なしに泊まれる。夜気がせまり涼しくなった。窓の木製の鎧戸を内側に閉めると暖かくなる。美穂子さんがネックレスを無くしたと探し物をする中、フランス第一夜は、モワサック郊外のいなか村で、静かに暮れた。


■3日目 10月3日(金)

 朝、天気よく快晴。朝食に昨夜の全員が顔をあわせた。挨拶がわりに、「sangulier」、「いのしし、いのしし」である。
 今朝は、すぐツ-ル-ズに戻るのももったいないので、このあたりの名所はないか考えてみると、たしか、川の上にかかる運河橋があったはずである。それをマリアさんに尋ねる。彼女はしばし考え、すぐ1枚のパンフレットを持ってきた。それはタルン川に架かる「カコ-ル運河橋」という所だった。ほかの名所としては、タルン川とガロンヌ川が合流する見晴らしの良い名所(Boudou、ブ-ド-)が、D813号線を西に行けば近くにあることがあとで分かったが、その時は思い出せなかった。

 ボルド-組夫妻は、今日はサン・ピエ-ル修道院にいくとのこと。出発前に、ブルゴ-ニュ組の婦人に美穂子さんがカ-ナビの入れ方をたずねた。彼女は僕らの車に乗り込み、まず街路(Rue)の名前を入れるようにとおしえてくれた。これまでは日本式にいきなり施設名を入れても、目的地がでなかったので、コツがひとつわかった。Valider 、 Numero、…、とかでなく、まず、Rue(通り)名を入力せよと。つまり住所から入れるということ。美穂子さんはマダムのマリアさんと写真をとって別れる。

  宿泊代は食事付きで166ユ-ロだったが180ユーロ渡した。 出発するとき、「Gid De France」 と、「 Chambre d’Hote」 の両方に加盟している表示板にきがついた。昨日は気がつかなかった。
 10:40、シャンブルドットをあとに、なだらかになうねる丘陵地帯を出発する。

カコ-ル運河橋 (Pont Canal Cacor)
 モワサックへもどり、昨日最初に川っぺりに駐車した所を通過し、(この川はあとで地図でわかったのだが、実はガロンヌ運河だった)そのまま、川に沿って東へぬけて行くと、木立のまにまに高い運河橋がみえてきた。石造りの高い橋で橋の下にえぐられたアーチをくぐり、右手の林のわきにくるまを停める。まわりには2台ほど観光の車がいる。巡回のパトカ-がとうり過ぎた。
 
 11:10、運河の上に登る。流れの幅は15mくらい。両側の側道を含めると20m位。見渡してまずこの土木工事に感心する。滔々と流れるタルン川(Le Tarn)の上、約15~18m位の高さのところを、両岸の台地から南北に運河が跨ぐのである。橋の長さ356m。支えるア-チ型の太い橋脚が6~7本。たいしたものだ。運河の水をこのようにゆったり流すためには、この傾斜角はどのくらいの傾斜なのであろうか。絶妙な傾斜であり、この傾斜の計算と、この傾斜をつくる堅牢堅固な土木工事はいかになされたのであろうか。しかり!古代ロ-マ人以来の土木技術の蓄積と伝統なしにはありえない。 

 

                【↑カコール運河橋】
 私はいまだロ-マにいったことがなく、古代ロ-マ遺跡はモロッコ(ボリビュルス)やトルコ(パムッカレ)でしか見たことがないが、このようなロ-マ的土木工事をみるのははじめてである。この運河こそ、東は地中海にはじまり、カルカソンヌ、ツ-ル-ズ、そしてここモワサックを通過し、ボルドーを経て、やがて大西洋へと至るフランス最大、最長の運河なのである。この運河の名こそ、東では「ミデイ運河」とよばれ、このあたりでは「ガロンヌ運河」と呼ばれる。境はツ-ル-ズである。作られたのは、「ミデイ運河」が1681年、ピエ-ル・ポ-ル・リケによって、また「ガロンヌ運河」は1856年に開通した。フランスはここに限らず運河が多く、内陸の開発、通運、通商、国造りへの貢献ははかりしれない。

 運河の北側の途中に水門が1基ある。開く時間でないと見え、開く気配はなかった。すると、昨夜の同泊者で今朝シャンブルドットで別れたばかりのボルドー組夫妻が運河に登ってきた。やあやあ、である。彼らは予定どうりサンピエ-ル修道院に行ってからここに来たのだという。それにしては、サンピエ-ルの滞在にあまり時間をかけなかったらしい。写真を撮りあって別れた。


 屋外広告物の調査
 11:40、カコール運河橋に別れをつげ、モワサックにもどり、ツールーズへむかう。高速に乗るその前に一仕事する。昨日見かけた屋外広告物(野立て看板)のところへ行って、じっくりと調査したいのである。
12:30、車は広告物のてまえのロンポワン脇のコーヒ-ショップ(キャフェテリア)にとめ、美穂子さんにコ-ヒ-タイムを兼ねて車を見張ってもらうことにし、僕は一人で10mのメジャ-と、カメラとスケッチブックを持って、目的物にむかう。広告物は約300mmにわたって展開していた。(この項、後述)

 屋外広告物調査を終え、13:30、車を発車させた。来た時おりた同じ9番出入口からA62号線にのり、ツ-ル-ズに向け一路南下する。                                     14:00~15:10、休憩所「Aire du Frontonnais」(住所:1620 CASTELNAU DESTREFOND)。サラダ、オレンジジュ-ス、フランス風サンドウィッチで昼食とする。日本にも展開しているPAULの店。アルビに行くかどうか最終検討する。しかし今後のスケジュ-ルを考えると、アルビよりもっと行きたい場所があり過ぎるので、アルビ行きは最終的に断念した。
ツ-ル-ズ北の出口で高速をおりる。高速通行料は4.70ユ-ロ。
 
 ツ-ル-ズ 
 市内に入って行く。GPSの目的地はサン・セルナン教会に合わせておいたが直近で、大通り(Boulevard d’Arcole)から右折するのに失敗し2回やりなおす。ナビの画面と現実の感覚がまだつかめない。サン・セルナン教会の後陣の目の前に出た。周回路を右まわりしていくと、有料駐車場があった。1600到着。1時間半チケットを買って2ユ-ロ。
 
 駐車場のまわりは学生でいっぱいである。目の前の建物はツ-ル-ズ大学の一部である。ツ-ル-ズはフランスきっての大学町である。いかにもいなか出といった風情の女学生がかたまって地面に座り込み、足の踏み場もない。自己顕示するかのようにその周りでたわむれる男子学生たちをお互い、ちらちら気にしあう図は、どこかでみた記憶がある。そうだ、1960年代の我々の日本の大学キャンパスを彷彿させる景色ではないか。ただツ-ル-ズ大学の歴史は古く、創立は1229年、ドミニク修道院が重要な役割を演じた。(ジャコバン寺院のパンフレットより。)
 
 サン・セルナンに入るまえにまずは今晩のホテル確保のためカピトル(市庁舎)裏手のインフォまで歩いて行く。立派な塔(Donjon)の中にあった。かわいい美人の係りに愛嬌をふりまいて片言のフランス語と英語で交渉する。第一希望の「ホテル・サンセルナン」はあき部屋なし。「Mercure Wilson」なら部屋があるという。3ツ星である。まっ、ツ-ル-ズだから3つ星奮発でいいか。人ごみの中、ウィルソン広場へ歩いて行く。白のアゴひげをきれいにたくわえた、一見オ-ナ-風の紳士然としたレセプショニストがにこやかに対応してくれた。 日本人にもこういういい雰囲気の人がいるが、この彼はフランス人である。帰国後、「メルキュ-ル・トウ-ル-ズ・ウィルソン・ホテル」のホ-ムペ-ジに行ってみるとこの人の写真があった。16:58、 Checkin成立。ホテル確保し一安心である。住所:7 rue labeda 31000 TOULOUSE-FRANCE。

 さて、サン・セルナンをじっくり見に行こう。ツ-ル-ズでの我々の目的地の一つである。その前にカピトル広場にもどって昨年泊まった「ホテルCrowne Plaza」を見に行く。この町での土地勘確認のためである。そのホテルはそこにあった。また、カピトル広場北東かどでは昨年、フランスの若者から声をかけられたことがある。神戸にいたことがあると言いさかんに日本をほめた若者だった。 カピトル広場からさっき来た通り(Rue du Taur)をサン・セルナン目指し北に歩く。昨年、夜、歩いたときは真っ暗だった。今日はまだ日がが落ちていないが黒ずんだ石造りの谷間のような通りである。右に「Eglise Notre-Dame du Taur 」という暗灰色の教会があるのでその入口を興味芯々にみて通過した。入口はまったく地味である。 
Basilique St-Serninn (サン・セルナン教会)
 サン・セルナン南面に突き当たる。右手に鐘楼がそびえる。
 少し行くと南面に小さな入口がある。これが、ミエジェヴィル門(Porte Miegeville door)で、ロマネスク彫刻で有名である。正門たる西正面の入口より有名だ。実際、あとで西正面より入ってみたら内側にいた係員から「そこからは入らないように」と言われた。なら、なぜカギをあけてあるのかな?

 

               【 サン・セルナン寺院 】

               【 ミエジュビル門 】

               【 正門(西門)】

 ともかく、ミエジェヴィル(町の中心の意味、オック語、池田本による)門のタンパン(tympan:英語tympanum)をよく見てみよう。ここも今回旅行の目的の一つだ。                   小ぶりな門の小ぶりのタンパンであるが、彫刻はくっきりである。2007年に洗浄されきれいになったばかりとか。「キリストの昇天(l’Ascension du Crist; Ascension of Christ)」が表現されている。中央に昇天するキリスト、両側に3人ずつの天使。その下のラント-(まぐさ)に12使途が見上げる。この構図は昨日見たモワッサク・サンピエ-ル修道院のそれに似ている。ちがうのは、キリストの両脇に一人ずつ従者(?)天使(?)がいることである。

               【 ミエジェヴィル門のアップ 】

 タンバンの左の柱に聖セルナン(Saint Sernin ; Saturnin、サトルナンとも)が刻まれている。彼は「ローマから派遣された初代司教」(池田本)である。紀元250頃、異教徒の偶像を崇拝するのを拒んだため牛に曳きずりまわされて殉教した人である。脱線するが、殉教者の殉教されかた別分類:
   牛により……サン・セルナン
   槍(Spear)により…セバスチャン
   投石により……ステファン(フランス語でエテイエンヌ)
   カギ二つ(?)…ペトロ 。

 ところでこの、サン・セルナンであるが、牛に引きずられ殉教したというので気になって昨年のバスク旅行の記録をくくってみた。スペイン・バスクのナバラ州の州都パンプロ-ナの教会のときのことである。そこでも牛による刑をうけた殉教者の話があったのである。すると、「サトルニ-ノ。殉教者。暴れ牛にひき裂きの刑。Saturnino=Cermin、ここ(パンプロ-ナ)で布教。Iglesia de San Satrurnino o San Cernin。」という自分の記述があった。またネット上に以下の記述をみた。
 「257年フランスに生まれたサトルニ-ノがこの町(パンプロ-ナ)にたどりつき、初めてパンプロ-ナの人に洗礼を施したときに井戸の水がつかわれた。(その井戸が教会のある通りにあるマンホ-ル)。パンプロ-ナにキリスト教を伝えたのは彼、サトルニ-ノである。パンプロ-ナの守護聖人であるサンフェルミンではない。」(http://ameblo.jp/yumeyumeyudannasaranuyou/entry-10400026717.html)
 どうやら、その時のパンプロ-ナでのサトルニ-ノとは、ここツ-ル-ズのサン・セルナンのことのようである。地理的にも遠隔地ではない。パンプロ-ナとツ-ル-ズはピレネ-山脈をはさんで対角線上にある。
 さて、ツ-ル-ズの歴史にもどる。
5世紀始め、彼(サン・セルナン)の遺体が(パンプロ-ナから)ここに移され最初の礼拝堂が成る。10世紀、サンチャゴ・デ・コンポステ-ラへの「サン・ジルの道」(アルルの道)がここツ-ル-ズを通り、巡礼者があつまるようになると、巡礼者収容のための新教会の建設がはじまった。それが今のサン・セルナン教会である。

 八角形の高さ65mの尖塔をもつ鐘楼。色は赤い。
 巡礼者を迎え入れる巨大な内部空間。正門から後陣まで長さは110m(本の図で測量)。身廊の天井はいわゆるヴォ-ルト(半円形ア-チ)で、高い。側廊(side isle)は身廊の両側に二廊ずつ配置されて(二廊の幅約9mずつ)、全体で五廊式で幅広い。今回の旅で五廊式の教会はここ以外にはなかった。中心の身廊が狭く感じたほどだ(身廊の幅も約9m)。                                 翼廊(袖廊)の突き当りには両翼とも大きな祭壇(Alter)がある。このどれかの祭壇にウルバン2世の聖別品の記録があるという(池田健二教授本による)。ウルバン2世とは、1096年、クレルモン宗教会議で十字軍の派遣を決定したロ-マ法王である。 

             【 サン・セルナン寺院、身廊 】 

         【祭壇(altar)周辺】

 今日は、内陣、後陣とその周歩廊は閉鎖されていて、残念だが入れなかった。周歩廊の内陣側壁面には聖セルナンの浅浮彫がきざまれているはずである。また内陣地下にはサン・セルナンが眠る広大なクリプトがあるはずである。明日オ-ギュスタン美術館で見る予定の「獅子座と牡羊座の女」のレリ-フ(浮彫)は、ここの翼廊付近で発見されたものである。(とんぼの本、新潮社による。) 内陣、後陣、周歩廊は見ることができなかったが、これだけでも見ごたえがあった。じつに、フランス最大のロマネスク教会ということだ。だが、祭壇周辺はロマネスクというより、バロックの趣きであった。(写真)

 18:00 サン・セルナンの駐車場を出る。
 大どうりのブ-ルヴァ-ドから、ホテル・メルキュ-ルへ右折する角をまたも、2回もまがりそこなう。エルキュ-ルの地下駐車場への乗り入れ方(自動シャッタ-のあけかた)及び、開いたあとの急カ-ヴの下り坂と狭い車庫入れとに手まどり、部屋(Room217)におちついたのは、19:00になっていた。美穂子さんはこれで疲れたのか、一休みと言いつつ食事もとらず睡眠にはいってしまった。僕はホ-ムバ-のハイネケンなど飲み、美穂子さんんが起きないので、23:00ころ、夜のツ-ル-ズの町の雰囲気を見たく、ウィルソン広場のにぎわいの中をキャピタル広場北東まで往復し、その角のマクドナルドのかわいい店員相手に初級フランス語会話をたのしみ帰ってきた。「ボナペテイ」を覚えた。


■4日目 10月4日(土)

 朝食後、9:30、市内研修に出発。
 目の前のウィルソン広場。噴水の白亜の人物像は、帰国後の調べで「occitan poet Goudouli」(西部の詩人Goudouli)とわかる。1580年ツ-ル-ズで生まれ、1649年、ツ-ル-ズで没の詩人。Occitan、とはオックごを話す地方の意味。セグウエイという新顔の立ち乗り車をみた。

 

              【 ウィルソン広場 】

 キャピトル(市庁舎)2階の美術館を見に行くも、結婚式に会場貸出で、入場できず。そのかわり昨年も散策したキャピトル広場をまた散策。今日は市がたっていた。

               【 キャピトル広場 】

 キャピトル広場南西のカドの昨日の「Hotel Crowne Plaza」の前の、Rue Romiguieres を通りジャコバン寺院へむかう。ジャコバン寺院の異様な形の赤っぽい鐘楼(高さ45m、八角形、4層)が行先に見えてくる。昨年、夜、暗い中、外観を見にきたところだ。 

    【 ジョコバン寺院の鐘楼 】

Les Jacobins (ジャコバン寺院);The Jacobin Convent(修道尼院) 

 10:00~11:00
 ここを訪れる目的は、カタリ派を弾圧したドミニコ修道院、ドミニコ修道会である。
 建築様式はロマネスクではなく、ゴシックである。
 まずこのジャコバンという名称は18世紀フランス革命の中心党派「ジャコバン党(山岳等)」と関係があるのかどうか、である。結論からいうとある。しかし思想的つながりはない。ジャコバン修道院の一つがパリ市内のRue Saint-Jacquesにあり、そこをフランス革命時の一党派が根城にしたためその党派がジャコバン党とよばれたにすぎない。ジャコバン修道院の思想はドミニコ派修道会の思想であり、ドミニコ派を含むキリスト教会の特権を否定したジャコバン党の思想と共通するはずはないのである。また、ジャコバン党は山岳党ともよばれる。それはここツ-ル-ズがピレネ-山脈にちかいことに由来するのか? そうではなく、フランス三部会で最上段の席を占めていたことによる。
 英語本によると、この教会の英語名に、MonasteryかConvent、が付く。Conventは尼寺の意である。女性修道士もいたことだろう。
 
 さてジャコバン修道院である。
 南側の壁にある入口よりはいる。この入口には過去2回も来た(昨年)。そして入れなかった思い入れのある入口である。今日は感激すべきところ、思い入れも思い出さず、入る。広い。そして天井が高い。
 目の前の高い列柱。それに沿って視線を右に動かすと、後陣の明かるいステンドグラスがある。そして、視線を上にうごかすと、そこに、「ヤシの木」がある。ヤシの木に見える円蓋である。視線を動かすのでなく、動かされる感覚である。最初に写真でみたときは異様であった。高さ28m。

 この「ヤシの木」と呼ばれる円蓋は、7本目の円柱にある。それは、本堂の最後の格間(こうま)と後陣の格間をつなぐ位置にある。その円柱から22本のアーチが放射される。22本というのは、まず11本の大きな梁(はり)アーチに別けられ、さらにそれぞれが枝肋(しろく)によて2つにわけられ、総計22本のアーチとなるのである。はじめて見た時の印象は、その形と高さにより、おそれを感じるほどの異様さであった。


           【 ヤシの木 】
 その異様さこそ、カタリ派弾圧を象徴していないだろうか?
この教会は、ドミニコ修道会によって、1229年ころから1368年にかけて、カタリ派撲滅の意図によって建設されたのである。以下、現地で購入した英語本2冊でまとめてみる。
  『TOULOUSE』6.0ユーロ、
  『THE JACOBINS CONVENT IN TOULOUSE』4.5ユーロ、ともにMSN社。

 まず、1215年、異端カタリ派に対抗するため、ドミニコ・グズマン(のちの聖ドミニク、1173~1233年、スペイン・カステ-ラ出身)によってドミニコ修道会が設立される。カタリ派へ敵対したのは、ドミニコ修道会と、シト-派修道会であるが、ドミニコ派によるカタリ派への対抗策は当初、暴力ではなく、言葉の力と清貧の実践だった。1230~34年、ドミニコ派の最初の教会がここにつくられた時は、建物自体、一列の柱により二間にわけられた木造屋根の、きわめて慎み深い、長方形の建物だったと書いてある。
しかしカタリ派への非暴力と言葉の力による対抗策は空しく、ドミニコ・グズマンの死後の1233年、異端審問所という暴力がドミニコ会にわりあてられる。
 それにともない、本堂が拡張され(1245~53年)、荘厳な新しい後陣が加えられ(1275~92年)、さらに本堂は高くされ、ア-チがかけられる(1325~35年)。鐘楼も高くされた。同時に、尼僧院、集会場、回廊、食堂、礼拝堂が付加され、力と厳格さにみちたレンガ造りのかたまりたる全景、内部の堂々たる調和の二重の本堂、星形にあしらわれた目も眩む高さの円天蓋、が建設され、こうして1368年、この教会が完成したのである。                                             ヤシの木の下には、鏡のようにつるつるした大きな台がおかれているが、これはまさに鏡であり、首をもたげて上を見る必要がないように置かれている。
 以上、英語本より引用である。

      【 手前の円柱の基礎部をかこむ円周盤は磨かれて鏡になっている。                                    上を見上げずともヤシの木を見られる。】

         【 ジャコバン寺院 回廊 】

  本堂から裏手の回廊に入る。中庭の植え込みは手入れよく配置され、モワサックのサンピエ-ル修道院の中庭よりもきれいである。第一、サンピエ-ルには植え込みがなかった。刈り込まれた植え込みの中央に糸杉が7~8本。鐘楼がそびえている。この鐘楼は八角形。色が異様である。ジャコバン寺院の建築様式は、歴史的にはロマネスクではなくゴシック建築である。柱頭彫刻はあったが、見事というほどではない。フランス革命時、ここは革命派に破壊されたためだ。回廊脇のチャプタ-ハウス(修道士たちの集まり・決め事をする部屋)に入ったが、サン・アントワ-ヌ礼拝堂は閉まっていた。

 ジャコバン寺院でのもう一つの発見。それは、トマス・アクイナス(1225~1274)であった。
 アキナスという名前は、僕の古きベルリッツの友人、スリランカ出身のMr. Aquinas Vaz と同じ名前である。それはともかく、トマス・アキナスの遺物、遺体がここに眠る!とは本当に知らなかった。僕のヨ-ロッパ中世史の中でスコラ哲学の完成者としてその大著『神学大全』とともに、トマス・アキナスの名はとどろいている。かし、なぜツ-ル-ズが彼の眠りの地なのか?まだ勉強不足である。

 彼の軌跡をたどってみる。1225年、イタリア、ナポリ王国の貴族の子に生まれる。5歳でモンテカシノ修道院(ベネデイクト派)にはいる。16才でドミニク修道院に入会し、パリ、ケルンで神学をまなぶ。イタリアに戻り1266年『神学大全』(the SummaTheologica)を書きはじめ(41才)、1269~72年、パリでも書き続ける(完成は    年)。その後ナポリ大学で神学の講座を持つ。1274年、リヨンの市参事会への参加途上、ロ-マ法王グレゴリ-10世に招集されるが、同年、病に落ち、シト-派フォサノヴァの修道院にて亡くなる。ここにシト-派がでてきたが、ドミニク会とシト-会はともにカタリ派と対抗した。 くだって、1368年6月15日、ロ-マ法王ウルバン5世が法王教書により、トマス・アクイナスの遺骨をここに移送を宣言。1369年、1月28日、盛大に移送される。なるほど、彼は初期ドミニコ派のリ-ダ-であったのだ。                                                   彼のスコラ哲学とはなにか。『神学大全』とはなにか。その歴史的な位置付けは何か?          中世キリスト教世界の形成と発展に影響をあたえた重要な人物は、アウグステイヌス(フランス語でオ-ギュスタン)とトマス・アクイナスである。トマス・アクイナスを位置ずける時、アウグステイヌスとの対比でみるとわかりやすい。                                        帰国後、『善と悪の経済学』(ト-マス・セドラチェック著、東洋経済社)に出合い、その中で、その対比が書かれている。 (近世以降の)経済学がアウグステイヌスをほとんど重視せず、ト-マス・アクイナスから刺激をうけていることが論じられている。前者が「神の国」へ内向きに志向するのに対し、トマス・アクイナスは現実志向で人間の経済活動にも目をむけ、中世の経済活動を否定的にとらえないというものである。また次の記述もわかりやすい。                                     「中世スコラ哲学時代は盲目的な信仰の時代であり理性の再発見は啓蒙時代を待たなければならない、というのは大変な誤解である。この誤解をしたままでトマス・アクイナスを読んだ人は、知識の合理的な面が繰り返し強調されているのを知って、面食らうだろう。アクイナスは、理性の声に耳を傾けることにきわめて熱心だったといえる。ほかの多くの神学者は、アクイナス以前以後を問わず、ひたすら啓示に訴え、「心を尽くして主を信頼し自分の分別には頼らず」という聖書の文言を引いて、理性を退けた。たとえばマルテイン・ルタ-は、信仰を理性の対概念と位置づけ、理性を「悪魔の娼婦」とよんだ。(p.223)             人間の経済活動を否定的にみないトマス・アクイナスは、「金利を禁止する聖書を尊重しつつ、実質的に金利を正当化する道を模索し続けた」(週刊『エコノミスト』2015年6月2日号P.26)のである。 
                                                   さて、その後のジャコバン寺院であるが、フランス革命で没収され、兵舎に改装される。床ははがされ、本堂は3分割され、窓はふさがれ、壁は漆喰でぬられ、回廊の二つの廊下はこわされた。トマス・アキナスの遺骨は安全上、サン・セルナン寺院に移される。(サン・セルナンはドミニコ派ではないからより、安全?) 革命後の1845年、歴史的記念物検査役のプロスペル・メリメ(歌劇「カルメン」作曲者)がここを訪れ、その荒廃ぶりに憤慨しその復権行動によって、1865年ドミニコ派はツ-ル-ズに復権できた。以来、長期にわたる修復活動によりジャコバン寺院は回復、サン・セルナン教会に避難されていたトマス・アクイナスの遺骨も1974年、ここジャコバン修道院にもどっているという。。

 トマス・アクイナスのクリプト入口は修繕中のため板囲いされていて、入場できなかった。おそらくその先は地下のクリプトに続いていたのであろうが、心のこりであった。 

             【 クリプト入口は閉鎖中 】
 ドミニコ派というのはある種の宿命さを感じる。今年の1月、ポルトガルへパック旅行で行った時、ファテイマのドミニコ派修道院の食堂で昼食をとったことがあるが、その時も感じた。つまり、カトリック原理主義とでもいうべきものを。それがカタリ派を敵視した熱源であろう。11:00、ジャコバン寺院を退出する。


 つぎはオ-ギュスタン美術館である。キャピトル広場から南へまっすぐぬける(Rue St-Rome;Rue des Changes)。この通りも昨年早朝暗い中を歩いたものだ。メス通り(Rue de Metz)にぶつかり、右折し道すがらアセザ館を見にいくが、あまり興味がわかないので入らず、Uターンして予定どうりオ-ギュスタン美術館へ行く。

 オーギュスタン美術館

              【 ガーゴイル 】
Musee des Augystins (オーギュスタン美術館) 11:25~12:40
 ここでの目的はロマネスク彫刻である。
 受付のロビ-から階段をおりていくと、回廊におどりでる。回廊の左に、ガ-ゴイル(Gargoyles)たちが一列になって首をもたげ、思いっきり口をひらき、遠くの仲間に合図を送るべく遠吠えしているかのユーモラスな彫刻が並ぶ。ここをとうる人はみなニヤリとしていた。これは13世紀から14世紀にかけてフランシスコ会の修道院にあったものという。
 フランシスコ派修道会とは何か? フランシスコ会は、別名、Cordelier(コルドリエ)ともよばれ、三つの結び目のあるヒモを腰帯としていた。(現地パンフレットによる) これについては後述。
 回廊を右回りに進む。回廊も今回三か所めになった。右の一つ目の部屋でまたピエタ像があった。感じがやわらかだ。東回廊にパイプオルガンがあるきれいな今風の教会もある。
 目的のロマネスク彫刻・ギャラリ-に入る。                             まず、サン・セルナン寺院にあったという「獅子座と牡羊座の二人の女」(The Sign of the Lion and the Sign of the Ram)の彫刻をさがす。奥の左側の壁にあった。これは獅子を抱く女と牡羊を抱く女が並び、二人とも両足を交差させ、片足は裸足、片足はサンダル着用である。足を交差させるのはツ-ル-ズ彫刻の特色とのことである。サイズは想像していたほど大きくはなかったが、美穂子さんに左脇にたってもらいこの写真を撮る。 

              【 「獅子座と牡羊座の二人の女」 】

 次に、サンテイエンヌ大聖堂にあったという「サロメとヘロデ」、「洗礼者ヨハネの生首を母ヘロデイアに捧げるサロメ」の柱頭彫刻である。はなかなか探せなく、係員にたずねたが、かれは新米なのかわからないという。やっと見つけた。

   上 【ヘロディアとサロメ】、 下 【洗礼者ヨハネの生首を母ヘロデアに捧げるサロメ】

 この二つの彫刻は同一の柱頭に隣り合って彫られている。前者は、手柄に褒美をやろう、なにがいいか?とサロメのアゴをもたげるヘロデと、なまめかしく品をつくるサロメの像である。サロメはヨハネの首を所望した。ヘロデはぎょっとするが撤回できない。                              その結果切られた首をサロメが母ヘロデアに見せるのが後者の彫刻である。後者の彫刻に首が二つあるのは異時同図法という表現方法で、時間の流れをとりこむ方法らしい(「トンボの本」による)。ノミで刻んだ荒削りの彫刻だが、作品のテーマはすぐわかるいい彫刻だとおもう。

 このギャラリ-では、見学者の顔の高さあたりに柱頭彫刻が円柱の台の上にのせられているので、見やすく見学者の首が疲れない。ざっと、100柱くらいあっただろうか。時間制限のない個人旅行だからいつまでも見ていたられるが、集中してみているとつかれる。壁際にも飾りきれずに置かれている彫刻がある。ジャコバン寺院の回廊の床にも柱頭彫刻が無造作に(?)たくさんおかれていた記憶がある。石の文化であることを、つくづく感ずる。ここのロマネスク彫刻は、疑いなく(without doubt)、世界で最も豊富な場所の一つであると現地パンフレットに書かれている。

 ギャラリ-を退出し階段(Denis Darcy Staircase)の踊り場に行くと、ガーコイルが美女の夢の中に出てくる「Cauchemar」(悪夢、1939年、Eugene Thivier作、)という20世紀の彫刻と(写真↓)、
「Cardinal」(枢機卿、1898年、Alexandre Falguiere作)という19世紀の彫刻の展示があった。

 

【ガーコイルが美女の夢の中に出てくる「Cauchemar」。「悪夢」1939年、Eugene Thivier作】

 二階にはドラクロア、ロ-トレックなどの必見の名画があるのであるが、今回は割愛した。今回はロマネスクに集中である。
この美術館の建物自体は中世14~15世紀にさかのぼるオーギュスタン修道院で、南フランス式ゴシック建築の歴史的記念物に登録されている。1793年、美術館にかわった。オーギュスタンとは、アウグステイヌスのフランス語読みである。アウグステイヌスとは、ローマカトリックの神学の基礎をきずいたアフリカ生まれの聖アウグステイヌス(354~430)のことである。聖アウグステイヌスといえばその著書「神の国」とともに有名である。
 オーギュスタン美術館を退出し、メス通りをさらに東にすすみ、サンテイチエンヌ大聖堂のカドの店で、サンドウィッチの昼食とする。

CATHEDRALE SAINT ETIENNE (サンテイテエンヌ大聖堂) 13:15~13:45

 ここはツ-ル-ズ市の、the city cathedoral である。                        この大聖堂も昨年、まだ暗い早朝、外側だけでも見ておきたいとおもって見に来たのであった。暗闇に黒々と聳え立つ威容を昼間確認したかった。


  イギリス人女性作家Kate Moss の「LABYRINTH」という歴史スリラ-小説のなかでこの大聖堂の記述を読んだことがある。 
 「この大聖堂で何かおそろしいことが起きたのは歴史の本をよまなくてもわかっていた。聖堂にはコンクリ-トや石では隠せない傷跡や苦しみが満ちていた。亡霊が自らの物語を叫んでいた」という不気味な記述がある。(上巻P.281~282)  それはどのような恐ろしいことだったのか?カタリ派がらみか? それを見つけるべくここに来たのである。

 メス通りから見る建物は図体が異様に大きく不格好な建物という印象である。長さ東西105m、肝心の西正面にまわってみるのをわすれたが、写真でみると、西正面は、左半分と右半分の形がちがう。ちがう時代のちがう建物様式が半分ずつくっついたのである。これは中に入ると分かるが、教会前部と後部の中心線がずれている、つまりカギの手になっているのだ。異様である。身廊の幅は広い(間口の柱から柱まで19mありこの手の教会としては欧州最大幅とのことである)。天井も高い(19m)。壁におおきな敷物(タペストリ-)がたくさんかかっている。内容はサンテテエンヌ(英語名ステイーブン)の生涯が描かれているそうだ。先入観があるため、なにか不吉な歴史がたしかにありそうである。
              【 上の2枚、身廊の後部であるが、中心線がずれている。】

  歴史をみてみる。 
  現地購入のMSM社『TULOUSE』英語版と、教会に置かれている日本語チラシ「The Cathedral of Saint Etienne, A GIUDED TOUR」より。
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 1078年、司教Isarn、ロマネスク教会をたてる。(その痕跡は鐘楼基礎部と本堂柱頭に残る)
 1210年、Foulqu de Marseille司教、今日の非常に幅のひろい本堂(対角線のリブをもった円蓋)に置き換える。(幅19.9m、高さ19m)
 1272年、Bertrand de L’lsle-Jourdain 司教、北フランス(アミアンやランス)の巨大な石造本堂を夢見て別の本堂(高さ40m)をたてはじめるが、実現せず。巨大な合唱隊席(choir)になる予定であった。
 1609年、火災でこの合唱隊席は燃えおちる。。この後、ヴォ-ルト(円天井)が急きょ、高められる(40mの代わりに28m)。
 その後も少々不可解な要素が加わる。翼廊における大円柱(Jean d’Orleans地区大司教が巨大な円柱によって二つの異なった本堂をつなぐ?)。そして20世紀、北壁に入口が作られる。こんにちこの聖堂は、未完の聖歌隊席とあたまを切られた本堂より成る。北側ファサ-ドは、北フランス・ゴシックと南フランス・ゴシックの並列である。
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  このようにことなった時代の異なった様式がジグソ-パズルのように奇妙に、しかし魅力的につながれていのである。 とは言うものの、これだけでは血なまぐさい歴があったかどうか歴史はよみとれない。別の出典にあたるしかない。
  バットレス(Buttress、控え壁)がひじょうに大きいカテドラルだった。自分的にバットレスを身近に感じて見るようになったのは、やはり2013年8月のバスク旅行での、バイヨンヌ・サントマリ-大聖堂からであるが、そんなことはともかく、テ-マ追及未完のまま、13:45、サンテティエンヌ大聖堂を退出した。
  なお、ここにミデイ運河建設者ポ-ル・リケが埋葬されているというが、見落とした。
  これでツ-ル-ズで見る予定のものは見終わった。あとは、メス通りを西へもどり、オ-ギュスタン美術館のかどからRue d’Alsace Lorraineを北に歩き(歩行者天国だった)、キャピトル広場にたどりつく手前で、美穂子さんがツ-ル-ズ名物のすみれ(Violette)の石鹸やお菓子を買って、ホテルへもどった。
 

            【↓アルサス・ロレーヌ通り】        【 すみれの石鹸を買った店 Les Fresors de Violette】

 ホテルにもどり、車に荷物を積んで、15:00、地下駐車場から出ようとするが、またトラブル。出口に向かって狭い急坂をあがった所に鉄扉のシャッタ-があるのだが、その開け方がわからず、また時間を食う。部屋ナンバ-を入れればよいのであるがその機械の所在がわからない。昨日もニコニコしてぼくらを見ていた女性レセプショニストに来てもらい助けてもらった。その機械はだいぶ手前にあった。
 ツ-ル-ズの大通りを南に抜け、途中迷ったが高速A61号線に入り、カルァソンヌに向け南下する。
15:48.、最初のサ-ビスエリア(Toulouse Sud)で今回フランスで最初の給油をする。無鉛ガソリン(sams plomb)52.28リッタ-、日本円で¥7,303.-。


カルカッソンヌ。

 約80km走り、高速出口23「Carcassonne Ouest」で高速をおりる。
GPSが安定せず何回かトライ・アンド・ミスを繰り返したが、来る前にGoogle Earthのストリ-ト・ヴュ-でこのあたりもヴァーチャルドライブをしていたのであまり焦りはなかった。カルカソンヌCentreのInfoを目指す。ガンベッタ広場を南から東にまわりこみ、北側を西に進み、道なりに一方通行の狭い道(Rue Verdin)に入る。二つ目のかどを右折。郵便局の建物に沿って狭いスペ-スを見つけて頭から突っ込む。そこはPlace Mal de Lattre de Tassigny 広場というところであった。INFO(Office de Tourisme)は、ふり返ったところにあった(Rue Verdinとのカド)。女性の係りが二人いた。アフリカ系の一人は我々を興味しんしんに見ていた。もう一人の美人と交渉する。シテの近くで80ユ-ロ以内の条件でホテルを検索してもらい、条件に合うのがあった。

 車を出すときにも閉口した。真後ろに車がとまっていて出られない。「これではでられないではないか、そっちの車を動かしてくれ、」と日本語でしゃべった。ききめはあっただろうか。女性ドライバ-だったがすぐいなくなった。一方通行のRue Verdinにもどり、迂回してまたガンベッタ広場へ向かい、今度は東へ、オード川にかかるポンヌフにハンドルを切る。橋にさしかかり右手に、シテ(Cite)があらわれる。「子供のおとぎ話から飛び出してきたかのような」(『Lonely Planet』より)中世の城砦である。攻める側を拒否する城壁、林立するいくつもの塔。

 すこし走って右に折れ、坂をのぼる。「Hotel Espace Cite」のかどを左折すると前方にシテの塔と城壁がまじかにとびこんできた。この時、前方からおりてきた車をかわそうとして、右の縁石にのりあげて美穂子さんをびっくりさせてしまった。それほど狭い道ではなかったが、車両感覚はまだいまいちだ。バンパ-もサイドもこすらなかったが、これが今回フランス・ドライブで唯一の「事故」だった。左側が目的の、「HOTEL ARAGON」であった。

18:20、チェックイン。ホテルの名前がいい。ホテル・アラゴン。ここからスペインは近いのだ。ここらは、スペインもフランスもカタロニア語(カタラン)を話す人々がおおいのだ。部屋はシテの反対側にあったため窓からはシテはみえなかったが、ロ-カに出ると窓枠いっぱいに、夕暮れの城壁と塔が溢れんばかりに見えた。ホテルはシテの北東にあたる。

   【 照明を浴びた塔(左二つはナルボンヌ門の塔、右は宝物の塔)と城壁(Rampart)】
 シテ内のレストランを紹介してもらい、20:00、シテ内に向かう。すこし気温がさがってきたので、セ-タ-を持参。ホテルの前の通りに出て左に、夜間照明を浴びた巨大な塔と城壁(Rampart)【↑写真】が行く手を塞ぐように待ち構える。右の大きい塔が「宝物の塔」、左の二連の塔がナルボンヌ門の塔である。道路から脇道にあがり、「カルカスの貴婦人」の彫刻のある門を見上げてから、ナルボンヌ門をくぐる。道なりの坂の、2区画目を右に上がっていくと左手にレストラン「Les Cours de la Cite」があった。              【 レストラン「Les Cours de la Cite」】

 席は、室内がよいか、テラスがよいか、庭がよいかしばし考え、城壁の中の、また城壁の中という感じの中庭のテ-ブルをえらぶ。照明はロ-ソクである。中世の空気である。騎士が給仕にくるかなという雰囲気である。 美穂子さんは(     )の、僕はカスレ(Casurret、白インゲン、豚肉、鴨のコンフィ<もも肉をその脂で煮込む>、ソーセージの煮込み)のムニュを注文する。カスレは、地元・コルビエ-ル(Corbiers)のAOCワイン「CHATEAU SAINT LOUIS 赤」と非常によくあい、堪能した。「脂っこくて辟易し二度と試みない」と感想を述べた旅行記があったが、とんでもない、わたしには、美味であった。ワインの名前の「CHATEAU SAINT LOUIS」の、SAINT LOUISとは、カルカソンヌの下町全体のこと(Bastide St .Louis)だ。二時間食事を楽しみ、食後は少し歩くことにし、また坂をあがって、井戸のある広場にでた。もうシ-ズンオフにちかいので人どうりは少なく、店も閉まっている。そのあたりをぐるりとまわり、シテを出る。夜間照明で城門、城壁、塔は幻想的である。、23:00、ホテルにもどる。

5日目 10月5日(日)                                          今日は終日カルカソンヌ滞在である。
 車の運転は無くホリデイ気分である。午前中はシテの中をめぐり、午後はミデイ運河に行く予定である。
 8:40、行動開始。カルカソンヌといえば、何をさておきカタリ派をほごしたとランカベル家をおいてほかにない。わたし自身はカタリ派の思想は外在的にしかわからないが、ロ-マ・カトリックに対するアンチテ-ゼとして関心がある。同時に北フランスの王権に対するアンチテ-ゼとして、また北フランス文化圏に対するカタロニア圏として関心がある。                                                   コンタル城で買ったグラビア本(日本語)他によれば、カルカソンヌ地域にはすでに紀元前7世紀にはすで居住民がいた。古いのである。そこに紀元前400年ころ、古代ロ-マ人が進出し植民地(ユリア・カルカソ植民地)を形成。当時(ガロ・ロマン時代)の城壁はただ大きな石を積み上げただけといい、その場所は、いまのシテの位置ではなく南東にさがった場所だという。
 紀元後、3世紀ころ、「塔で側面をかためた城塞」(こんにちの内壁)が建築される。
 412年、ゲルマン民族の大移動によるその一派、西ゴ-ト族(VithGothe)がカルカソンヌのシテを占領する。そのシテはいまのシテの位置である。西ゴ-トに敗れた原住民は何民族だったのか。ケルト人?     
 712年、イスラム教アラブ人が攻め入り、西ゴ-トを放逐、アラブ人の支配は750年まで続く。その時、この西ゴ-トと北のフランク王国(メロヴィング朝ピピン)の連合軍にやぶれる。             
 1067年、カルカソンヌの封土はピレネ-のむこうのバルセロナ家におちる。             
 それを、ベジェ子爵・トランカベル家が奪取した。1082~1209年、トランカベル家の時代となる。ようやくトランカベル家の登場である。 となると、トランカベル家はベジェ(またはその圏内)の出身ということになる。なるほど、ベジェもカタリ派が多く、後年(1209年)、ベジェ市民にとっても悲劇がおこる。後述。
 1130年ごろ、トランカベル家によるシャト-・コンタル(伯爵の城館)の建設がはじまる。コンタル城がここに登場である。カタリ派がひろまり、トランカベル家はこれを保護する。
 1200年ごろから、危機を抱いたロ-マ・カトリックと領土的野心をいだいた北のフランス王国のの猛反撃がはじまる(アルビジョワ十字軍)。
 1209年8月、十字軍のシモン・ド・モンフォ-ルの包囲にトランカベル家やぶれ、11月、レモン・ロジェ・トランカベルは投獄中のシテで獄死。地域の封土はシモン・ド・モンフォ-ルにわたる。トランカベルの時代は一旦終わる。しかしトランカベルは粘る。
 1224年1月、レモン2世トランカベル、条約に違反しカルカソンヌに拠点をすえる。
 1226年6月、フランス国王ルイ8世、カルカソンヌを無血占領。
 1240年8月、アラゴン避難中のレモン2世トランカベル、またしても蜂起、カルカソンヌに進運、包囲。
 1240年8月、フランス国王ルイ9世の派遣軍、町を破壊、住民を追放。レモン2世、およびトランカベル家はここで命運つきる。                                       1247年、ルイ9世、オ-ド川右岸(左岸ではないのかな?)に住民の居住を許可(現在の下の町、「ville basse」のはじまり)。下町全体は、Bastide St-Louis。 同時にシテの外側の城壁の建設を開始。     えっ?「外側の城壁の建設」だって?そうするとこの時まで、シテには今の外壁はまだなかったというのか?それは本当か?
 1285年、フィリップ3世、外側の(!!)城壁工事を完成。 どうやら、本当のようである。                                                        ここで私にとって重要なことは、シテの外壁は1247~1285年にかけて建築されたのであり、したがって、それ以前の西ゴ-トの時代・アラブの時代・トランカベルの時代には外壁は存在しなかった(!)のだということである。私はシテをめぐる戦争はいつも二重の城壁をめぐる戦闘だったとばかりイメ-ジしていたのだったが、そうではなかったのだ。実際このあとは、大きな戦争はない。英仏百年戦争でイギリスの黒太子がカルカソンヌに進入して下の町を焼いたといっても、シテには手をつけていない。また、1659年、スペインとの国境が画定し、国境線がずっと南に移動してしまう(ピレネ-条約)とカルカソンヌは国境の要塞ではなくなり戦闘すらなくなる。したがって、今日見るシテの外壁を巡っての攻防戦はシテの初期も後期も、なかったことになる。攻防戦があったのは、今でいう内壁だけの時代だったことになる。なにか拍子ぬけの結論である。19世紀にはシテは廃墟と化したが、20世紀にはいってから修復された。                                                              ナルボンヌ門より城塞(シテ)に入る。
            【↑ナルボンヌ門  横からの風景。】


          【 ナルボンヌ門と 「カルカスの貴婦人」

 まずコンタル城である。

           【↑コンタル城】

 つくったのは、トランカベル家だ。1130年ごろ~。
 9:30の開門まで時間があり、美穂子さんがコンタル城の北側の堀にくだり、内壁にあいた門をめがけてドンドン歩いて行くので僕もついて行くと、穴の向こうに出た。そこは内側城壁と外側城壁との間のせまい平地(クルチヌ)であった。彼女には想像もせぬ良い勘があり、これと思うとひるまない。左にまた城門風の壁がたちはだかる。そこへ行く。くぐると左手は垂直の壁である。ひとけのないそこは、ドンジョン(天守閣、英語でkeep)直下だった。塔が真上にそびえ見上げると首が痛い。一方、外壁に身をのりだして、城壁の直下や、裾野や、その下の集落、オード川の流れ、ポンヌフの橋、下の町(Chateau Saint Louis または、Bastide St.Louis)、町の向こうのなだらかな広がり、コルビエ-ルと呼ばれる大地、を眺める。なだらかな起伏の豊かそうな風土だ。

 コンタル城の城門にもどって開門(9:30)をまっていると、「カタリ派の城に行くツア-に参加しないか」と30才くらいのガイドの青年がはなしをもちかけてきた。感じはわるくない。しかし「ノン、僕らは自分たちのレンタカ-で来てるんだ。このあとカタリ派へも行くんだ、わるいな。」と断る。彼は神戸に二年くらい居たと言った。

 さて、9:30、開門である。コンタル城の正面には5つの塔(tour)がある。塔の丸い側面のどてっぱらに縦の短い亀裂が見える。これは「arrow slit」だ。守備兵はこの中から、矢を射るのだ。射られたほうはどこから矢がとんできたか、わからない。

 五つある塔の左から2番目と3番目の塔のあいだにある入口に向かって石橋がかかる。
コンタル城の中は、3階まであがり、城壁の上に作られた木のロ-カをたどり一周できる。特徴あるとんがり帽子の屋根がまことにメルヘンチックで手の届くところにあるが、このトンガリ帽子屋根(witch’s-hat)は、中世には存在せず、19世紀にここを改修・復活させた建築家(Viollet-le-Duc)が付け加えたものであり、原型はもっと平らで、屋根もスレ-ト瓦ではなかったであろうという。(『Lonley Planet フランス』より意訳)。ちょっと興ざめである。

 コンタル城の中には、カタリ派を拷問したときのおぞましい拷問道具や、カタリ派憎くしの異端審問者ベルナルド・ギ-やジャック・フルニエ(のちの法王・ベネデイクト12世)の像が置いてある部屋があるというので、それを見逃さないようにしていたが、見逃したようだ。城内においてあったパンフレット(日本語)を読むと、それは多分、「司法の塔」にあるのだが、今回はとうらなかった。
 城内にはロマネスク時代の石の彫刻がたくさん置かれている。

 ピエ-ル・エンブリ-の部屋(Salle Pierre EMBRY)という部屋で、壁面を穿ったガラスケ-スの中にそう大きくはないがなめらかなタッチの、五個の浮彫の彫刻に思わず気をひかれた。キリストの受難(Christ’s Passion)をあらわす像とのこと。左の3片は、キリストのむち打ち(the Flagellation)、磔刑(the Crucifixoin)、キリストの降下(Christ’s descent Into limbo)のシ-ンである。 中央右の小さいのが、キリストの埋葬(the Entombment)、右端は復活(the Resurrection)のシ-ンである。全体として「Les albatres」(雪花石膏)という名称であった。この石膏は純白で、彩色が可能であるとのこと。これらは15世紀にこわされたシテ内の教会のひとつ、サン・セルナン教会の祭壇画だったという。

                 【 Les albatres 】

 シテの下町(the Bastide St.Louis)のグラッサリオ家の2階ファサ-ドにあったア-ケ-ド装飾の窓が三つ、移設された部屋があった。(La maison Grassalio) なにかイタリア風である。(私はイタリアをまだ知らない)                                             騎士の横臥像の彫刻の部屋があった。Gisant d’un chevalier。それは石棺であろうか。次の部屋に、以前アルメニア共和国の修道院でたくさん見たカチュカルを少々思わせる石の盾が置かれている。

               【 カチュカルに似た石の盾】

 売店で本を買う。
 英語版『THE CITE  DE CARCASSONNE 』12ユ-ロ、
 日本語『カルカソンヌ』6ユ-ロ
 英語『CATHAR COUNTRY』10.5ユ-ロ
 コンタル城の外へ出ると、外塁(Barbacane de l'Est)で、人々がアカペラで賛美歌の合唱をやっていた。行く先々で合唱するのが決まりなのであろう。このあと、サン・ナゼ-ル教会でも同じグル-プが合唱していたが、日本のご詠歌を連想した。
BASILIQUE des SAINTS NAZAIRE et CELSE(11~14 siecle)
Basilica of SS. Nazarius and Celsus 、 Basilique St.Nazaire

 10:30~11:00。 シテのもう一つの見どころはサン・ナゼ-ル教会である。
土産物店や宿泊屋の間をくだっていくと、サン・ナゼ-ル教会の北側面にでる。【↓下記写真】

 

           【 サンナゼ-ル教会(北面) 】
 北面の右下右側に入口があり、教会内部は、内陣にあるア-チ型の長いステンドグラス(11面?)からの光で明るく神々しい印象である。【↓下記写真】

               【 サンナゼール教会の祭壇 】
 中央祭壇には1801年まで司教座がおかれていた。内陣をとりかこむ柱には22体の聖人の彫像がとりつけられているが、こういうのは珍しいとのことである。教会名の聖ナゼ-ルは十二使徒の代表というが、われわれに馴染みのある名前ではなんというのだろうか。内陣の左側のくぼみに多彩色のピエタ像がある。また、袖廊の北バラ窓(ステンドグラス)もひときわ目立つ。側廊は狭い。
 壁に一枚のプレ-トが打ち付けられている。それによると、「1213年、聖ドミニクがこの教会で説教をした」とある。  

  これは私にとってドミニク・グズマンの足跡を知る収穫であった。
 この教会の創立は6世紀、(東)ゴ-ト時代。本格的に教会として機能開始は925年。十字軍の派遣を決めた1096年のクレルモン宗教会議の帰途、法王ウルバン二世が6月11日に、立ち寄っている。この教会には、カタリ派の時代、アルビジョワ十字軍の指揮者で、ツ-ル-ズの攻防戦で女性群の石弓があたり頓死したシモン・ド・モンフォ-ルが一時埋葬されていた。のち他所に移葬(モンフォ-ル・ラモウリ)された。
 13世紀、カルカソンヌが北のフランスに統合される(独立を失う)と、北の大規模で華やかなゴシック建築様式に建て替えられたが、資金不足のため外陣は、ロマネスク様式のまま残された。この教会が、内陣部分がゴシック様式、外陣部分がロマネス様式であるのはそのためである。                  11:30、サン・ナゼ-ル教会を退出。
  
 Rue de Pioの坂道をのぼり途中、井戸をみて、マルコ広場(Pl. Marcou)にくると、レストランがたくさん広場を囲んでいる。今夜はこの広場で夕食を取る事に決め、11:30 ホテルにもどり、一休みし、午後に備える。午後はミデイ運河に行く。

Canal de Midi
 ホテルで一息ついて、13:00、タクシ-を呼んで、キャナル・ド・ミデイ(ミデイ運河)に行く。
 下の町にあるカルカソンヌ駅前が遊覧船の乗り場である。乗船まで時間があり、カルカソンヌ駅構内で軽食を食べ、駅構内と駅看板を見学し、駅周辺をぶらっとひとまわりする。

             【 カルカソンヌ駅】

14:00、地中海と大西洋を結ぶキャナル・ド・ミディ(ミディ運河)の観光船に乗る。


 東へ3km航行し、途中でUターン。10才くらいの一人息子を大事そうに連れた夫婦ととなりあった。運河の仕掛け(水門)をまじかに見ることができた。  

 途中でUタ-ンし、西向きになる。 このまま運河を西にたどっていくと、一昨日のモワサックのガロンヌ運河に至るのである。フランスでは運河が至るところに建設され、内陸の流通・通運におおいに貢献しフランス国土、国力の発展をささえたのである。運河沿いの土手のうえを自転車がはしる。フランスは自転車王国でもある。木々のむこうにシテの城砦や塔が望めた。
 15:30、発着所にもどりボートを降り、歩いてホテルまで帰ることにする。

 途中の目抜通り(ル・ド・ジョルジュ・クレマンソ-)は、日曜日のため商店街は閉まってひっそりしておりもっぱらウィンドウ・ショッピングである。


カルノ広場(Plase Carnot)では男たちが「ペタンク」という遊びをやっているのを見物。


 去年バスクでは、ペロタ(手で打つテニス)というスポ-ツがあった。                 ペタンクの広場ではお祭りが近いのか足場を組んだ舞台があり、フランスのポップス音楽がガンガン流れやかましい。昨日の観光案内所(Office de Tourisme)の広場(Plase Mal de Lattre de Tassigny)にも立ち寄り、ガンベッタ広場(Square Gambetta)を横切り、ポン・ヌフまで行って昼間のシテを見る。昨日は車で一瞬通過しただけでじっくり見れなかったので、いまは、飽きるまで見る。

シテ(城砦)の中心にドンジョン(天守閣)がある。

  その城壁は威圧的であるが、人を寄せ付けないほどではない。左右前後に突き出す塔の総数は52。買ったガイドブックの図面で塔(tour)の数を数えると、外側城壁に14塔、内側城壁に25塔、コンタル城に9塔、計49塔で52に足りないと思ったが、3ケ所の外塁(Barbacane)も勘定に入れると52塔になり 辻褄が合う。52ある中でもカド地の塔が特に重要のようである。正面(西面)城壁の長さは約450m。一周の長さは約3km。なるほど中世城砦の典型といってよい城砦だ。最初にシテの観光写真を見たのは10年ほど前だったか?。いつか来てみたいと思ったが実ったことになる。
 帰りは、旧橋(Pont Vieux、歩行者専用)を渡り、坂をあがりホテルへ戻る。

                 【 旧橋 】

 夕食は、シテ内・マルコ広場に行き、「LE TROUVERE」で僕はまたカスレを食べる。美穂子さんはイカの(  )。ワインは50clサイズでがまんした。 腹ごなしに、またオード川にかかるポンヌフに、今度は夜間照明されたシテを見に行く。壮観、美観であった。

             【 シテの夜景 】

 22:30、 ホテルに戻る途中、上り坂の壁面のペイント画をながめる。よけてくれた青年たちに「メルシ」というとなんと日本語で「どういたしまして」と返事される。
 さて、明日からのスケジュ-ルをどうこなすか、話合う。レンヌル・シャト-へはカルカソンヌから行きたいが、そうすると、モンセギュ-ルへはレンヌ・ル・シャト-から往復コ-スとなり無駄なコース取りになってしまう。ペイルペルテユ-ズ方面も山間部にあること、途中宿泊地をどこにするか、など少々あたまを絞る。
 結局、カルカソンヌからツ-ル-ズ方面へすこしもどり、高速をおりてミルポワ→モンセギュ-ル→レンヌル・シャト-→ペイル・ペルテユ-ズと、一筆書きのコ-スをとることにした。I-padでモンセギュ-ルにシャンブル・ドットをさがし、みみさんが僕のケイタイからフランス語で電話をかけ、交渉、確保する。「朝食はついているか」と念をおすと「付いていますよ、安心しなさい」とさとされたようだ。おばあちゃんの感じだったとのこと。みみさんのフランス語、全開である。


6日目 10月6日(月)

 8:40、カルカソンヌのホテル・アラゴンを出発。
 高速道路A62号線をBramまで北上し、そこで降り、D4、D119、と地方道にハンドルを切る。フランスの田園風景がはじまった。

  いままでは都会か町場か高速道路ばかりだった。ひろびろとひろがる草地、畑、ぶどう畑。波打つなだらかなアップダウン。車も人もまったく少ない。いい気分だ。対向車は少ないがとばしてくる。たまに追い越して行く車も例のごとくとばす。だが、かれらは集落に入ると途端に時速90kmから30kmに急減速。刑罰もきびしそうだが、めりはりのある運転をしている。

ミルポア Mirepoix  9:55~12:20
 ミルポア、という小さな町にはいる。ジャック・フルニエがらみの町で寄りたかった町だ。
ちょうど市場がたっており(月曜と木曜)、人ごみであった。

  この町の広場(place General-Leclec)は、中世の雰囲気、たたずまいである。木製の張り出しを持つア-ケ-ド(couverts)で囲まれその軒先にほられた彫刻(人面やモンスタ-の面)が有名である。来たときの幹線道路に立つミルポワの標識にもその軒飾りのイラストが描かれていたが、実際には人ごみのため、その彫刻がどこにあるか見つけられなかったのが残念である。
 
 この町は、現地入手のパンフレットなどによると、かって「1206年、カタリ派600名の集会が開かれる」などカタリ派が多かった。そもそもこの地方、アリエ-ジュ県自体、カタリ派が多かったのである。        1209年、シモン・ド・モンフォ-ルがこの町を攻撃。カタリ派は駆逐される。シモン・ド・モンフォ-ルの部下が領主となる。                                        1289年6月、この町に入る来る時わたってきたセブン・ア-チ・ブリッジ(全長206m)の下を流れるエル川(le Hers)の大洪水で町は壊滅、放棄され、あたらしく左岸に現在の町ができた。          1298年、いまある教会が建てられる。ジャック・フルニエ(カタリ派敵対者、のちのアビニョン法王ベネデイクト12世)がここミルポワ司教となる。                             後年、ミルポワの司教座は廃止され(1801年)、ミルポアは西隣のパミエ司教座に属するが、昔はパミエよりミルポワの方が格が上だった。したがって教会名もいまは「Ancienne Cathedrale Saint Mourice」(サン・モ-リス旧聖堂、英語名Saint-Maurice’s former Cathedral)となる。
 
 教会内は、側廊は無く、身廊一つ。しかし「堂内の幅は22mと広く、このカテゴリ-(one-span nave churches)としてはヨ-ロッパで2番目」だとのことだ。内陣正面に二層のア-チ型ステンドグラスがあり、また本堂側面からのあかり取りがおおく、堂内はおもいのほか明るい。後部正面に巨大なパイプオルガンが壁を占める。 

            【 教会内、後部】
 ジャック・フルニエの面影をさがそうとする。反カタリ派・ジャック・フルニエの空気(妖気)がただよっているかとおもうと、明るい教会内だが背中がゾクリとした。

          【 教会内、 内陣(祭壇)】

 教会を出て、広場にもどり、人混みの軒先のテーブルでワインなしの昼食をとり、市場の店をもう一度覗きこんだりしてから、12:20、ミルポワを去る。
 D625号線を南へ下り、深山へむかう景色のなか、ラブラネ(Lavelanet)という町を通過する。ラブラネからD625号線をこのまま西へ30km位行けば、パミエを経てフォアという町に行ける。フォアは作曲家ガブリエル・フォ-レ(「夢の中で」「パヴァ-ヌ」ほか)の出身地で行ってみたかったが今回はカットである。この曲は何回もきいて中毒にかかったことがある。(2012年、スペイン旅行後)             (ついでだが、その2012年のスペイン旅行後の「中毒」であるが、ガブリエル・フォ-レのほかにもう一人フランス人で「病原体」がいる。モ-リス・ラベルである。その音楽も「亡き王女のためのパヴァ-ヌ」である。モ-リス・ラベルはフランス・バスクの出身でその生地は2013年の旅行で、サン・ジャン・ド・リュスの海岸から遠望した。)
 フォワという町について、インタ-ネットで得た知識をついでにここに書く。             (Voynichのインタ-ネット・サイトにある「カタリ派の城」より)。「フォワ伯爵はカタリ派を保護した。フォワ伯レモン・ロジェの妹エスクラモンドはカタリ派のパルフェとなる。シモン・ド・モンフォ-ル、この城攻略を何度も試みるも陥落せず。」 ここに登場したエスクラモンドの名前は、ケイト・ロスの『ラビリンス』に登場する。カタリ派の聖女としてである。おそらくそのような人であったのであろう。

モン・セギュ--ル  Montsegur

 ラブラネからD9号線を辿り、山登り開始。高度をかせぎ、何回かのカ-ブのあと、モンセギュ-ルの岩山が突然、天空に顔を出した。見上げるほどの岩塊だ。

               【 モンセギュール城 】

 13:05、陽光の中、モンセギュ-ル峠(標高1001m)に到着。車を休ませる。
 目のまえに、釣鐘状の山塊がデンと鎮座ましまし、頂上(標高1216m)に城砦を載せる。四方は断崖絶壁である。
 カタリ派がここにこもり、1209年から1244年までフランス国王軍とたたかった。1244年3月ついに降伏。兵士や在俗の市民はすくわれる。<完徳者>や<司教>も異端をすてればすくわれた。しかし改宗を拒否した200人の異端の男女は、敬虔な心に包まれ下山、火刑の炎に身を投じる。そのさまは、モス・ケイトの小説「ラビリンス」ほかに書かれている。
 カタリ派とはなんだったか?
 10世紀、東欧ブルガリアの宗教家ボゴミ-ル(Bogomir)が創始者、11世紀東ロ-マ帝国(ビザンツ帝国)でドグマ化し弾圧され、イタリア、フランスなどに教義が流入した、とする説がある。そうでないとの説もある。現世の物質世界、一切の教会的・国家的権威、国家権力を否定し、「聖霊による洗礼」のみを肯定する禁欲主義。しかし労働を尊重、利息の徴収を認める。信者は<完徳者>と平信徒に分類されるが、教会組織としての教会は否定され、「クリスマス」もない。これがローマ・カトリック教会および国家にとっておおいなる脅威となったのだ。教会や領主の圧政にくるしむ下層民が続々とカタリ派となる。いや、下層民だけでなく、カタリ派を保護する領主はラングドック地方に多く、カトリックにもくいこむ。
 たとえば、
「トール-ズやアルビとおなじように、カルサス(カルカソンヌ)地方では、カトリック教会の正面に、司教、二人の補佐、数多くの完徳者、助祭、説教師たちで組織されたカタリ派の教会がたちはだかっていた。1208年以来、カルカソンヌ司教のベルナ-ル・レモン・ド・ロクフォ-ルの母親自身が完徳者の衣をまとっていた。司教の兄弟であるギョ-ムが最も激しいカタリ派の領主であった。他の二人の兄弟が異端者の衣をつけていた。」(ESTEL社『カルカソンヌ』P.31)

 対決は、1209~1229年にかけ、<ツ-ル-ズ公レイモン6世>対<ロ-マ法王イノセント3世・フランス国王フィリップ2世>として頂点に達する。法王やフランス国家の側に<シモン・ド・モンフォ-ル><シト-派修道会><北フランス貴族>がいる。この対決軸は単に宗教的対立にとどまらず、ラングドック地方、南フランス地方のゆたかな農業生産物、ゆたかな地理的条件をねらう北フランス勢力の領土的、経済的野望とのたたかいでもあった。十字軍の攻勢にレイモン6世はついに12  年、パリ条約(?モ-条約?)でフランス国王に屈服し、ラングドックはフランス王の支配下となる。ここにアルビジョワ十字軍終了。平地部はカトリックが制圧することになり、行く手をなくしたカタリ派のひとびとがモンセギュ-ルへと集まったのである。カタリ派の最後の組織的な抵抗が、1244年のモンセギュ-ルである。守備隊長ピエル・ロジェ・ド・ミルポワらであった。

 以下、ESTEL社『カルカソンヌ』(日本語版、P.42)より抜粋・編集する。             
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 もともと、この山頂に廃棄された砦があった。異端者のギョ-ム・ロジェ・ド・ミルポワとその妻フルニエ-ル・ド・ペレイユの息子レイモン・ド・ペレイユは、1206年、ラングドックの四つの教区のカタリ派司教と完徳者の要望にこたえ、この山の頂上に、城館と村を建設する。
 1209年、先の開始。1244年まで続く。
 1232年、レイモン・ド・ペレイユのいとこで娘婿ピエル・ロジェ・ド・ミルポワが、城の共同領主となり、11人の追放騎士や500名の歩兵・騎士、弓兵、等からなる守備隊とともに、防御と兵站をうけもつ。食糧・飼料獲得のための遠征、完徳者の巡回の護衛、身代金のための誘拐、封土の税金徴収などにたずさわる。モンセギュ-ルは地域全体に光をはなち、共鳴者・職人・商人が砦にのぼり、聖職者と接触する。帰依者はラングドック全域からここに避難所をみつけることになった。                         1241年、ツ-ル-ズ伯と国王による最初の攻囲。 
  1242年、ピエル・ロジェ、アヴニョネに集結していたカトリック聖職者や審問官を奇襲し暴動をおこすも、副王・ユンベ-ル・ド・ボ-ジュにより鎮圧。 

  1243年、モンセギュ-ル以外のすべての反逆者、国王と平和条約をむすぶ。
  同年6月、国王側、再攻囲を始めるが小競り合いいがい、なにも起こらず。12月、少数のガスコ-ニュ人が岩山を登攀、城壁に対し投擲器を据える。
 1244年3月2日、ミルポワ降伏。兵士や在俗の市民は命をすくわれ下山。完徳者は異端を捨てるか火あぶりにされる。3月15日、200人の異端の番所が下山し、敬虔な心に包まれ火中に身を投じた。
 さらにのがれたカタリ派は、ケリビュス城に籠るが1255年降伏。
 善信徒の信仰は14世紀末まで実践された。
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 以上、引用である。のがれたカタリ派は、ケリビュス城に籠るが、1255年降

              【 モンセギュ-ル 】 (絵葉書)
 「モンセギュ-ル」とは堅固な山という意味である。作曲家リヒャルト・ワ-グナ-は、この山をヒントにオペラ「パルジファル」に登場する聖杯の山「モンサヴァ-ト」を生み出した。(ケイト・ロスの前記小説による)
我々は山頂には上らず、13:05~14:05まで1時間、峠から城砦を見上げてすごした。

 14:15、昨夜予約した.ふもとのモンセギュ-ル村のシャンブル・ドット「Hotel de Conquet」(大桶)にチェックインする。早すぎる時間であるが今日は無理しないことにしたので、村の中を歩き回るが村人ともろくに行き会わない。モンセギュ-ル博物館も、なんと、休み!教会も鍵がかかって入れない。
 雑貨店で本2冊買う。
『Sur les traces des Cathares・Le Chemin des Bonshommes』(Topo Guides社)
『MONTSEGUR』(LOUBATIERES社)、いずれもフランス語本。19.70ユ-ロ。
英語本、日本語本なし。

村はずれの絶景ポイントからちがった角度から城砦を見上げたり、パン屋でパ買ったパンを、ひとけの無いモンセギュ-ル教会の庭のベンチに腰かけてかじったりして過ごす。時間をもてあましぎみであった。シャンブル・ドットの老夫人から(モンセギュ-ルの)山に登ってきたかとたずねられたが、NON。彼女はモンセギュ-ルには「何十回も数えきれないほど上ったものだよ」と控えめに、笑みをたたえて言った。昨夜電話でみみさんと応対した人はこの人だったが、もはや枯れてカタリ派の人かと思った(笑い)。

          【 シャンブル・ドット 「Conquet」 】
 夜は冷えてセ-タ-を着込んだ。暖炉には早やくも薪がくべられ、くすぶったが暖かい。山奥にいるというかんじで早々とベッドにもぐった。

第7日目 10月7日(火)朝、空気はひんやりである。空は濃く青い。
           【 モンセギュール村の朝 】

 モンセギュールのシャンブルドット発、9:00。
 ここから先、レンヌルシャト-~ペイルペルチュ-ズ~ケリブス城にかけてのコースが、今回のフランス旅行でもっとも身構えてきているコースのひとつである。なにせ山間部で道がちゃんとあるか、地図をみて想像するほかない。まずD9号線を道なりにくだり、村はずれで大きく左へヘアピン・カ-ブ。モンセギュ-ルの山を左手高くに垣間見ながら、ジグザグカ-ブの林間をくだる。対向車はほとんどないい。川べりのかんじで(せせらぎの音が聞こえた)、D9号線をベレスタまで行く。

 ベレスタのT字の突き当りを右にまがりD117号線となる。まもなくPuivert(ピュイヴェ-ル)という標識があった。ここにも有名なカタリ派の城があるはずだ。のちに調べると、Chateau Camp-Ferrierという名前である。カルカソンヌで買ったESTEL社の日本語版『カルカソンヌ』(P.46)より以下を抜粋する。

 「12世紀の城館が13世紀末に消えた湖の岸辺の高台にある。一般にカタリ派の要塞が野性的な岩山の中にが多いなかで、開放的なくつろげる風景の中にある。(事実美しい城館の写真が掲載されている。)城館はコンゴスト家のもので、ラングドックの異端者の流れをくむ主要な家系とつながっていた。ベルナ-ル・デユ・コンゴストはモンセギュ-ルの領主レモン・ド・ペレイユの姉妹のアルパイクス・ド・ミルポワと結婚。彼女は当時ラングドックで開花していた文学や音楽家のサロンをひらく。十字軍の直前、病気を自覚し、自身をカタリ派の「完徳者」の家に運ばせ近親者に囲まれて亡くなる。ベルナ-ルも1232年、モンセギュ-ルでカタリ派の信仰を堅固にして亡くなる。十字軍の攻撃がはじまると、彼らの息子ガイヤ-ル、そのいとこベルトラン・ド・コンゴストはモンセギュ-ルの守備隊としてさいごまで聖地を守る。(      )年、シモン・ド・モンフォ-ル来襲のとき、ピュイヴェ-ルは3日間抵抗するが降伏。領地はフランス側の領主に与えられる。14世紀初め拡張され、現在の美しい城壁がつくられる。四角形のドンジョンの最上階にはアルパイクス夫人の《愛の宮廷》を想起させる、楽器をもった音楽家の彫刻が装飾されている。」 

 ピュイヴェ-ルは勉強不足で事前の予定にまったく入っておらず、通過した。道中、ピュイヴェ-ル城とおもわれる塔が見えた。
            【 ↑ ピュイヴェ-ル城と思われる塔 】
 やがてひらけた野原地帯に十字路があり、カ-ナビが左折せよ、という。明らかに指示ちがいと思うが、遊び心で左折していってみると路面が悪くなり谷におりていくので、1kmくらいでやめてもどる。正解だった。しばらく本線を行くと、右下にまとまった集落のある町が木の間からみえてきたからだ。それがQuillan(キャン)の町だった。                                        T字路で左折しD118号線を走る。集落や人がおおくなる。Esperaza (エスペラ-ザ)という標識もちらっと目にはいる。ここはレンヌルシャト-のベランジェ・ソニエ-ル神父の秘書マリ-・ベナルノ-(Marie Denarnaud 1868~1953)の出身地である。                             まもなく右折指示がでる。そろそろそれが、レンヌルシャト-への登り道のはずだ。果たしてそのとうりだった。建物がきれたところが右への三叉路で一気に曲がる。ここはQouiza(クイ-ザ)という町である。カルカソンヌから走ってきた場合は、向こうからきてここで左に曲がるのである。              あとは狭い山道を3.5km。googleのstreet viewで何度かヴァ-チャル・ドライブした道で見覚えがある。峠で正面にどっしりした山(ベッシュ・ド・ビュガラック山・Bugarach)があらわれる。さらに上ると1~2分で、レンヌルシャト-の入口についた。


謎の村・レンヌルシャト- 
10:25~14:15 Renne-le-Chateau               
 村のなかを、道なりに登っていくと頂上のパ-キングに着いた。 10:25。               ダン・ブラウン』ダ・ウ゛ィンチコード』にでてきた『レンヌルシャト-の謎、イエスの血脈と聖杯伝説』(柏書房)で有名になった村である。この本はなんども読み返したものだ。
 車をおりて早速教会にいく。ところが、今日に限り映画のロケ隊が撮影をしており昼休みでないと入場できないとのこと。いきなり、がっかり。仕方なく村内を探検。村の入り口までひきかえし、登りなおす。道では、村人に一人もあわない。人口わずかに200人。それでも本屋が2軒。教会の入口の本屋は土産物屋をかねている。昼食は「Le Dragon de Rhedae」というレストランに入る。店名が気に入った。Rhedae(レーデ)とはレンヌルシャト-の近くにあった昔の都市名である(西ゴ-ト時代)。こんなところに都市があったって? それがどうやら、そのようであるのだ。レストランのメニュ-は「formule entre plat」(お急ぎ定食)で、野菜ス-プ、タンドリ-チキンと玉ねぎのグラタン、白身魚のアリオリポテトである。運転するので、ワインはなし。
 12:50 教会にもどると撮影隊のメンバ-付き添いの条件で入れることになった。
しかし、ただでさえ狭い教会内は撮影機材に占領され、付添がいるのもうっとうしく、落ち着いて思考しながら見れない。 特に祭壇(altar)まえに照明器具がデンとかまえ、足元には電気コ-ドがからむ。それでも、祭壇奥や、入り口わきの「聖水盤とデヴィル像(アスモデウス、Asmodeus)」などに、それらしき雰囲気はあった。ただしそれだけだ。

  しかしと言うべきか、右壁のマグダラのマリア像や、床面の市松風模様や、祭壇の絵などは見落とした。いや、見たはずだが、思考していなかったのだ。教会の入口上部の文字「この場所は畏れ多い」(ラテン語で、TRRIBILIS EST LOCUS ISTE)も見おとした。ああ、なんということか。
 次は庭園と美術館とマグダラ塔である。ところがこちらは完全シャットアウトである。撮影中だから明日来いという。「冗談じゃないよ、こちらははるばる日本からきたんだ」とベタニア(Bethania)荘の前で粘るがガンとして聞き入れられない。「ネットをみてきたか?ネットには今日休業と書いてあるんだ」と。一緒に来ていたベルギ-人カップルも残念がる。仕方なく外からマグダラ塔の下をぶらつく。
            【 マグダラ塔 】
 ここまで来たのに何たることか。かなたの南西の山に風力発電が20~30基ほど一列に見えたが、むなしき景色だ。たしかに庭園内ではキャストが演技していたのであるが、明日は来れない。
 謎の村・レンヌルシャト-。
 1885年、この教会に赴任したブランジェ・ソニエ-ル(Bereger Sauniere、1852~1917))神父は、谷向こうのブランシュフォ-ルの教会の司祭アンリ・ブデからこのあたりの郷土の話をきく。そして自分の教会をさぐる。その時、教会地下から何らかの秘密を書いた羊皮紙を発見したといわれる。それををもってカルカソンヌの司祭に相談すると、パリのサン・シュルピス教会の司祭に相談に行くようすすめられパリに行く。パリで何があったかはわからない。しかしかえってくると、にわかに自分の教会の大改装、庭園の大修復、数奇な建築物(ベタニア荘や「マグダラ」塔)の建築にとりかかり、村の道路や水道設備も費用を出してととのえる。が、寒村の教会のお布施ではとても足らない資金をどこから得たのか?地区の司教区は、彼をお布施を過剰にとりたてた疑いにより解任する。しかし、ブランジェ・ソニエ-ルはなんとヴァチカンに訴え、解任を撤回させている。ロ-マ法王をも動かす何らかの秘密を得ていたのではないか?そして彼は1917年、カトリックであるにもかかわらず死に際し終油の懺悔式を拒否して死を迎える。遺産は膨大であったらしい。遺産は秘書のマリ-・ベナルノ-に相続され、彼女は1953年まで暮らす。資金のもとは、教会祭壇の西ゴ-ト時代の柱の中から得た謎の羊皮紙にあるらしい。が、確証はない。考古学者やお宝発掘隊が来て地面を掘ったが黄金はでてこない。
 レンヌルシャト-の謎の核心は、秘境的・異教的シンボルに満ち溢れた改修とその内容なのである。しかもここレンヌル・シャト-にシオン修道会の本部があったらしい。シオン修道会とは何か?シオン修道会はキリストの血脈をつたえる。ところでシオン修道会とは実在したのか。 それが歴史にあらわれたのは、つい最近、1955年のことである。
 これらについては、先の『レンヌル・シャト-の謎、イエスの血脈と聖杯伝』(柏書房)のほか、     『レンヌ・ル・シャト-の真実』(ロバ-ト・ウェルズ、KKベストセラ-ズ)が、面白い。       東京・大田区・西蒲田に「シオン・キリスト教会」があった。シオンとはエルサレムがある丘のことだ。
 14:15、レンヌルシャト-を後ろ髪をひかれる思いで立ち去る。さらに奥地のカタリ派の城を目指さざるをえないのだ。

  レンヌルシャ-ト-を下ったすぐの肩にあたる峠は十字路である。真ん中の細い道をおりて行けばかのブランシュフォ-ルへ行ける。シオン修道会のピエ-ル・プランタ-ル総裁はそこブランシュフォ-ルの出身なのである。登ってきた時の本線は左であるがそれをおりてクイ-ザから一旦D613号線をたどりその後D14号へ右折しペイル・ペルテユ-ズへ向かうのが正当だろう。しかし未知の右への道を行ってみたい。それは近道でもある。最後までまよったが、GPSがなんと(!)右折せよと指示を出す。行けるらしいことはわかっていたが、途中の確たる情報がなく、決断できなくていたのであるが、この時ばかりは「GPSよ、いい判断するなあ」とGPSを心強く思った。右にハンドルをきる。
 ここからは事前の情報がえられなかったので未知数のコ-スである。農道と同様で、簡易舗装されてはいるがでこぼこ道。


 車のすれ違いはない。人にも会わない。石橋をわたる。のんびりした風景で、日本の山間の田んぼのなかの雰囲気。また石橋があった。集落はみあたらず、あっても森かげに数軒のかんじ。(地図上にはLa Maurineと Lavaldieuという集落が記されている。) 途中、白馬に跨ったカウボ-イ二人とすれ違っただけ。挨拶に手を振る。さきほどの峠で見えていた山が近ずいてくる。ビュガラック山(Pic de Bugarach、1230m、カタロニア語でPueg de Bugarag in Occitan)である。突き当りの三叉路で、右折する。これがD14号線のはずだ。 

                 【 ビュガラック山 】

 ビュガラック山は近寄るほどに荒々しく、見上げる絶壁になる。ミデイ・フランスのここコルビエ-ル山塊では最高峰である。ちょっとした町(ビュガラックという町)を通過するが、山は町に覆いかぶさるくらいになる。畏怖を感じるほどである。花崗岩と石灰岩とのことだ。山容自体、奇怪な容貌で、それが形をかえて、我々にせまり、伴走し、やがて右手後方に去った。日本では見ない奇っ怪いなタイプの山だった。ヨーロッパ大造山運動という地理の言葉を思い出す。
 
 このさき道がどんなだったか、よく覚えていない。それほどの悪路でなかったことは覚えている。峠の表示が二つあったのは覚えている。(Col du linas ともう一つ)。森林、カーブ、アップダウン。加速と減速のくりかえし。右手前方にうねうねと、別の奇っ怪いなかたちの、しかし今度はウナギの寝床を岩盤にしたような山塊があらわれる。ペイル・ペルテユ-ズ近しと直感。スラジェ(Soulatge)の町はずれの窪地で5分間休み、この山塊をバックに写真を撮る。

                 【 ペイル・ペルテュ-ズ山塊 】
  この山塊としばらく平行して走ると、道は徐々にその山塊に飲み込まれ、またきついカ-ブの上り坂がはじまる。かなり上った所で峠を二つ越す(col de Gres とcol de la Croix dessus)。こんどは下り急坂で大きく右へ旋回し、下の町に落ちていく感覚である。その町はデユイアック・ス・ペイルペルテユ-ズ(Duilhac s/s Peyrepertuse)でペイル・ペルチュ-ズ城への登山口だ。右側に町へと登る分岐があるはずで見落とさぬよう目を凝らしていく。一瞬標識をみとめ、急坂を駆け上がる。やすむことなく高度が高まる。気をぬくと後方へひきずりおろされる気がした。集落の最上部のリゾ-ト風の建物(多分、ホテル)を過ぎると、森林帯になる。16:00、行き止まりのペイルペルテユ-ズの駐車場に着いた。レンヌル・シャト-より58km。

16:00~16:30、ペイルペルテューズ(peyrepertuse)城。

  切り立った石灰岩の岩山の突起のつながり、それがペイル・ペルテユ-ズである。
ここは、 隣接するピュイロ-ランス、ケリビユス、アギラ-ル、ヴィルル-ジュ・テルムネスの要塞とともに、1659年まで、つまりルション地方がピレネ-条約でフランスに編入されるまで、スペインにたいするカルカソンヌの南方の前線基地で、「カルカソンヌの五人の息子」とよばれた。

 これらのうち、ケリビュスは明日行くが他の三つは行かないのでどんな所か調べる。
ピュイロ-ランス(標高697m、Puilaurens)は、10世紀末以来、サン・ミッシェル・ド・キュサ修道院(明日ころ訪問予定)に属していたが、追放されたカタリ派領主に占拠された。ここも岩山の険しい急斜面のうえにあり、フランス軍の弾道兵器や坑道掘削機械では攻め落とせず奪取されなかった。戦いのあとは放棄された。(ESTEL『カルカソンヌ』日本語版P.45) 写真を見ても難攻不落をおもわせる。五人の息子の中ではもっとも険しいようだ。場所はここから南西方向である。


 【 ピュイロ-ランス城。この写真はESTEL社『カルカソンヌ』P.44より。行かなかった。】
 更にヴィルル-ジュ・テルムネス(Termes)城は、ここから北方にあり、ケリビュス城陥落(1255年)のあともさらに、さらに生き続けた最後のカタリ派がおり、その信者が火刑となったのは、1321年、ケリビュス城よりさらに66年後(!)である。ここに今、「ヨ-ロッパ唯一の中世風焼き肉店がある」(『地球の歩き方』)というが、ブラック・ジョ-クではないか。 火刑と焼肉とは!
 最後のカタリ派(パルフェ)の名は、ギョ-ム・ベリバステというようだ(ネットの、Voynich.comの「カタリ派の城」より)。        
 アギラ-ル(Aguilar)城はここから東方にあるが、調査中。  

 ところでこれらカルカソンヌの五人の息子が歴史からしりぞかされた1659年のピレネ-条約は、ここルション地方で締結されたのではなく、はるか西方、バスク地方で締結されたのである。フランスとスペインはその証として、フランス・太陽王ルイ14世と、マリ-・テレ-ズ(スペイン王フィリプ4世の娘)の結婚をおこなった。その結婚式場が、フランス・バスクのリゾ-トの海岸の町サン・ジャン・ド・リュスの「サンジャン・バテイスト」教会であり、昨年のバスク旅行でまえを歩いたものである。
 五人の息子の他にも、カタリ派の城としては、セッサク、ラストウ-ル、ミネルヴ、(以上の三つはカルカソンヌの北、オ-ド川の北にある)アルク、Durfort、Padern、そしてすでに述べたモンセギュ-ル、ピュイヴェ-ル、がある。

 さて、ペイルペルテユ-ズはこれらカタリ派の城の中では最大の規模であり、コルビエ-ルや、フヌイレ-ド(ケリビュス城の方面)との交差点に位置するが、単なる城館というより、街路や教会(サント・マリ-教会)等を備え、「天空のカルカソンヌ」と呼ばれる城砦都市である。標高約800m。稜線の岩石群を利用した長さ300m、最大幅60m。東側は絶壁のようである。上の城と下の城にわかれる。城壁、城館、階段が岩山にきりひらかれたサン・ジョルデイのドンジョンをふくむ上の城(東の城の端から「聖ルイの階段」をのぼる)は、カタリ派後のフランス王ルイ9世時代に築かれたので、実際にも戦闘はなかった。 

 下の城はアルビジョワ十字軍時代より以前にすでにきずかれており、もちろんカタリ派がのがれてきたが、フランス国王に服従しなかった地域の最有力領主、ギョ-ム・ド・ペイルペルテユ-ズはカタリ派を保護した。彼は1217年5月22日、シモン・ド・モンフォ-ルと談判し、戦をのがれる。しかし20年後、フランスと戦う。彼がフランス王に再び服従したのは、1240年、カルカソンヌ奪回のトランカヴェル最後の蜂起が鎮圧されてからであった。 (ESTEL社「カルカソンヌ」P.40より)

 我々はトレッキング・シュ-ズを持ってきていないので登るのは 断念し、しがって、登れば望めたであろう地中海やそのたの絶景もみなかった。しかし、駐車場上方の谷側にせりだした展望台から岩石群を見上げたり、東南約6kmにみえるケリビュス城や、ケリビュス城をへだてる谷間の空間とペイルペルチュ-ズ集落を見下ろしたり、人里離れたこのような環境にのがれざるをえなかったカタリ派に思いをはせたりして過ごした。

 さて今夜のねぐら探しの時間となった。この辺りの大きな村Cucugnanにむかう。
 急坂、急カ-ブを駆け下り、知らぬ間にあっというまに、Duilhacの町を駆け下りたようだ。てっぺんに風車がある丘がみえてくる。一瞬、2011年訪問したモロッコの、ム-レイ・イドリスに似ていると思った。ただし、風車が無ければの話だ。それがCucugnan(標高299m)の村だった。 

公営のパ-キングがあったのでそこにとめる。インフォはどこにあるか予備知識はないので、自立看板のホテル案内図を見て、直接宿にあたることにした。一軒目は満杯。17:15、二軒目の1階が書店で、2階がシャンブルドットの「Les Santolines」にはいってマダムに宿を求めるとかんたんにチェックインできた。実に機械的で感心した。

  シャンブルドット「レ・サントランヌ」 Les Santioline】

 部屋の窓をあけると、森林の稜線の上に、ケリビュス城がまじかにそびえる。距離約1.5km。 

 
 20:00頃、紹介してもらったレストラン「AUBERGE DE CUCUGNAN」に行き、19.5ユ-ロのムニュをとる。料理はウサギ(lapin、ラパン)だった。地場の白ワインをのむ。美穂子さんはいままでのなかではここが一番きにいったようだった。食後、暗いなか、周辺散歩に山の手に行く。人っ子ひとり、会わない。闇の中から夕方見た風車が大きく右手にあらわれ、脇にパン工場があった。
   宿→50ユ-ロ。
   レストラン→

第8日目 10月8日(水)
 今日は我々の長女の真帆さんの誕生日である。おめでとうメールを打つ。43とは驚き。
 窓をあけると、周辺は霧である。今日の運転は霧の中かもしれない。緊張してくる。朝食はシャンブルドットの1階でとっていると、給仕の女性が「あなた方、ジャポネ-?」「ここにはジャポネ-がいるわよ。」「パン屋で働いているわよ。母上も来たわよ」という。食後の散歩で行ってみる。昨夜の散歩は暗闇だったが、明るい中ではまた違う。風車の横のパン工場を覗くとすでに若者がパン粉をこねていた。美穂子さんが語りかける。パリで知り合ったフランス人の紹介でここへ来て修行中、すでに半年、京都出身の青年だった。オ-ヴォワ-ル、と言ってわかれる。
 9:30シャンブル・ドット出発。
 昨日までのD14線を左に別れ、D123号線を南下する。といっても早速カ-ブ、カ-ブの登り坂で、霧の中から大型トラックが1台、バオ-ンとあらわれる。昔のアメリカ映画「コンボイ」のトラックみたいなやつだった。路幅と、対向車と、標識にだけ集中する。ケリビュス城への入口は進行方向左にあるのだが、なんだか右にあるものとばかり錯覚してしまったので、左に道路管理の黄色の車が停まっていたのをよけていくと、にわかに下り坂になる。一時的な下り坂だろうと思っていたが、どんどん下り景色もひろがるのでおかしいことにきずいてUタ-ンしたのは、かなり下に行ってからだった。Uタ-ンできる場所がなかったのであるが、なんとかしてもどってくると、先の黄色の道路管理車がとまっていたところにはもうその車はおらず、霧も晴れてなんとそこにケリビュス城への標識が立っていた。そこは峠のてっぺん(分水嶺)だった。ガッデム!と言ってそこを右にあがる。こんどはもっと傾斜のある未舗装の山道になり、ガ-ドレ-ルもない。大体これまでずっと、ガ-ドレ-ルはどこでも無かったので驚かないが、道幅はそこそこあった。だがアクセルをゆるめるとバックしてしまいそうだった。


ケルビュス城  9:50~11:00
ケリビュス城直下の駐車場に着く。


 見上げる空に、流れる霧の中から、スパっと切れた垂直の壁面を太陽に光らせたケリビュス城があらわれた。イヤ-、圧巻であり神秘的だ。青空をバックに霧の流れは速く、一瞬かくれたかと思うとまたすぐ現れる。
ここは、フヌイレ-ドという地方、海抜729m、高コルビエ-ル地方の中心である。
 1244年、モンセギュールでカタリ派が組織的にほろびたあとも、難攻不落の最後の避難所、遍歴者の宿営、あるいは終の住処として、非合法な帰依者をうけいれた。1229年ここに避難したラゼスの司教ブノワ・ド・テルムのような最後の「完徳者」の退去あるいは死後、1255年、ケリビュスは降伏する。
(しかしカタリ派はさらに生き続け、さきの「カルカソンヌの五人の息子」の一人・ヴィルル-ジュ・テルムネス城で最後のカタリ派が火刑となったのは、1321年である。)

 登頂には1時間ほどかかるという。我々はトレッキング・シュ-ズの準備がないので昇らず、下から見上げてすごす。ツルっとした垂直の、カドのとれた壁面の城砦は現代建築のようだ。実際、このカドを落とした、類例のない形の城砦であるケリビュスは、カタリ派のあとのフランス国王側の建築である。この形からカタリ派に思いを馳せるとは皮肉なものだ。城砦のなかにゴシック様式の大広間(salle du pilier、柱の間)もあるという。城砦のてっぺんからは、地中海からピレネ-まで心あらわれる景色がひろがっているとのことだ。
駐車場の売店が開き、カタリ派がらみの黒のTシャツと、これから行くカニグ-地方の5万分の1の地図があったので買う。Zodiac叢書がないか訊ねるが、無いという。あってもフランス語が読めないので詮無いことではある。すぐ近くの南西にある山のかたまりは、花崗岩か石灰岩の白と、灌木の緑がまばらのけわしい山容で、その白と緑が日本庭園の色具合を想起させた。山名はあとで、Roc du Courbas、とわかった。日本の山とちがう。                                              11:00、ケルビュス城を発つ。さらば、カタリ派の城よ!郷よ!

 カタリ派の地を脱出し、一路、カニグ-山に向かうことにする。
 行く先はベネデイクト派のロマネスク修道院、サン・マルタン・ド・カニグ-修道院である。
 ケリビュス城の下の先ほどの分岐点の峠(432m)は、州境でもあり、D123号線は、ここからピレネ-・オリアンタル州に入りD19号線と道路名を変えて、気持ちよくくだる。下って行く渓谷は、MAURY川。その向こうに一山こえてまた渓谷がありそこからさきがピレネ-の山すそである。先ほどUタ-ンした場所をなつかしく通過し、下りおりた町はMaury。11:06、通過。
 この先、一山超えて、Tet川渓谷の<N116号>に乗るまで、38分間、どの道をどのように走ったのかよくわからない。写真とメモの記録がないのである。記憶はある。ところがその記憶と地図が合致しないのである。わかるのは、突然、高速道路仕様のN(国道)116号線に合流した(11:44)ところからである。そのあと、左前方にこれまた異様に巨大な黒い教会建築があったこと、「Belesta 右」の標識をみたこと、「地図によると右におおきな湖(Lac de Vinca)があるわよ、」と美穂子さんが叫んだこと、「Eus 右」の標識を見たことなどである。 【あとで整理すると次のコ-スだったようだ。Maury → D117  →Estagel → D1 → St-Feliu de AvailでN116号にのる。】 かの異様な教会建築は、イル・シュル・テット(Ille-sur-Tet)の町をすぎた地点であることがわかったが、教会というより軍事要塞といったほうがあたりだ。名前はまだわからない。地図上にまだ特定もできないでいる。

         【 この教会の名を突き詰めたい。】
  Prades、プッラドの町に入ったと思われる頃、ガス欠になりかけていたので、ガソリンスタンドにはいる。給油12:00~12:10 サンプロン(無鉛ガソリン)の油種2つあり。そばのフランス人にどっちがいいのかきいたら、どっちもだって! 機械は私のクレデイット・カ-ドうけつけず、みみさんのICチップのあるクレデイット・カ-ドが使えた。42.6ユ-ロ。29.03リッタ-? マクドナルドで軽食にする。フランスもマクドナルドは多い。(帰国後ブノワさんにこの話をしたら肩をすぼめて両手をたたんだ。)16.45ユ-ロ。
 さてこの先も初めてで多少不安である。車に向かうとき、ス-ツ姿のマドモワゼルに「ボンジュ-ル、マドマゼル、エクスキュズモワ、マドマゼル、ウエラ・モンタ-ニュ・ド・カニグ-?」と尋ねる。あれですと行く手の大きな谷間(とその左の大山)を指さしてくれた。メルシ。ありがとう。景色の中にこれから向かう方角が確認でき、気分が落ち着く。

 出発すると、<N116号線>の高速道路仕様は徐々におわり、地方道路の風情になるが、車の流れは相変わらず速い。大きなロンポワンが現れる。ここがヴィルフランシュ・ド・コンフランVillefranche-de-Conflent、の分岐であろう。ここから右へいくと、Tet川の渓谷がはじまる。直進するとカニグ-山の渓谷(Cady川)の始まりだ。この二つの渓谷の「合流(Conflent)」が町の名前に含まれている。要衝の地で、大きな城塞があり、また山岳列車「黄色い列車(Train Jaune、トラン・ジョ-ヌ)」の出発点があるが、ふたつとも見ずに、カニグ-山の渓谷へ直進する。

              【 カニグ-山へ! 】

 渓谷風の景色があらわれる。リゾ-ト風の集落町(ヴェルネ・レ・バンVernet-les-Bains)を通過する。やがて、カスタイユ村の標識が現れた。


 ここがサン・マルタン修道院の登山口だ。集落が現れ急坂になる。「到着しました」とナビがいうが、町役場がどれかわからないので、適当に左に別れる道へ入り、車をとめる。

13:40。おりて、後ろへ歩いてみると、それが役場でありINFOだったが、閉まっている。まだ昼休みか?
14:00になっても開かない。サン・マルタンにのぼってくれる4WDをさがすのにどうしたらよいか。だれにきいていいか、人もいない。民家へ入ってきくのは面倒だった。やがて山への登り口はすぐ近くにあった。おりてくる人にきくと、40~50分だという。トレッキング・シュ-ズがない。「なくても大丈夫だよ」というが、彼らは我々よりだいぶ若い。
 
 また、食糧、水の準備はしてこなかった。時間もなくなってくる。上りに1時間、現地に1時間、下りに1時間かかるとして、いま行動開始しても降りてくると17;00になってしまう、それは避けたいところだ。サン・マルタンはあきらめざるをえないのか?気持ちが迷いながらしかたなく車をくだらせる。カニグ-村の標識を下りすぎる。「もう一生来れないだろう、ここまできたのに!」。と、その時、なんとかしよう、「4WDが停まっていたところがあった」と美穂子さんがいう。本能的にUターンしていた。あったというところまで戻る。広場の所だ。4WDをみに行く。ある、2台も。しかし人がいない。どこにいるのか?その時、ブルド-ザ-を運転して若者があらわれ広場でなにかやりはじめた。
 14:38、みみが歩み寄り声をかける。彼はブルド-ザ-を降りてくる。まだ若い、中年への入口の感じの、黄色のTシャツとだぶだぶのズボンの、いぶかしげな表情をみせた男は、みみのゆびさした4WDの看板に歩み寄り、その電話番号にケイタイで電話をかけはじめる。

             【 美穂子さん、交渉中 】

 しばらく待つと、タクシ-が上からおりてきてとまる。その人に話せという。話す。かれもどこかへ電話する。「OK。15:30にここで待てるか。料金75ユーロで17:00までにおりてくるが、いいか」と。もちろんOKである。こうして、4WDでサン・マルタンにいけることになった。みみの勇気とフランス語が道を拓いた。さて食料はともかく、水がない。きくと、近くにキャンプ場があるという。そこへ行く。キャンプ場を経営しているロッジだった。こうして水も手にはいった。あの若者には感謝である。フランスの男はマダムに親切であるのが、よくわかった。 

          【 名前をきかなかったが助かった。】

マルタン・ド・カニグ-修道院

15:30、白の有蓋の4WDがきた。さきほどのタクシ-の運転手とは別の男だが、にこやかだ。中年の入口か。ぼくは助手席にのりこむ。登山口はバ-でふさがれている。カ-ドをいれるとバ-があがった。あまり話しかけるのはよくないと思うほどの、ガードレ-ルのない、岩場の、断崖の、幅2mぐらいの、ジグザグの、何回も切りかえし、バックし前進する、あえぎのぼる、心臓によくない悪路だ。4WDは無蓋でなく箱型だったため、恐怖感はなかったが、途中でも、終点でも、たくさんの歩いている観光客がおり、その人たちの前進をとめてこちらが登っていくので、はずかしく思った。車に乗ってやってきたのは我々ふたりだけ。かれらは観光であろうが、気持ちは巡礼のはずだから。「異教徒の日本人が、車で何しに?」と問いかけられている気持であった。

 15:45、ベネデイクト派のサン・マルタン・デユ・カニグ-小修道院の駐車場に着く。

 到着後、タイミングよくガイド・ツア-に入れた。モワサックのサン・ピエ-ル修道院以来、6日ぶりのロマネスク修道院である。現役の修道院であるので、回廊と教会しか見学できない。女子修道院だと読んだことがあったが、男性もいる。ベアテイテュ-ドという共同体でガイドさんは男性だった。かれは「ジャポネ-?」と尋ね返事をすると大歓迎のそぶりをした。
 鐘楼の門を見学し、もどって建物にはいり回廊に出る。


        【 回廊。左の赤いシャツの人が英語で通訳してくれた。】                  

 左手片側は絶壁である。回廊の柱の間から覗く緑の山並みの上にある空は高く、深く、あおい。ガイドは柱一本ずつのまえで時間をかけて懇切丁寧に説明し、フランス語がわからずにいる僕を見ていた中年の女性観光客が、親切にも英語で部分部分を通訳してくれた。が、16:45までに車にもどる約束だったので、このあとの教会見学はあきらめ、ガイドさんに詫びを言ってツア-から別れ、修道院全景を見おろす絶景ポイントへ行かざるをえなかった。裏手の林間の岩だらけのごつごつした斜面を数分のぼったところに、このポイントがある。眼下に修道院全景を見おろす写真で見慣れたポイントだった。
 【 高台にのぼって、サン・マルタン・ド・カニグ-をみおろす。】
 左手に垂直におちる絶壁の深い谷、見上げるまわりの稜線、もうここはピレネ-山脈のやまふところである。
ここまで来ながら、回廊の半分と教会見学が残ったことが大きな心残りである。(今夜のねぐら探しをあせっていたことが原因だ。)
 以下は、この修道院のインフォにおかれていた英語チラシからの抜粋である。
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 修道院の起源は、11世紀ごく初めにさかのぼる。紀元1000年にむけてセルダ-ニュ伯爵ギフレ・カルレ-タがベネデイクト派共同体のために工事を主導し、1009年と1014年に節目の工事があり、それ以降ずっと1783年、最後の五人の僧侶が立ち去るまでベネデイクト派の修道院だった。彼らが立ち去ると間もなく、略奪がはじまり、数年のうちに廃墟になった。修復は20世紀になってからである。初めにペルピニャンの司教カルサラ-ドが廃墟を買い、1902年から1932年にわたり修復。ついで、1952年から1982年にかけてベネデイクト派修道士ベルナ-ル・ド・シャバンが修復した。
                                                 回廊について。

廻廊は最初、建物の壁によって外界とへだてられ外を見ることはできず通路としての役目しかなかった。こんにち見る開かれた回廊は、カルサラ-ドの修復による。二階の回廊はまだ再建されていない。
 廻廊の柱頭の彫刻は3つのテ-マがある。(1)動物、とくにライオン。(2)装飾された植物の葉。(3)寓話の場面。6番目の柱頭は洗礼者ヨハネの首を所望するサロメが悪徳なダンスを舞う図である。8番目の柱頭は、猿と犬が友情を交わすも彼らを裂く蛇があらわれる図である。11番目の柱頭は、司教冠をいただいた修道士の姿をしたデ-モンが地獄に送られる図である。
 また、回廊には、14世紀、この修道院に生きた3人の修道僧の葬儀式が描かれた三つの墓石が埋められている。

教会と地下教会(crypt)について


 初期ロマネスク形式の教会が二つ、重なっている。紀元1000年に下にある教会が建てられ始め、その上に修道院教会が置かれた。これらは1009年に完成し、1014年、拡大が終わる。下の教会は花崗岩の円柱でたてられたが、上の教会の重量は下の教会の強化が必要だった。下の教会の前面をささえている6本の円柱のうちの4本が石造りで補強された。のち、後面も、花崗岩の円柱でなく石造りが用いられた。およそすべての宗教共同体の生活はは教会を中心におこなわれる。教会にはわれらが王、イエス・キリストが住まう。彼は小礼拝堂(tabernacle)の聖典におわす。赤いロ-ソクの光は、神の息子、イエス・キリストが現実にそこにおわすしるしとして、永遠に小礼拝堂の脇で、燃えているのである。
                                                 鐘楼について
 1036年修道院建築の最後を画して鐘楼は完成した。もともとの高さは4層だったが、1428年のカタロニア大地震で再建された時、今日みる3層を再建する資金しかなかっといわれる。

 

墓について
 鐘楼に近い二つの墓は、ギフレ・カルベラ伯爵と夫人エリザベスの墓である。彼らは1035年、隠居し、言い伝えによれば、ベネデイクト派修道士になり、生前に墓をこしらえたという。
                                                 ベアテイテユ-ド(Beatitudes)について。
 1988年以来、この修道院には、ベアテイテユ-ド共同体の人々が住んでいる。公式には、「ジュダの獅子・生贄の小羊の共同体」として知られる。ペルピニャン教会管区はこのカトリック派の共同体に対して、この修道院を、訪れた人々が神の実在を体験できる避難所として維持するよう勧めている。 共同体の人々の日々は、公共の崇拝式(すべての人々に開かれたミサや礼拝式)と、(自身の)祈り・労働・歓待に分けられている。
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 以上、チラシからの抜粋である。
 しかし以上からは、この寺院に関係のあるオリバという人物や、サンミッシェル・ド・キュサ修道院とのつながりが明らかではない。それは、調べなければならない。
 売店で本を買う。
 LESCUYER-RANCHON出版社発行、『The Abbay of St.Martin du Canigou』(英語版)

 さて、約束の時間に少しおくれて4WDにもどると、ふもとの町、ヴェルネ・レ・バン(VERNET-LES-BAINS)を見おろせる展望台にも案内される。ヴェルネ・レ・バンの町は思っていたより広がりがあった。

   4WDにのりこみ下山の帰途につく。途中、下の教会(St-MARTIN-LE-VIEUX)でも下車し外観を見学する。

   
ふもとの出発点にもどり料金を払う。最初にタクシ-をよんでくれた若者へのチップもことずけた。    17:30、写真をとらせてもらってわかれる。

  終始ニコニコした素朴そうな好青年であった。カタロニア人かもしれない。4WDのボデイに電話番号が大書されていた。この会社はレシ-トによると以下の名称である。 
    CIRCUITS TOURISTIQUES DU CANIGOU <Garage VILLACEQUE>
    Tel. 04 68 05 51 14 66820 VERNET-LES-BAINS。
 やはりベルネ・レ・バンの業者だ。カスタイユには業者はいないようだ。
 サンマルタンに行けてよかったと思う。行けなかったら今回の旅行は臥龍天青を欠き、悔やむことになったであろう。自分はなぜここに来たかったのか。人里はなれた断崖絶壁上のロマネスク修道院、という地形立地への興味と、ロマネスク柱頭彫刻からだった。歴史的に大事件があった修道院ではない。要は、この修道院とは何か、をまとめる宿題が残った。

 さてまた、今夜の宿探しである。ヴェルネ・レ・バンよりもっと大きな町、プラッド(PRADO)で泊まることにする。ブラッドのCENTREにナビをあわせ到着し、無料駐車場らしきところへ停め、すぐINFOを探す。それはわかったが、18:00にはすでに20分過ぎており、時遅しで閉まっている。困った。HOTELの名前の道路標識があったのでその方向に歩くも、すぐそこではなさそうで、らちがあかない。それではあす行く修道院の方へ車を走らせ、途中にあるだろうシャンブル・ドットかホテルを見つけることにし、市内のメインロ-ドをはしりはじめた。1~2分走ると、美穂子さんが「シャンブル・ドットがあった」と左を見て声をあげた。


       【↑シャンブルドット Chambre D'hote  Maison Prades】
 ブザ-を押すと禿頭で顔もつるつるしたクルスカンプ風のいかつい大男がでてきて僕をにらむ。手ごわそうだなとおもって余裕をもって「ボン ジュ-ル」と呼びかけ事情をいいはじめると、まもなく、けわしい顔が柔和になり交渉成立。 部屋は3階にあり窓をあけると、「正面がカニグ-山だ、いい景色だよ」と説明してくれたが、平凡な山並みだった。ふもと部分なのだろう。車は裏庭の屋外パ-キングに入れた。夕食はレストランを紹介してもらう。ワイン1本あける。

        【レストラン→Restaurant-Pub LE BRIAL (115avenue du General de Gaulle)】

 
第9日目 10月9日(木)
                   【 朝食 】

          【 階段踊り場の本箱 】

 9:30 シャンブル・ドットを発つ。                                今日はここから2km位のサン・ミッシェル・ド・キュサ修道院に行き、そのあと、セラボンヌ修道院に行き、そのあとペルピニャン方面へ脱出の予定である。サン・ミッシェル・ド・キュサへの道標をたどっていくが、また迷子になる。10:00にサン・ミッシェルの駐車場に到着した。大型バスが1台、乗用車が2~3台とまっていた。

 ABBAYE ST-MICHEL DE CUXA (サン・ミッシェル・ド・キュサ修道院)10:00~11:40    
                                                  昨日とちがって人里に近い修道院である。この地方最大の影響力のあったロマネスク修道院である。キュクサと読まずキュサと読むのは、カタロニア語であるとのこと。天気は曇り。灰色の天気の中の訪問であった。 受付をとうりぬけ、一旦建物の外へでてすぐ別の建物の薄暗い通路に入る。左のかべに穴があり、くぐると、そこは教会の地下にあたるクリプトであった。クリプトは11世紀はじめ、この修道院長オリバにより造られたのである。オリバについては調べないといけない。昨日のサン・マルタン・ド・カニグ-もオリバと関係がある。また、「カルカソンヌの五人」の息子の一人、「ピュイロ-ランス」城がここサン・ミッシェル・ド・キュサに属していたというのでそれとの関係も。                           真ん中に太い円柱が1本立つ円形のこの空間はヴィエルジュ・ド・ル・クレシェ礼拝室である。。奥のかべがくりぬかれ小さな石像(処女マリア)が祀られ、バスの団体の一行が祈っていた。この空間と、その先のくらい通路や空間(サン・ガブリエル礼拝堂、サンラファエル礼拝堂)全体がクリプトで、赤茶色の壁のスペインのモサラベの雰囲気である。イスラム色を感じる。 モサラベとは、イスラム支配下のイベリア半島にいたキリスト教徒のことである。
 通路の左横に階段があり、上ると、突然、明るい回廊へ出た。 
                                                  見渡すと、回廊の向こう側部分に、あるべき回廊の柱(フォーラム)や屋根がない。 あっ!ここだったのか!残りの回廊の一部(半分くらい)がアメリカに渡ったというのは! そちらにまわって、あったであろう回廊を偲ぶ。

      【欠けたこの部分の回廊が、ニュ-ヨ-クにわたっている 】


 振り返ると、本堂の左上に鐘楼がそびえる。フランス革命で荒れ果てていたこの修道院から、20世紀はじめ一人のアメリカ人が回廊の半分をかいとり、アメリカへ運び、それらはいま、ニューヨーク・マンハッタン島北部の美術館(その名も「The Cloister Museum」)に陳列されているという。残こされている回廊や柱の石は苔蒸しているという印象だ。しかしそれらは、昨日カニグ-山からおりてきた要所・ヴィルフランシュ地方産出のピンクの大理石で作られているとのこと。磨けば美しいであろう。回廊に接する資料館には、この教会の模型や、かってあったと思われる柱頭彫刻の写真が展示されていた。
 展示室から廻廊に戻り、本堂側の階段をあがると、そこが本堂であった。 

   正面奥の祭壇はまことにシンプルだ。後方の壁は、丸窓と上円下方型のアーチがうがたれ、外光が入る。人工の照明ではない。磔刑のキリストの十字架が、シルエットとなって浮かび上がる。祭壇の両よこかべにも二対ほどの明り取りがうがたれているが、極彩色のステンドグラスもその他の装飾もなにもない。あるのは、この磔刑の十字架と天然の光のみ。これこそ、ロマネスクではないか。こうしたものを見たくて、来たのだ。
 本堂は三廊式で、左右の側廊を歩いてみる。右の側廊のつきあたりに、この修道院の名の由来である大天使ミカエル(サン・ミッシェル)像がある。奥まって暗い場所にあるため、ここには人工の照明があてられている。 (ところでミカエルは日本(JAPON)の守護神とのことだが本当?)                                                

 【↓ サン・ミッシェル像】
 反対の左側廊の突き当りには聖母像(13世紀)がある。                       祭壇の後ろ側は周歩廊になっていて、さらに三つの後陣(礼拝堂)があり、その中央の礼拝堂は祭壇のある大き目の礼拝堂だが、のこり二つはまったくの無装飾で、奥壁に穿たれた縦長の(スリットのような)明り取りの前に角石がおかれているのみ。荒削りの壁、朴訥、素朴、無装飾と静寂、に浸るのは、まことにここちよい。                                                西門(正面入口)内の上部壁にも馬蹄形(電球形)の窓がうがたれ、外光が差し込む。
 西門より外にでてみる。石敷きのアトリウム(中庭)があり、左にカニグ-山麓をまじかにのぞむ。アトリウム正面のガラス張りの建物の壁に「Abat Oliba 1008、2008」のレリ-フがはめこまれ、建物の中にトリニテイ・チャ-チ(三位一体教会)が保存されている。
                                                  受付で借りた英語文の案内には、
 「この教会は、大天使ミッシェル(ヘブライ語でミカエル)にささげらている。現存するフランス国内では最大のプレ・ロマネスク教会である。三廊式。木製の屋根、円蓋の袖廊。後陣は五つの後陣より成る。974年に建立された白大理石の祭壇は、フランス革命時代にうしなわれたが、教会の一千年紀(ミネリアム)祭に際し、1974年、回復された。」とあった。
 静寂との対話に疲れ、回廊に一瞥をくれ、本堂からクリプトに降り、出口ロビ-にもどった。


 売店では、「ABBAYE SAINT-MICHEL DE CUXA」というブランド名の赤ワインが売られていた。  「COTES CATALANES」と書かれている。今はフランス領内だが、心はカタロニアだ、もともとはカタラン(カタロニア語をしゃべる人々)なのだ、という作り手の気概がつたわってくる。 世界的チェロリスト、パブロ・カザルスはフランコ政権を嫌い、スペインからこの土地に亡命し終生こちらで過ごしたというが、彼はカタロニアの人である。毎年8月、ここの修道院の回廊で、カザルス音楽祭がひらかれ、世界中からカタロニアの人やチエロ愛好者が集まり、彼とカタロニアを偲ぶという。                                          
 修道院を出て最後に、坂道をのぼり鐘楼をまじかに見に行く。この鐘楼もオリバ修道院長の造営である。

 デジカメで接写しておいた英文説明書によると、高さ28m、4層である。上2層のア-ケ-ドと、「ロンバルデイア・バンド」と呼ばれる垂直のすじ(帯び)がきわだつロンバルデイア様式であるというが、ぼくには垂直のすじより、水平のすじのほうがめだった。基礎部はがっしりしたバットレスだ。この工法によって高い塔の垂直重力を支え、崩壊をふせいでいる。バットレスはゴシック建設にはじめて登場した特徴であるときいてきたが、この時代にもあったことになる。物理学的に必要だ。
 立ち去る前にこの教会の歴史をまとめておきたい。詳しすぎるが、知っておきたい。
 先ほどの英文チラシより。
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 歴史。
 アラブ軍の退却とカロリング王朝による再征服直後、サン・ミッシェル・ド・キュサはすでに王権に庇護された修道院のひとつだった。                                     840年ごろ、ベネデイクト会がこの地方、テト川流域のOlettaに近いEixalada渓谷で創建され、建物が873年テト川の洪水でながされたあと、生き残ったかれらは、Protais a’ Cuixa’という人(修道僧?)の指導で、Saint Germain d’ Auxerre教会の近くで再結束する。セルダ-ニュ・コンフラン伯爵(the Count of Cerdagn-Conflent)の助力と庇護のもと、修道院は急激に発展する。                  10世紀末にはクリュ-ニ-修道院派遣のガラン(Garin)の指導をうけ、サン・ミッシェル・ド・キュサは、全欧州に絶大な影響力をもつようになった。978年、ガランは古ヴェネチアのド-ジェ(総督)をサン・ミッシェルに招待している。かれは988年、ここに死し聖人化されている。のちのロ-マ法王シルベストレ2世、ジルベ-ル・ドーリヤック(Gerbert d’Aurillac)も999年、ここに学んだ。 現在の教会は3回目の建築で、956年ポン(Pons)によって建てはじめられ、974年完成、さきのガランに献納された。
 
 11世紀になると、セルダ-ニュ伯の息子で、リポリ(現スペイン領)の修道院長であり、1008年ここサン・ミッシェルの修道院長であり、Vicの司教であり、モンセラット修道院【我々は2012年1月訪れた】の創立者であるオリバが、1026年、封建領主の暴力に対する戒律(la Treve de Diie)を発刊した。彼は一貫してサン・ミッシェルの精神的物質的威信を強化し、結果、ここは巡礼の場所にもなった。教会の多くの大工事、たとえば聖歌隊席まわりの有蓋歩道、鐘楼、地下クリプト、アトリウム、トリニテイ・チャペルなどは、かれによるところ絶大である。
 1130年頃、大理石の回廊がつくられる。それによって、今日、われわれはロマネスク彫刻を生んだルション地方の工芸をみることができる。工芸工場は12世紀をつうじて発展した。廻廊の工事はグレゴリ-修道院長の監督ではじまる、彼はのち1136年、タラゴナ(現スペイン)の司教になる。トリビュ-ンの工事はセラボンヌのそれと同じくこの世紀中ごろにさかのぼる。(このトリビュ-ン=聖歌隊席、はいまはなかったと思う。)

 その後、この修道院はバルセロナ伯の庇護下になったり、1462年から33年間、フランス領となったり、
支配者の搾取の犠牲になったりしたが、1659年のピレネ-条約により、フランス領となった。
 1789年、フランス革命によりすべての教会財産は国有化され、1790年、サン・ミッシェルの修道僧たちも追い出され、修道院は国家財産として売却された。                          1835年、教会の屋根が崩壊。1838年、北鐘楼が同じく崩壊した。最後まで回廊で原型をとどめていた6基の柱頭も1907年、とりこわされた。
 1909年、キュサは廃墟からたちあがる。かいもどされ、フォンフォロアッドのシト-会に与えられる。彼らは1966年まで居住した。                                     それ以後、モンセラットからのベネデイクト会の共同体が11世紀前にはじまった修道生活を続けている。
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 以上、引用(意訳)である。                                    しかしこれで、オリバについて少し分かる。                              1. モンセラット修道院の創立者である。(だからベネデイクト派)                  2. ここサン・ミッシェル・ド・キュサの修道院長をつとめる。この修道院の精神的・物質的威信を高め(おそらくカタロニア全土を越えて)ひろくヨ-ロッパに影響力をもったのではないだろうか。       3. サン・マルタン・ド・カニグ-の再建(?)                           4. ピュイロ-ランス城との関係は、これから調べる。                                                                 
 オリバについて、その後、次の記述を得た。  上記1.と2~3.に関連することである。        【1008年、バザル-とサルダ-ニャの伯爵、ウリバ・カブレタの息子であり、ギフレ-・アル・ピロスの曽孫であるウリバ【オリバのこと】は、リボイの修道院長になった。モンセラットの四つの礼拝堂と周辺土地しょゆうに関する訴えを刷新し、リボイ修道院の所有と決めたのは彼であった。ウリバは、ロマネスク時代のカタル-ニャにとって、最も重要な人物の一人である。芸術・文化の推進者であり、多作家である彼は、リボイを宗教と文化の大中心地にした。サン・ミゲ-ルダ・クシャ-【サン・ミッシェル・ド・キュサ】の修道院長に就任、またビックの大司教にも就任した。サン・マルテイ-・ダ・カニゴ-【サン・マルタン・ド・カニグ-】の精神的指導者も果たした。戦闘の時間を制限した『神の休戦』を制度化したのもウリバであった。】           (2011年1月、スペインのモンセラットで購入した「モンセラットのすべて」日本語版、p24.より。 この項、2016年1月8日 追加) 
                                                   昨日のサン・マルタン・ド・カニグ-とい い、今日のサン・ミッシェル・ド・キュサといい、日本風にいえば、栄華は一時、といえなくもない。重要なのは、20世紀にはいってともに復活されたことだ。11:40、サン・ミッシェル・ド・キュサをあとにする。

 さて、次は、セラボンヌ小修道院だ。プラドの町にもどり、昨夜泊まったシャンブル・ドットの前をとうり過ぎPradesの町を去る。<N116号線>を東に進む。昨日右手に見た湖(Lac de Vinca)を今日は左手にみる。
 12:10 Bouleternereという町にのりいれ、車を停めて周辺確認。進む方向が間違ってないことを確認し山間部へ向かう。すれ違いはほとんどなく、ガードレ-ルもめったにないカ-ブばかりの山道<D618号線>である。「サンチャゴ・デ・コンポステ-ラ巡礼路」の標識がある。ここからサンチャゴにむかうには、どこでピレネ-山脈をこえるのであろうか。やがて右手に別れる分岐に入りセラボンヌを目指す。森林のなか、高度をかせぐカーブと登り坂を、ようやくセラボンヌ小修道院の駐車場に到着。しかし、距離的には今朝のシャンブル・ドットを出発してからわずか38kmしか走っていなかった。

                    
PRIEURE DE SERABONA  (セラボンヌ小修道院) 12:45~14:10


 ここへ来た目的は、「トンボの本」の写真で見た”見渡すかぎりの「緑の山中に埋もれた」ロマネスク修道院”、そのたたずまいを見たかったことと、その特異な大理石のトリビューン(高台、聖歌隊席)を見たかったことである。PRIEURE、とは小修道院のこと。Abbaye、は通常の修道院のこと。
 駐車場からあるいてゆくと、一見レンガ状積みにみえるが、「結晶片岩という緑灰色の石」(ここの英文パンフレットより)で積まれた荒らい壁面の修道院があらわれる。曇り空で太陽の方向が定かでなく南北の方角がわからないが、修道院の北側から接近したのだと思う。なぜなら西門(正門)は右カドの側面にあった。西側から南側におりる小道をたどってみると、下界の物音はまったくとどかない森閑とした斜面で、左上に修道院を見上げる。古風である。
 
 さて建物に入り受付を通過すると、すぐ単廊の小さな回廊に入る。


 左は壁面であるが、右(南側)は気持ちよく緑の山と谷間にひらけるアーチで、アーチは四つである。そのうち真ん中の二つのアーチの中だけ、さらに三連ずつの小型ア-チが形成され、それを支える小柱が2本ずつ2列に、2ア-チで計8本あり、その8本の柱頭に彫刻がびっしりである。アーチの高さは低くそのため柱頭彫刻が見やすい。しばし彫刻された怪物、動物とにらめっこをする。きけば、ライオンとかグリフォン(頭は鷲、足はライオン)ということである。
 回廊をとうりぬけ突き当りを左に折れると、本堂に入る。右手が祭壇、左手にお目当てのトリビュ-ン(高台、聖歌隊席)がある身廊である。

           【 トリビュ-ン、 主檀側 】 
 ついに来たかと、しばしトリビュ-ンを眺める。 予想どうり小さく、狭い身廊を横にふさいでいる。特異だ。なぜこのように塞いだのか。トリビュ-ンの表面(ファサ-ド)は直方体の石で積み重ねられ、右手に階段があるが進入禁止。トリビュ-ンの上の手すりはない。トリビュ-ンをくぐるとトリビュ-ンの厚みが分かる。4本ずつ3列の柱でささえられ上部は交差ヴォールト(半円形天井)になり、柱頭には彫刻がびっしりだ。裏側に出て振り返ると、こちら(西側)の表面は浅い抽象的模様がすきまなく彫刻されていて、手すりも残る。
                 【 トリビュ-ン 西側面 】                                                                

 こちら側のア-チとア-チの付け根の位置に三ケ所、動物の首がコミカルに覗く。またこちら側ファサ-ドには、ヨハネ黙示録からとったキリスト教のシンボル図が浅く彫られているとのことだが、どこにあるかはわからなかった。それは、ライオン(福音書書記のマルコの象徴)と鷲(同じくヨハネ)がペアになり、また牡牛(同じくルカ)と天使(マタイ)がペアになって、後光にかこまれた聖なる仔羊(キリスト)をとりかこむ図であるという。かすれていてよくわからなかった。                          実は、ここも修理工事のさい中だったのである。そのためアルミパイプの足場がくまれ、2名の作業員がいそがしく働き、ゆっくり謎解きすることはきなかった。それは残念であったが、しかしとにかくこの「山寺」のような小修道院まで来て、トリビュ-ンを見れて、満足はした。
                                                  以下、レセプシオンで貸出されていた英文の説明書きより、引用する。
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 「セラボナ修道院。ロマネスク美術の傑作。Saint-Marie de Serabona。               セラボナとは、the good mountainの意味。緑の樫の木の森林の中、ボ-ル渓谷に位置している。    創建は、11世紀または12世紀。文書には1069年から記述されている。                1082年、この地域の支配者、コンフラン子爵の庇護(所有権と財政)のもと、アウグステイネス派の宗教戒律団が創立される。彼らは地域の生活を主導した。                          しかし、14世紀に経済的・人口的危機により、セラボンヌ修道院の衰えがはじまる。          以後200年間、修道院でなくセラボンヌ村の教区教会として存続する。                 1834年、かの(フランス文化財保護協会の)プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée、歌劇「カルメン」作曲者)がここも訪れ、最初の「フランス歴史的記念物」のひとつとして保護する。            1968年、ピレネ-・アリアンタル県に寄贈され、それ以降、公開されて今日にいたる。」
                                                  「建物について。 創建された時、修道院はいまある本堂一つだけであったが、12世紀、アウグステイネス派の隆盛とともに、拡張され、翼廊(袖廊、Transept)と三つの後陣(Apset)が初期の後陣にとってかわる。北側に二つ目の本堂(側廊)と鐘楼、南側に回廊(これも右側廊)、集会所、寄宿舎等ができる。
 本堂の厚いかべはこの地方産のSchistという結晶片岩(へんがん)の割れ石で作られ、拡張工事部分も結晶片岩の塊で作られている。【結晶片岩とは片理性のある変成岩のこと。フランス語辞書より】 一方、回廊の彫刻、西門、窓枠はコンフラン地方特産の大理石で作られ、そのバラ色ピンクはSchistの緑灰色と驚くべき対比を成す。

 ① Reseption(受付)…増築された三部屋の一つにあたる。
 ② The Cloister(回廊)…南にあいた側廊で構成される。3本の柱が一列にならび、四ア-チをなす。8対の大理石柱頭は装飾された彫刻を身につける。内側の柱頭彫刻は外側の柱頭彫刻よりも巧みに彫刻されている。ドリルの一種の丸のこぎり(a trepan)の使用が大理石加工を可能なさしめた。アーケ-ドの反対側の漆喰で装飾された小部屋の中に墓がある。
 ③ The Transept(翼廊または袖廊)…二つ目の本堂で主廊と直角に交わり、教会を十字架の形にする。
 ④ The Apse and Apsidoles(主後陣と二つの小さな副後陣)…ともに東に向けて二重の窓を持つ。
 ⑤ The Nave(本堂)…壁の一部にフレスコ画の名残りがある。絵はキリストの十字架からの降下である。南に向いた窓の上にある。(トリビュ-ンに向かって左手ということ) 教会内のほとんどの壁にかってはフレスコ画が描かれていたであろう。
 ⑥ The Side Nave(側廊)…教区の人々が多分この本堂を使用した。洗礼盤はキリスト教徒洗礼に使われたであろう。
 ⑦ The Portal(入口、北門)…柱頭彫刻で装飾された円柱とア-チで構成されているが、残念なことにこれらの柱頭彫刻は2000年に盗難にあい、いまは複製である。
 ⑧ The Gallery(絵画室)…トリビュ-ンが本堂を二つの部分に分かつ。前部が宗教儀式に、後部が信仰に供される。トリビュ-ンは聖歌隊によって使用されたであろう。
 ⑨ The Bell Tower(鐘楼)…高さ18m。切妻(?)の屋根である
なおこの修道院の周囲は地中海式庭園であり、人々をカタロニアの植物群にいざなう。
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 以上、受付での英語文説明書きからの引用である。
 さて1本しかない(北側)側廊も歩く。が、実は先の回廊が南の側廊にあたるので、側廊は2本になる。
                            

            【↓ 北側の側廊】 
           【 祭壇 】
 
 祭壇も無装飾である。あるとすれば、結晶片岩それ自身の縞模様だ。                  回廊にもどりもう一度、柱頭彫刻の動物や怪物とにらめっこをし、修道院を囲む人里はなれた奥深いみどりの山に思いをこらし、14:10、セラボンヌ小修道院をあとにした。

 緑の山をくだり、Bouleternereで<N116号線>へもどる。                      思えば、昨日のサン・マルタン・ド・カニグ-も、今日のサン・ミッシェル・ド・キュサも、セラボンヌも、セルダ-ニュ・コンフラン伯爵とオリバがらみであることが共通している。カタロニア文化であることも共通していた。ここは、カタロニアの一部、ルッション地方なのである。

 さて次は、ここからペルピニャンへ行き南下してモレイヤス・ラス・イヤスMaureillas las –Illasにあるサン・マルタン・ド・フノヤ-ル教会、Eglise Saint Martin de Fenollar、に行きたい。そこの「ギョロ目のマリア」の壁画をみたい。しかし、のこりの北方の希望地(アルル、カマルグ、アヴィニョン、シト-派の三姉妹、など)と日数(あと5日)を計算すると、日程的にきつく、しかたなくモレイヤス・ラス・イヤスは断念した。ペルピニャンから進路を少しでも北にとりナルボンヌ近くの、シト-派のフォンフロアッド修道院(Fontfroide)を目指すことにする。
 山道から解放され<N116号線>は平地の高速道路仕様で快適に走った。
<Entrée Perpignan-N>から高速道路<A9号線>に乗り北にむかう。ここ数日山道ばかりであったので、平地の走行がかくも快適だったかとは久しぶりである。遠くの山並みはなだらかで、緑の畑や風力発電の塔の白さが目にしみ、地中海近しを思わせる。



  右に広大な水域があらわれ、地中海かと思った。しかし水平線には陸が見え、リゾ-ト地かとみえる白のビル群もあるので、内海だ。タイミングよくAire(休憩所)があらわれ、休むことにした。          15:27~15:45  Aire de FITOU (Fitou休憩所)。 日差しはまだ暑く、よく繁った松林がそこここに点在し日陰が涼しい。のんびりと内海と景色を眺める。美穂子さんはくるまをおりて歩き回る。あとで調べると、Etang de Leucate ou de Salses、という湖(etang)、であった。(フランス語でetangは池、lacが湖であるが、池などではないと思う。


【↓ Aire de FITOU にて。斜面の下をフランス国鉄が走っており、架線の鉄柱がみえる。】

5分走ると、こんどはレストランのあるAireがあった。 
15:50~16:45 Aire deLepalme
そこで遅い軽食にした。間もなくナルボンヌであり、同時に、その郊外のFontfroide、へのル-トをi-padでさがす。ル-タ-につなぐがうまくさがせない。住所を明確に書きとめてなかったこともあるが、地図(google)の操作にも不慣れであった。車のナビはさらに不慣れで、なかなか探せない。くやしい。Fontfroide修道院は、カタリ派に敵対するシト-派修道会の牙城であり是非見たい。かのピエ-ル・カステルノ-(法王イノセント3世の特使)はここの修道僧であった。またかの、ジャック・フルニエはミルポワの司教になる前、ここのAbbot(修道院長)であった。カタリ派をみて、シト-派を見ないのはバランスを欠く。この旅ではじめてお目見えするはずのシト-派であった。まごまごしているうちに、時間ばかりたつため、日程上、泣く泣く、フォンフロアッドはあきらめることにした。ル-ト的にはここが今回の旅行の分岐点だった。もうRussion地方には留まらず、プロヴァンスへと舵をきらざるをえない。

ならば、今夜はどこで泊まるか。この地域で見るべき都市はモン・ペリエだろうが興味がわかない。ならばまたカタリ派だが、モンペリエの手前のベジェだ。ベジェならわるくない。<centre de Bezier>にナビの終着を設定し、このあたりでは<LANGUEDOCIENNE>(ラングドシエンヌ)という愛称が付けられている<A9号線>を北上する。


ナルボンヌを通過し、<Sortie Bezier Ouest>で高速<A9号線>をおりる。

ベジェ Beziers
 1209年、アルビジョワ十字軍による虐殺があった町に入ると思うと緊張する。走っていくと、オーブ河の橋の対岸高く、要塞さながらのCATHEDRALE SAINT-NAZAIRE(サン・ナゼ-ル大聖堂)の偉容があらわれ、覆いかぶさってくる。この城砦の中には、アルビジョワ十字軍が潜んでいるのではなかろうか。

         【↑ オ-ブ川とサン・ナゼ-ル大聖堂。 絵葉書より。】
 オーブ側の橋をわたり、石畳みの市街地を曲がりくねってのぼる。さびれた町を想像していたが予想外に活気があり、人も多い。

  17:30頃、岡上にひらけるジャン・ジョレス広場脇のALLEES PAUL RIQUET(ポール・リケ通り)の路上スペ-スに車を停める。そうだ、この町は、ミデイ運河建設者のポ-ル・リケの生地でもあるのだ。さっそtourismo officeの場所をポリスにをたずね、17:50、インフォにまにあう。(18:00で閉店)

「どんなホテルがいいのか?」ときかれ、「ツインでもダブルでも、バス付きで……」というと、「Non!三ツ星とか四つ星のことだよ。」「ならば、三ツ星の、」とこたえる。するとMercure(四つ星)とImperator(三ツ星)を紹介してくれる。歩ける距離なので歩いてまず、Mercureに行ってみたが、なにかきにいらず(ツ-ル-ズではMercureにとまったのだが)、後者に行って後者に決める。ホテルは、広場の反対側にあった。その途中、ポール・リケの大きな銅像があった。

 18:25  hotel Imperator 着。 

 【 ベジェのホテル「HOTEL IMPERATOR」(住所: 28 Alles Paul Rique,34500 BEZIERS)】


 ガレ-ジはゲートの中の奥の平地で入れやすく、屋根付きであった。古色蒼然の趣き。ロビ-はうす暗く、ぱっとしない。エレベ-タ-は二重扉だった。部屋の窓からは同じ高さの隣の屋根の上に、サン・ナゼ-ル大聖堂の頭頂がみえた。
 紹介してもらって行ったレストランがよかった。

 20:00~22:50  レストラン L’AUTREMENT (住所: 15 PLACE JEAN JAURES, 34500 BEZIERS) ジャン・ジョレス広場の湾曲した奥の場所にあり、樹木のある広い遊歩道にテ-ブルが出され、あかるいシャ-プなライト、気候よく快適、ウェイトレスが複数ともかわいく、一人はフランス語が通じず多分カタランだろうか。ウェイタ-も友好的、ワインも料理もグ-で、タパスを食べる。オリ-ブオイルだったからそうだったのだろう、これまでで一番開放感のある夕食で、なんと2時間50分もいた。




第10日目 10月10日(金)

 朝食後、9:30、ホテルからポール・リケ通りを左に進み、テアトル(イタリア風とか)の脇を左に入り、Eglise de la SAINTE MADLEINE(サン・マドレーヌ教会)に行く。(途中、JCDecauxのオンボックスカ-が停まっていた。) ベジェでの目的はこの教会をみることである。

Eglise de la SAINTE MADLEINE(サン・マドレーヌ教会) 
この教会こそ、1209年7月 日、カタリ派にとって、いな、カトリックの信者にとっても悲劇的な事件の起こった場所である。
 誰がカタリ派であるかないかを問わず、そこに避難した住民はほとんどが教会内という神聖な場所で、老若男女をとわず、とじこめられ、アルビジョワ十字軍によって虐殺されたのである。十字軍の兵士がカタリ派をどう区別すればよいか問われた指導者が「すべて殺せ。神は自らの民を選び給う。」と答えた証言があるという。犠牲者はその数、6千人とも2万人ともいわれる。住民はまだこの十字軍の血にうえた野望と勢力を知らなかった。もともとラングドック地方は他者に寛容な地域でもあり十字軍に対する油断もあった。アルビジョワ十字軍の派遣決定が(     )年、そして最初の攻撃地がベジェであった。ベジェの虐殺を知ったナルボンヌの町は戦わずして降伏し、アルビジョワ十字軍は矛先をカルカソンヌへ向けたのである。
 神妙な気分で南口から教会内に入る。

       【↑ サント・マドレ-ヌ教会。 2枚目は絵葉書より。】
   こわいもの見たさでいる自分を発見する。このような趣味はよくないと自分にいいきかせるが、別の恐ろしい絵画が、左側廊の下手にあった。1209年に先立つ1167年のトランカベル子爵の暗殺場面である。

  「1149年、ツ-ル-ズ伯爵レイモン5世は配下のトランカヴェル子爵を防衛することを誓う。しかし1167年、ベジェの中産階級によるトランカヴェルの暗殺をとめられなかった。この場面は、(19世紀に)画家ジャン・ノエル・シルベスタによって描かれた。」(教会内のパンフレット及び絵の脇の説明より。)
 この事件はもうちょっと勉強しないと、わからない。しかし、いまは至って平穏な教会内である。背中はあまりゾクリとすることはなかった。(ミルポワの教会ではゾクリとしたものだが。) 道行くベジェの市民は、これらの事件をあまり気にしていないようにみえたが、それははるか昔のこと。あたりまえかも。
 ベジェは古代ロ-マ帝国のイベリア半島の植民地「      」への陸路「     の道」の中継地として発展してきた。ラングドックの中心地でもある。血なまぐさい中世のアルビジョワ十字軍の犠牲となった歴史のあと、ポ-ル・リケが17世紀、この町に生まれ、ミデイ運河を完成させる。それは明るいニュ-スだ。

 次にサン・ナゼ-ル・カテドラルへ行く。


 このカテドラルでも悲劇があった。教会におかれてあった英語文のチラシには、「1209年、シモン・ド・モンフェ-ルとその十字軍によるベジェの陥落は、同時に血塗られた劇的な事件である。数えきれないほどの人々が、サン・ナゼ-ルとサン・マドレ-ヌ教会に避難した。彼らは異端カタリ派と疑われ、両教会の火炎の中で死んだ。」アルビジョワ十字軍はもううんざりである。
 いま、このカテドラルはベジェ市の公式の教会である。たてものはゴシックだが、回廊の柱頭彫刻はロマネスクにみえた。


  そのあと、ポ-ル・リケ通りの百貨店「ギャラリ-・ラファイエット」にショッピングに入り、不足してきた靴下を買う。みみさんは、紫色の似合うカ-デガンを買った。ギャラリ-・ラファイエットは日本でいえば、三越その他の百貨店が、地方都市へ進出している(進出せざるをえない)という風情だった。
 11:50、アルビジョワ十字軍の血塗られた町、Bezier(ベジェ)をあとにする。
                                                  「Montpellier-1」からA9号線に乗り、アヴィニョンにむかう。その前に、ポン・デュ・ガールに寄ることにした。
 13:25~14:10、サービスエリア<AIRE D’AMBRUSSUM SUD>で昼食。何やかやで38.80ユ-ロもかかった。注文しすぎで高かった。(住所:VILLE TELLE, 34400 LUNEL)
 14:45~15:00、眠くなり休憩所に入って仮眠。
 走りを再開すると、前方に嵐をおもわせる大きな黒雲が半天を覆う。
ニームを過ぎ、「REMOULINS」で高速A9号線をおり(通行料5.10ユ-ロ)、地方道を西にポン・デユ・ガ-ルにむかう。

 15:20、Pont du gare(ポン・デュ・ガール)に到着。.(ベジェから約154km)
 観光地にしては走っている車がまったく少ない。それはそれで走りやすいが、ポン・デユ・ガ-ル入口のロンポワンにバリケ-ドがあり、変だなとおもいながらバリケ-ドを無視して入っていくと駐車場入り口にも最後のバリケ-ドがあり、なんと、「今日から12日まで入場禁止。川の洪水のため」の紙が貼られている。

           【↑ポン・デュ・ガール駐車場 閉鎖】

 川の洪水?それ何?。  すると、一足さきにきていた現地のドライバ-が、「インターネットを見なかったのか?」と言ってきた。あまり見ていなかったのはたしか。1990年6月、スイス、・アルプスのアイガ-北壁を見に行った(グリンデルワルト)ときも悪天候・濃霧で見れず。また、2006年8月、コーカサス・アゼルバイジャン・シェキの隊商宿に泊まろうとした時も、丁度ドイツの映画撮影のために泊まれず。また今回10月7日、レンヌ・ル・シャトーの庭園も映画撮影隊のために入場できなかった。またか、である。

 しかたなく、時間があまったので、親友・高須次郎君がお勧めしてくれていた、13km西に離れた「南フランス一美しい町並みのあるウゼス」(地球の歩き方)という町に向かうことにした。 
<D981号線>。ところが町にちかずくにつれ、道路冠水や畑の流出やで周辺の様子がおかしく、ついに警察による交通規制やバリケードに出くわした。確かに大雨が降って、水が引いた直後のようすである。このさき車で入って行ってもあちこちで冠水や通行規制が予想されたのと、被害も大きそうでそんな時、町にはいるのは憚られると思い、町にはいるのはあきらめることにした。

      【↑ユゼスの入口、洪水のあと。ポリスが出て交通整理】

 帰途も黄色の道路管理車があちこちで黄色コーンを水たまり等に設置していたし、来る時はきずかなかったか、水に流された車を何台か見た。洪水があったのです。さっきのポン ・デュ・ガールもほんとに洪水だったのだろうと察知。そういえば、ベジェからここまで来る高速道路上で、行く手にまっくろな雲がかかっていた。あれがここを襲ったのだと合点する。
(夕方アヴィニョンのホテルでTVをみていたら、この一帯、短時間で集中豪雨だったニュ-スが流れた。ユゼス(Uzes)の降水量は333mmだった。帰国後の話であるが、この2週間後、プロヴァンスのもっと東のほうでも大雨があった。日本の新聞にも載った。)

 ポン・デュ・ガールとユゼス。普段あまりない入場禁止または入場自粛という経験をし、ならばと、一気にアヴィニョンへと、A9号線のしたをくぐり、<N100号線>を東へむかう。
 このへんではアヴィニョンは大都会らしい。車の量がふえる。かつ、ここもフランス、例外なく車のドライバ-たちはみな自動車レ-サ-並みである。どういうわけか、アメリカのフィラデルフィアの町に西南から入って行くコ-スを走っている想い出が浮かんだ。緑のなかをくねくねカ-ブする自動車道の景色が似ていた。

 17:00頃、アヴィニョン市内に入る。左に城壁の続く主要道路だが渋滞。

 

駐車場をさがすべく、アビニョン・サントル駅前で左折し城壁内にはいり、メイン通りのレピュブリック通りを進み、観光案内所は右手にあったが、駐車場がなかなか無い。グルグルまわってしまい結局、アヴィニョン・サントル駅前の有料駐車場にとめて、今度は歩いて城内の観光案内所に行き、18:00にようやく間に合い、ホテルを紹介してもらう。駅前にもどり、ついでに駅中の広告看板の見学に行く。駅広告調査は、今回はカルカソンヌ駅と、ここでおこなえた。

 

【↑アヴィニョン・サントル駅のホ-ムに入ってみる。入場券はいらない。】

 ホテルはメイン通り西側の静かな住宅街の中にあり、18:30、裏の敷地内の駐車場に車をとめた。

 

三ツ星の「ダングルテール」(D’ANGLETERRE)である。(住所:   )  
ここは「地球の歩き方」にも載っていた。

夕食はレストランを紹介してもらい、メイン通りをわたった裏町の「Le Caveau du Theatre」(場所:16 rue des Trois Faucons)にいった。ほんとにこじんまりの、照明のよいきれいな店で、ワインも食事もうまかった。流しのギタリスト二人にみみさんがチップをはずんだ。


 【↑レストラン Le Caveaudu Theatre】

10月11日(土)

 今日は車を使わず一日avignonに滞在、連泊することにした。連泊はルカソンヌ以来である。
 ホテルを10:10、にでて、法王庁広場(Place du Palais)に行き、万感こめて法王庁(Palais des Papes)をみあげる。これがあの、「法王のバビロン幽囚」の法王庁であるか。


【↑アヴィニョン法王庁 正面】
 いや、立派なものでごつく、不格好。宮殿というよりは城砦である。実際正面の城壁は高さ50mとか。いきなり入場してしまうと、思考がマヒするのが心配で、まず、事前トレ-ニングとして、プチ・トラン(観光トレイン)に乗って気分を慣らす。コ-スは上の公園(ロシェ・デ・ドン公園、ここでツ-ル-ズでも見た立ち乗り車で移動するグル-プを見た)~法王庁広場~ロ-ヌ河沿い~昨夕、車で迷ってグルグルした界隈~をめぐったが、すでに旧知の町の気分だった。そしていざ、法王庁である。日本語のイア-ホ-ン・ガイドを借りる。
 コンシストワ-ル礼拝堂、鹿の間、グランテイネル(祝宴大広間)などつぎつぎに見て行くが、全体に、少し辟易した。

 【↓鹿の間】


【↑Grand Tinel(祝宴大広間)】
 私にとってのここでの関心はおもに二つ。ひとつは「幽囚」の実態、もう一つはアヴィニョン法王の中のベネデイクト12世その人、である。
 
 まず前者だが、西ヨ-ロッパ中世における法王と各国皇帝(王)の覇権争い説は、大まかにつぎのように理解している。 カノッサの屈辱(1077年)でまず法王(グレゴリ-7世)が皇帝ハインリッヒ4世を破門、皇帝は法王に泣き付き謝り、法王が皇帝権の上位に発つ。                         そしてアナニの屈辱(1303年)で今度は法王(ボニフェイス8世)が王権(フランス王・フィリップ4世)にとらえられ憤死、さらに法王はロ-マから引っ張りだされアヴィニョンに幽囚される、というものである。 
 しかし法王は見張りをつけられたり監禁されたり逃げ出せなかったのではない。軟禁ですらない。法王みずからがここに宮殿を建築しそこに定住したのである。なのに、なぜ「幽囚」なのか。            実際、ロ-マ現地は、地元住民とドイツ皇帝(神聖ロ-マ帝国)の争いにより法王がとどまっていられないほど荒廃した状況だったのである。だから世俗権力による法王への逆襲ではない。しかし「幽囚」というと面白おかしくてよいのだろう。これは、古代新バビロニア帝国によりユダヤ王国が滅ぼされユダヤの人々が新バビロニアの首都バビロンにつれさられ幽囚された故事にあやかったものだ。キリスト教ももとはユダヤ教から出発していることへの箔付け、またはアイロニ-であろう。アビニョン法王庁は1309年から1378年まで約70年つずく。法王は7人である。1379年法王はロ-マにもどるが、フランス王権がまた介入し、ロ-マとアビニョンに一人ずつ法王が並立し教会分裂(シスマ)となる(1378~1417年)。これが解消するのは、1417年のコンスタンツ公会議においてであり、法王権の失墜はやがて宗教改革への流れをうんだのだ。
 
 次に、ベネデイクト12世(在位1334年~1342年。出生1285~死1342.フォワ伯領のサヴェルダンに生まれる)である。
 すでに見てきたように、かれはジャック・フルニエ(Jacques Fuurnier、1285~1342)のことである。フォワ伯領内北部の沙ヴェルダン生まれ。
 彼についておさらいをしておく。この旅行で彼についてかんがえた場所は、カルカソンヌ、ミルポワ、であった。フォンフロワッドに行き損ねた時も彼について思案した。
 ①カルカソンヌで私は、次のように書いた。「カタリ派憎くしの異端審問者ベルナルド・ギ-やジャック・フルニエ(のちの法王・ベネデイクト12世)の像が置いてある部屋があるというので、それを見逃さないようにしていたが、見逃したようだ。城内においてあったパンフレット(日本語)を読むと、それは多分、「司法の塔」にあるのだが、今回はとうらなかった。」と。                         ②ミルポワでは次のように書いた。「1298年、いまの教会が建てられる。ジャック・フルニエがミルポワ司教となる。」と。
 ③またナルボンヌの手前で次のように書いた。「Fontfroide(フォンフロワッド)修道院は、カタリ派に敵対するシト-派修道会の牙城であり是非見たい。かのピエ-ル・カステルノ-(法王イノセント3世の特使)はここの修道僧であった。またかの、ジャック・フルニエはミルポワの司教になる前、ここのAbbot(修道院長)であった。」と。
 かれはカタリ派滅亡のあと(モンセギュ-ル陥落のあと)、さらに残存カタリ派摘発・撲滅のための異端審問(ラテン語でInquisitio)官であった。なぜそれほどカタリ派におびえたのか。それはおびえたというより、カトリック中枢への出世、権力志向につきうごかされたからであろう。 厳格な性格であったという。   アヴニョン法王ベネデイクト12世(在位1334~1342年)になってからは、アヴィニョン法王庁新館建設に着手する。また、1代前の法王ヨハネス22世に続いて、イングランドの神学者ウイリアム・オッカムを破門にした。
                                                  売店で「クレメンス5世」のハ-ヴテイ-と「ベネデイクト12世」のハ-ヴテイ-を買った。       また本5冊。  

『Le Pont d'Avignon』(フランス語)5.5ユ-ロ、アビニョン橋                         『LES TEMPLIERS』(フランス語) 5ユ-ロ、テンプル騎士団
『ATLAS MONDIAL DU MOYEN AGE』(フランス語)5.5ユ-ロ、中世歴史地図  
『The Popes' Palace in Avignon』(英語)5.7ユ-ロ、アビニョン法王宮殿 
『見学ガイドブック 教皇宮殿アビニョン』(日本語)
 なおベネデイクト(フランス語でブノワ、Benoit)という名は、ボニファテウスともよぶようだ。
 昼食は、宮殿前広場の路上テ-ブルでパスタ(pates)と 白ワインとした。
 午後はプチ・パレ美術館と、サン・ベネゼ橋。しかしあまり興味がわかない。


【↑プリ・パレ美術館】 
 プチパレ美術館右側の、(法王庁左側の)ノ-トル・ダム・デ・ドン大聖堂頂頭の金ピカの聖マリア像は私には悪趣味に感じ、気高さ感は感じなかった。


【 ↑ ノ-トル・ダム・デ・ドン大聖堂頂頭の聖マリア像】
一方、ロ-ヌ河の流れははやく水量もおおく滔々とながれて、フランスの国土の大きさを感じさせた。対岸に小火事だろうか、黒い煙があがっていた。


【サン・ベネゼ橋よりロ-ヌ川下流】
 アヴィニョンの人混みの石畳みの道は歩きくく、早めに17:30、ホテルに帰り、夕食は近くのベトナム料理店で過ごした。アジアン・テイストを期待して行ったが、そうでもなく、すこしガッカリ。


10月12日(日)

 9:10、avignonのホテルを立ち、アルルに向かう。                         アヴィニョン・サントル駅前を通過し、国鉄(SNCF)のガ-ドをくぐり南下する。主要幹線道路道路(D570n)だが行きかう車の量は少ない。これでも幹線?というくらい。アルル市街地に入ってようやく一定の量になった。  

                                                                                          アルル Arles                                                                                            GPSに従い、リス通り(Boulevard des Lices)から右に入ると市庁舎前広場(Pl. de la Republique)に出る。到着のアナウンスだがどれが市 庁舎か当初、わからず、停まると後ろに渋滞がおこるせまい道だったので、しかも広場は侵入禁止だったので、右に一方通行に従いはしる。あとでわかったが、サントロフィ-ムをぐるりとまわり、古代劇場前のまえをとうり、フォ-ラム広場への道だった。そのあとも迷路のように細い道をくねくねと走ったが、ヨ-ロッパの旧市街地では小型の車がよいことがよくわかる。とにかく駐車スペ-スがなく、ようやくたどりついた駐車場は、ロ-ヌ側の堤防脇の公共駐車場だった。アルル(Arles)着10:30。
 
 とうりかかった女性にINFO へのみちをたずねた。ジャポン?ときかれるので、Oui、とこたえると、なんと彼女は日本の岡崎市に滞在したことがあると言った。礼を言ってわかれ、日曜日はInfoが13:00で閉まってしまうため、Bd des Licesに面したInfoに行ってホテルを予約。レセプショニストの女性はかわいく友好的だった。


【 ↑ アルルの観光案内所】            

アルルを今回フランスの最後の宿泊地(連泊)としたので少し豪華に四ツ星のホテルを予約。「Grand Hotel Nord Pinos」。
 ホテルの場所を歩いて確認に行く。なんと、さっき車で通ったフォ-ロム広場に面んし、みぎにゴッホの絵「夜のカフェ」で有名なCafé Van Gogh(カフェ・ヴァン・ゴ-)があった。
 駐車スペ-スにもどり、12:30、郊外の、ドーデの「風車小屋だより」で知られるFontvieille(フォンウ゛ィエイユ)に行き、その風車(Moulin de Daudet)を見、説明をきく。



風の強い所だった。風力発電所もあったから、風が強いのは間違いない。                ドーデの風車といっても関心があまりなく、困った。昼食は市がたっている広場の屋台車でホットドックをかじる。飲み物を買った店で女主人が「こんにちは。日本へ行ったよ」といったので「ボンジュ-ル、メルスイ-、オ-ヴォワ-ル」というぐあいである。       

【↓ フォンヴィエイユの市】


14:00、フォンヴィエイユを発ち、アルル市内に入って3回目(最終)の給油。61.5ユ-ロ、日本円で¥8,546.- (   )リッタ-。


 14:45、アルルのホテルに車をつけチェックイン。「Grand Hotel Nord Pinos」は歴史あるホテルのようであった。ロ-カにこのホテルの前でおどる「アルルの女」たちの1920年代のセピア色の写真や、泊まった有名人(Vip)や闘牛士の写真があった。「地球の歩き方」によると、かつては、ピカソやジャン・コクト-が滞在し、現在も人気闘牛士が常宿にするとのこと。調度品も重厚だった。だが、その分、このホテルの女主人はスノッビ-な感じで、とっつきにくい印象だっただった。格式を重んじすぎ、かえって隣の「オテル・デユ・フォ-ロム」のほうが今風で団体客がおおく泊まっていた。値段もこちらよりは廉価だろう。だが、それがこちらの売りである。


市内観光にでる。わたしのアルルでの目的は、ロマネスクのサン・トロフィ-ム教会を見ることだ。
                                                  サン・トロヒューム教会。 Eglise St-Trophime 15:55~16:10
 アルルはサンチャゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)への巡礼路の起点のひとつで、この教会が「アルルの道」の起点である。この道は「サンジルの道」とも呼ばれる。それはこの巡礼路がアルルの西方15kmに位置するサンジル(ST-GILLES)という小さな町を通過するためであるが、そこにはやはりロマネスクの名建築であるサンジル教会という教会があることを知った。今回の旅は、主に「とんぼの本」と池田教授の本にみちびかれたが、それ以外にも実際はたくさんのロマネスク教会・ロマネスク建築がある。           さてここでは、教会西面の入り口のロマネスク彫刻が私の目的である。が、なんと、ここも(というのは、レンヌ・ル・シャト-に続いてここも)、修復のビケ足場と養生幕におおわれ、まったく見えないのである。わずかに「地獄に向かう罪人の列」(ヨハネ黙示録)の部分が覗けただけ。タンパンも側壁も全くみえずがっかりしてしまい、教会内は集中しないまま、回廊を見ることさえも忘れてしまった。 わずか15分。この時間が私の落胆ぶりを物語る。

 【↑「地獄に向かう罪人の列】

【 ↑ 入口・左壁面  「パウロ」か?】

【↓ サントロフィ-ム教会内。右手に回廊があるが見落とす。】     

これでは来た甲斐ががない。
少々うつろな気分で古代劇場に行く。


(2)古代ローマ時代建築の古代劇場

 

(3)同じく円形闘技場

 

(4)同じく地下回廊・集会場(Criptoportiques du Forum)。


古代ロ-マは今回のテ-マではないので、ここではカットする。ひとつだけ追加。この(4)の地下回廊は市庁舎内部に地下への入口があり、階段をくだると地下を北方向にむかってのび、フォ-ロム広場や、今夜のホテルの真下方向に延びる。ひんやりとする。フォ-ロム(公共集会場、集会)という言葉は最近日本でもよくつかわれるが、発祥はここだろうか。
 また、円形劇場からの帰り道は遠まわりしたが、途中「エスパス・ヴァン・ゴ-、Espace Van Gogh」の前をとうる。1989年2月、ここに病院がありゴッホが入院したところだ。いまは病院はなく文化施設となっている(入らず)。                                          
 夕飯は、そのCafe Van Goghの隣のレストラン・ラ・グリニョットへ行ってたずねるとブイヤベ-スはないとのことで、やはり、Cafe Van Goghに行く。ブイヤベ-スはあるという。腰をおちつけていると、「じつは無い」と言われ、オイオイである。この調子ならよそでもないだろう、あきらめてこの店にする。


 【↑ ゴッホの「夜のカフェ」の現地、Cafe Van Gogh】


10月13日(月)

 今日は日帰りでアルルから地中海沿いの大湿原地帯(カマルグ・Camargue)へ行く。

まず、9:35~45、アルル郊外のヴァン・ゴッホの絵に描かれた「跳ね橋」に立ち寄る。しかしこれは実物ではなく、実物のあった場所でもないという。旅行者が一組見学していたが、そのうち日本人パックツァーのバスがきた。ゴッホはアルルに滞在したくさんの絵を描いた(「ひまわり」、「星降る夜アルル」、「夜のカフェ」など)が、それらの絵はアルルにはないそうだ。




カマルグに向かうべく<D570号線>に乗ろうとして間違え、アルル古代美術館の方へ行ってしまいそこでUタ-ン。ついでにトイレを借りる。                                 
 <D570号線>は約40km走り、11:05、カマルグの地中海の町サント・マリ-・ド・ラ・メ-ル(Stes-Maries-de-la-Mer )に到着。

 

海岸沿いの市街地の内陸の広い無料の駐車場に停める。いまはシ-ズンオフで駐車場も街もガラガラである。まず海岸にいってみる。地中海の押し寄せる波は荒かった。

 

 この波のなかを、紀元1世紀キリストの死後直後、三人のマリア(すなわち聖母マリアの妹のマリア、使徒(?)ヤコブの母マリア、およびマグダラのマリア)がここに流れ着いたという。マグダラのマリアが伝道でフランス奥地に出発後、二人のマリアと召使いサラはここに残り一生を終えるも、その遺品が残る礼拝堂(この町最大の教会、10~15C.に建造)は信仰の対象地となる。マグダラのマリアはリヨンから北フランスへいく(またはサント・ボ-ム?)。ほうぼうにある「マドレ-ヌ寺院」はマグダラのマリアのことである。   教会に入る前に食事とする。市役所(Mairie)まえの「CAFE RESTAURANT LA RUADE」。MENU MER、としゃれた名前がついていた定食は魚のテリ-ヌだったが魚はなんだっけ?コ-ヒもデザ-トも含めて二人で35ユ-ロ。
  
 さて教会(Terrase de I'Eglise)にはいる。
サラは黒人だったことから(?)、ロマの人々の聖地でもあるという。礼拝堂=教会は要塞のように頑丈であるが、中の半地下のクリプトに色とりどりのマントを何重にも羽織った黒びかりしたサラの像が重厚に祭られている。



 絶え間なくロ-ソクが灯され香料が焚かれる。一般に今回の旅行で見た修道院や教会は要塞化したものが多くかった。石造りのためもあるが、フランスや欧州は闘いが多いためでもあろう。屋根にも登れる。登ってみると4連と1連の2層の鐘の鐘楼がまじかにあり、白壁と赤屋根町並み、波濤の地中海、をみおろす。目を転じるとカマルグの広大な湿原地帯が望めた。 
 教会を 町をぶらつく。書店(librarie)で地図2枚をかう。IGN社の地図で75,000万分の1の「Camargue Alpilles」9.50ユ-ロと、25,000万分の1の全国シリ-ズの「3044OT」11.70ユ-ロ。前者はアルルとカマルグの広域図、後者はヴァカレス湖東南部陸地図。またこの旅行も終わりに近ずいたので、みみさんは孫たちの子供服を買う。 
4:45、町を出る。
 帰りはカマルグ湿原をよく見たいと思い、来た時の道でなく1本、東の<D85a号線>を走る。緑の地平線、青い水平線、白い夏雲が浮かぶ広大な空。干潟、湿原、沼、遠くのフラミンゴ、カモメ。



 2回、車をとめておりて眺める。遠くのフラミンゴがいる所からもどってきた中高年のペアと会話した。主人は、名古屋の「ヨコカワ電気で長年働いた」と言った。この旅でも何人かのフランス人と話したが、日本に対してわるい印象を抱いている人はあまりいなかったように思う。うれしいことである。彼はようやくリタイアしたらしい。
 さらにウ゛ァカレス湖の北を通り、対岸のサラン・ド・ジロ-(Salin de giraud)の塩田を見に行こうとしたが、<D37号線>への分岐点がどうしてもわからず、そのかわり、幹線線沿いのカマルグ博物館に迷いこんでしまった(16:40)。 


この博物館はよかった。カマルグの考古学的地質、地形、植生、人々の生活形態、歴史などが総合展示されていた。展示はすべてすべてフランス語のため、英語の説明シートがあり借りた。1950年代頃の劇映画も上映されており、しばし魅入る。内容はこの地域のどこかであるとおもわれるが、ロマの人々の情熱的な日常の映画で、闘牛や、黒マリア像の年に一度の海水入りや、お祭りがでてきた。その結果、「白い馬」はカマルグの馬のことだったこと、「アルルの女」にはどうやらこのカマルグの女性たちも含むのではないだろうか、とわかった。堪能した。

 

ここでも地図を買う。カマルグの詳しい地図である。IGN社の「2944OT」と、「2943ET」。両方とも8.6ユ-ロ。
屋外にでて美術館の敷地内を歩く。見渡す限りの地平線で空が大きい。南の入道雲の奥に稲光の閃光を見た気がした。

 

 野良猫(?)がいて美穂子さんが可愛がる。彼女は2006年、コ-カサスはグルジアのゴリという町(スタ-リンの生地でそのスタ-リン博物館)でも野良猫を可愛がっていたことがある。             駐車場の脇に、1950年代にベネチア・ビエンナーレで活躍した日本人建築家の舟の造形があった。その人の名は、TADASHI KAWAMATA という。色々な日本人が活躍している。彼らの精神力に感銘をうける。

18:05、カマルグ博物館を去る。                                  スペイン・バルセロナに在住の神尾賢二君から旅行前に、カマルグの「MAMADELAURENT」という牧場(マナ-ド)が知り合いだと情報をもらっていたが時間が無く、行けずずまいであった。 

 <D570号線>をアルルにもどる。
 18:30、ホテルに帰着。昨夜の夕食はホテルの横の、ゴッホの「夜のカフェテラス」のカフェでとったが、今夜は我々のホテルのスノッビ-な女主人は留守で、その代わり実務的でてきぱきした番頭格(?)の女性おすすめのレストランに行った。日本人客が5人いた。列車で旅行中で夕方、Avignonからアルルに着いたばかりという夫妻に会った。ほかの三人はフランス料理の修行にきていて一同に集まったという若者たちである。今回の旅行ではここまで日本人旅行者にはまったくあわず、10月8日の朝、Cucugnanのパン工場に修行にきている京都出身の若者に会ったくらいだった。今夜の食事もワインもたっぷりのみ、おいしい食事であった。


10月14日(火)
 
 今日はフランス最後の日である。朝食はホテルの外の路上テ-ブル。


10:15、アルルのホテル出発。チェックアウトのとき、INFOで予約した金額とちがうので言うと、スノッビ-なおかみさんは、INFOの間違いにブ-ブ-言っていたがこちらは知らない。2泊で417.2ユ-ロの請求であった(1泊Appartment 150 Petit dejeuner36 Garage 20 1日計206ユ-ロ×2泊=417.2ユ-ロ)が、INFOでは381.2ユ-ロであった。それはともかく、このホテルはモロッコのタンジ-ルに姉妹ホテルをもっている。
www.nord-pinus-tanger.com
 
 高速道路<A4号線>でマルセイユに向かう。今夜はマルセイユの空港を19:20に飛び立つので、空港には17:00頃までに着けばいいので、それまでどこかマルセイユを見物しようと、どこがいいかで、20世紀の建築家ル・コルビジェの「ユニテ・ダビタシオン」(Unite d'Habitation)にいくことにした。さてその場所であるが、住所(280,bd.Michelet 8e)はわかるがGPSになかなかいれられず、また持参のI-PADもよく機能せず、これまでどうり、車ののGPSを、<Marseille Centre>にあわせ、到着したところで探そうと決めた。   
 順調に走っていたが<A7号線>にはいりアルルから90km位走ったマルセイユの直前で道路選択をまちがえ、時間ロス。(どうやら<A55号線>を西にすすんでしまったようだ)それでももどって12:00にはマルセイユ市に入ったが、さらにまちがえて旧港におりてしまった(リブ・ヌ-ブ通り、quai)。

 カ-ナビ(GPS)の画面表示が現実のスピ-ドについていけず遅いので、一瞬まちがえてマルセイユ旧港へ降りる車線のままだったのである。まいったね、しかしおかげでマルセイユ中心部のヨットハ-バ-を見ることができた。


またビル壁面の、植生とネオンサインの奇抜な広告物も(点灯はしていなかったが)見ることができた。媒体はJCドコ-社であった。(JCDecaux)


 今回の旅行でJCDecauxに巡りあったのは、カルカソンヌ(ガンベッタ広場脇)の広告塔と、ベジェでの社用車に続き三回目である。(今年1月、ポルトガルのカルダス・ダ・ライ-ニャではバス停広告取り付け工事をやっているところを通ったことがある。)

 周辺は渋滞、遅々として進まず、人混みで、喧騒にみちあふれ、おまけにどうやら夕立がきそうで暗くなりライトをつける。マルセイユはきをつけろ、ジゴロに気をつけろ、という警告を思い出す。GPSに従って港から東へ坂を上がる。交通量も人も多い狭い道を駆け上るころ、遂に雨がきた。ワイパ-全開。そうこうするうち、住宅街に入り込み、ついに、Marseille Centreに到着、とGPSがコ-ルするが一体ここはどこら辺なのか、さっぱりわからない。駐車場、駐車スペ-スが全然ない。ゲ-トが上がっている通路へはいると行き止まり。バックしようとするとゲ-トがおりつつある。アチャ-。(1998年、ドイツ旅行中でも同じことがあってそれが脳裏をかけめぐる)今回はそこから出る車が居て、その人にあけておいてもらった。広めの通りにやっとスペ-スを見つけ押し込む。(あとで調べると通りの名は、Avenue du Prado、BNP Paribas銀行・マルセイユ・プラド支店の向かい側で西向きであった)時間は12:53、になっていた。 

 目当てのル・コルビィジェ設計のユニテ・ダビタシオン(1952年完成)ほそこから結局3km位歩き、着いたのは14:00。場所探しで今回のフランス旅行で一番苦労した。(道をたずねたのは4~5回。プラド通りを東へ1.5km、ロンポワンでミシュレット・アヴェニュ-を南に1.5km) 残り時間がすくなくなり見学は外から15分位で残念。エントランスには入っていったが、その先は有料。だが、我々はル・コルビジェ(Le Corbusier)が好きである。ブッ太いピロテイにささえられた17F建て。337住宅、幼稚園、郵便局、商店街あり。4階にホテル。屋上にはプ-ルもあった写真をみたことがある。



 歩いて車への帰り道、ミシュレット・アヴェニュ-で、右手にサッカ-スタジアム(Nouveau Stade Velodrome、スタッド・ヴェロドロム)があった。ここが多分フランス・プロサッカ-チ-ム21クラブの一つ、「OLYMPIQUE DE MARSEILLE」の本拠地であろう。
 14:50、ようやくアヴェニュ-・デュ・プラドにとめた車に戻る。くたびれて腹もすいてきた。      日本の建築家、隅研吾(くま・けんご)氏設計の、2013年「マルセイユ・ヨーロッパ文化首都」(都市再開発プロジェクト)の一環である「プロバンス現代美術センター」も行きたい所だが、割愛。GPSを駆使できなければ、つぎも同じように探すのに一苦労であろうゆえ、である。        
 では、早めだが、マルセイユ・プロヴァンス空港に直行することにする。
ところがカ-ナビがまた、「Marseille Provence Airport」を受け付けない。困って通行の紳士に助太刀を求めると何回かのすえ、Marignane (マリニャ-ヌ)、で入れてもらえた。この人にも感謝で、チップは辞退されたがさいごは受け取ってもらえた。(フランス語のLa Pointe MARSEILLE-PROVENCE と入力しなければならなかったか?)
<A50号線>を空港にむかう。地下トンネルで横浜の高速をおもいだした。途中又間違える、どうもこのナビの表示はは使いにくい。

 15:45、マルセイユ・プロバンス空港(マリニャーヌ空港 Margnane)着。


レンタカーをAvisに返す。今回走行距離は1,293km。ふりかえればフランスは広かった。


 19:20、マルセイユ発。                                      パリ・シャルルドゴール空港着20:50。
 乗り換えて東京羽田に向かうべくシャルル・ドゴ-ル空港発23:25。

 羽田に10月15日(水曜)18:00無事帰着。


Ⅳ.屋外広告媒体の視察・研修

1.自立看板

 1632 モワサック (D813号線)

 

1635 モワサック (D813号線)

3960 カルカソンヌ(ガンベッタ広場)

 

 1948 ピュイヴェ-ル (D117号線)

 1965 キャン(D117号線)



1982 エスペラザ付近(D118号線)


2574 ユゼス(D981号線)

 

2703 アルル (D570n 号線)

 


3084 アルル (D570号線)

 

3086 アルル(D570号線)

 

2.壁面広告

3978 カルカソンヌ(ポン・ヌフ)

 


  4021 カルカソンヌ

 

3175 マルセイユ(A7号線)

 

 3183 マルセイユ(旧港 リヴ・ヌ-ヴ通り)  
植生とネオンの組み合わせの壁面広告 JCDecaux社

 

3.屋上広告   見当たらず

4.店頭(ファサード)

 3580 モワサック(D813号線)

 

 3594 モワサック(D813号線)

 

 3949 カルカソンヌ(ヴェルダン通り ベトナム料理店)

 

2013 レンヌ・ル・シャト-(グラン・リュ通りの書店)

 

2015 レンヌ・ル・シャト- (グラン・リュ通りの農機具店?)

 

5.観光地標識 

 1572 モワサック(A62号線)

1849 ミルポワ(D119号線)

 

1846 ピレネ-のスキ-場 (D119号線)

 

1847  ロマネスク教会と洞窟? (D119号線)

 

5414 ド-デの風車 (アルル近郊のフォンヴィエイユ)

 

3127 「マルセイユ・プロヴァンス2013ユ-ロッパ文化首都」 (A7号線)


6.ストリ-ト・ファニチュア


 6-1.モリスの広告塔

カルカソンヌ

 

アビニョン

 

 6-2. 歩道の電飾自立両面型スタンド

アビニョン

 

アビニョン

アビニョン

 

アビニョン

 

マルセイユ

 

6-3.バスシェルタ-

アルル

 

アルル

 

 6-4.バナ-

 ツ-ル-ズ(キャピトル広場)

アルル

アビニョン

 6-5.昇り旗

ミルポワ

ミルポワ

 

7.交通広告

  7-1.カルカソンヌ駅


駅名タイアップ

 駅舎内ボ-ド


 7-2. アビニョン・サントル駅

  列車ラッピング


  7-3. バス広告

 

 7-4. 車体広告(バスを除く)

 ベジェ (JCDecaux社の社用車)

サント・マリ-・ド・ラ・メ-ル (カマルグ遊覧の4WD)

マユセイユ