Ⅰ. 屋外広告物視察 7月31日(土)~8月10日(火)
『活力あふれた広告景観に感銘』 (2010年11月25日「総合報道」紙第1678号掲載文に加筆)
今夏、東欧のウクライナを訪れる機会があり、屋外広告物を多数視察できた。
ウクライナは日本の約1.6倍という国土面積を誇り、東にロシア連邦、西にハンバリーやポーランド、スロバキア、北にベラルーシが位置する。91年にソ連崩壊に伴い、独立した。
私が視察したのは、首都のキエフをはじめ、オデッサ、クリヴォーイ・ログ、ザポロージャ。 また、クリミア半島のケルチ、ヤルタ、セヴァストーポリ、シムフェロポリなど。
屋外広告物は、量としてはおもいのほか、多く見られた。サイズや形態が数種類に規格化され、全体として雑多な印象はなく、デザイン(表示内容)は文字だけよりビジュアルデザインも多く、洗練さを感じた。ただ、動画(映像系)は少なかった。
しかし、道路占用型の広告物は日本よりもはるかに多く、広告景観としては活力にあふれ、良好な感想をもった。
■自立広告物
米国に見られるブルテイン型は少なかった。広告物は人の目線の高さを重視し、大きさもコンパクト。道路占用タイプは、道路に突き出したもの、道路中央部に屹立させるものが多かった。
形態は独創性があり、例えば主柱を直立させるのみならず、傾斜させたもの、Y字形、V字形にさせたタイプも見られた。またユニポールで両持ち(複葉)にさせたもの、3面もちにさせものもあった。3面変換ボードも多数見受けられ、改修工事現場にも遭遇した。
道路交差点(ロータリー)には、品の良い広告施設を設置している例もあり、また置き基礎による自立広告も時々、見かけた(地震は非常に少ない国のようだが・・・)。広告媒体のブランドは「BIG
BOARD」「EURO BOARD」など。
↑ 【 ユニポールで両持ち(複葉)にさせた自立広告物 クリボイログにて。 】
■壁面広告/屋上広告
壁面広告の量は少なかったが、巨大サイズもあり、見応えがあった。
屋上広告は自家広告はあったが少なかった。特に有料媒体物件は1~2例しか見かけなかった。
↑ 【 ユーモアある壁面広告。下は筆者。 セバストポリにて。 】
■橋桁広告/バスシェルター広告
橋桁広告は、多数見られた。日本は、禁止場所に指定されているが、以前視察したコーカサス同様、旧ソ連圏には多いようだ。バスシェルター広告は近代的なものがなかったが、すでに設置されていた。
■車体へのボディ広告
バスラッピングはよく見かけた。驚いたのは窓ガラスの4分の3程度まで広告がOKなこと。観光バスへの車体広告は、IJP(インクジェットプリンタ)によるフィルム施工ではなく、マーキングフィルム加工もある。しかし、IJPが広範囲に普及していることは歴然だ。
■ストリート・ファニチャー/工事現場仮囲い
ウクライナは、欧州圏だからストリート・ファニチャーを多く見たが、工事現場仮囲いはキエフで1つだけ見かけた。
■道路横断幕/突き出しフラッグ
道路横断幕の広告媒体が非常に多かった。コーカサス諸国でもよく見かけたが、この媒体は旧ソ連圏全体の特徴かもしれない。道路占用に突き出すフラッグは、特にクリミア半島に多く見られ、連続掲出で迫力があった。特に好例なのが、シムフォエーポリ~ヤルタ間。この突出しフラッグと道路占用自立広告物の同時一斉掲出場所がシムフェローポリの空港通りに見られた。
■ネオン
キエフ市ドニエプル川高台の勝戦記念アーチは夜間になると、赤、白、黄、青のネオンが点灯し、見事。まだ、LEDを使ったと思われる夜間イルミネーションも全土で多様されていると聞いた。
■広告主
私は、キリル文字を読めないので、判読できなかったが、日米欧の広告も目立った。ラーナ農場(ザポロージャの南。元、コルホーズ)を見学した際、農場主から「今後、もっと外国資本が入ってくることを想定し、力をつけなくては」という見方もあり、今後はさらに外国の広告企業が増える見通しだ。
【 シンフェロポリの空港通り 】
最後に「総合報道」紙9月15日号によると、国土交通省は民間資金を活用して国の財源を確保するため、道路空間の利用に着目して、「道路空間への広告のオープン化」も検討していくようだが、私は大賛成。今回、ウクラナイナで見かけた広告物(媒体)が、今後日本でも出現することを期待してやまない。
Ⅱ.屋外広告物ギャラリ-
Ⅱ-1. in キ⁻ヴ (キエフ)
【 三面変換ボ-ド 】
【 ビル壁面、タ-ポリン 】
【 】
【 】
【 横断幕 】
【 三面変換ボ-ド 】
【 三面変換ボ-ド 】
【 ビル壁面広告 】
【 いわゆるstreet faniture 】
【 ロ-タリ-花壇、自立広告 】
【 上記の別アングル 】
【 空港通り 】
【 空港通り 】
【 空港通り 】
【 空港通り 】
【 空港通り 】
【 空港通り 】
Ⅱ-2. in オデ-サ(オデッサ)
【 モリスの広告塔タイプ 】
【 貼り紙 】
【 壁面広告 】
【 自立、三面変換ボ-ド、ユニポ-ル 】
【 三面変換ボ-ドの裏側 】
【 street furniture タイプ 】
【 制作中 ? 】
【 夜は内照の行燈の列。背後の階段は ポチョムキン階段】
Ⅱ-3.ミコラ-エフ~クリボイログ.
【 ミコラ-エフ市、ロ-タリ- 】
【 ノ-ヴォイブ-ル町、横断幕 】
【 クリボイログ市、横断幕】
【 クリボイログ市、クリボイログ・スタ-リ社名看板 】
【 クリボイログ市、クリボイログ・スタ-リ社名看板 】
【 クリ坊ログ市、自立、置き基礎か? 】
【 クリボイログ市 】
【 クリボイログ市、これも置き基礎? 】
【 クリオボイログ市 】
【 クリボイログ、自立、置き基礎? 】
【 クリボイログ市、自立 】
【 クリボイログ市、 屋上看板、壁面広告 】
【 クリボイログ市、自立 】
【 クリボイログ市、上記広告物の基礎、置き基礎? 】
【 クリボイログ市 自立 】
【 クリボイログ市 横断幕 】
【 クリボイログ市 壁面のレリ-フ 】
【 ザポロ-ジェ バス態 】
【 ザポロ-ジェ バス停 】
【 ザポロ-ジェ 自立 】
【 ザポロ-ジェ バス停 】
【 ザポロ-ジェ 街路灯ポ-ルのバナ-広告 】
【 ザポロ-ジェ 自立(ユニポ-ル)】
【 ザポロ-ジェ トリム車体ラッピング(窓部分もラッピング 】
【 ザポロ-ジェ ろたり-の広告物景観 】
【 ザポロ-ジェ郊外 道路横断占用ア-チ 】
【 ケルチ半島 自立 】
【 ケルチ市内 広告面さしかえ工事中 】
【 ケルチ市内 広告面さしかえ工事中 】
【 ケルチ市内 】
【 ケルチ市内 】
【 ケルチ市内 】
【 ケルチ市内 】
【 ケルチ市内 】
【 ヤ-ルタ マッサンドラ付近広告景観 】
【 ヤ-ルタ マッサンドラ附近広告景観 】
【 ヤ-ルタ マッサンドラ附近 広告景観 】
【 なんの内容か? 】
【 ヤ-ルタ 海岸 壁面 】
【 バラクラ-バ附近 自立 】
【 セバスト-ポリ市内 】
【 セバスト-ポリ 自立 】
【 セバスト-ポリ 電柱そでカン 壁面広告 】
【 セバスト-ポリ 自立 】
【 セバスト-ポリ 道路上空 )新旧イスラム圏で見かける。】
【 セバスト-ポリ郊外 (バフチサライへの道)】
【 ヤ-ルタ~シムフェロポリ間 】
【 ヤ-ルタ~シムフェロポリ間 】
【 シムフェロポリ 】
【 シムフェロポリ空港通り 】
【モスクワ シェレメチェヴォ空港付近 自立 】
Ⅲ.旅行記
第1日目(2010年7月31日、土曜)
12:25、成田空港をモスクワへ向けて、エアロフロ-ト SU-582で飛び立つ。機体は新しい感じ。
22:20(モスクワ時間では7月31日17:20 サマ-タイム)、シェレメチェヴォ空港新タ-ミナルビルに着陸。乗り換えで、タ-ミナルF(旧ビル)へ向かう。タ-ミナルFは、2年前、コ-カサスへとんだときのタ-ミナルでなつかしかった。
22:05、キエフへ向けて、A(エアバス)321-200で飛び立つ。
モスクワ時間より1時間おそいキエフ時間の22:23、キエフ市街より東40Kmにあるボリスポル空港に降りる。着陸時の機内のwelcome musicは、はチャイコフスキ-「くるみ割り人形」の「コンペイトウのおどり」だった。 バスが迎えにきていた。ガイドはバレンチナ・モロゾワさん、モンゴル系の顔立ちで、日本語を話す。
23:45、RUS(ル-シ)HOTELに着いて泊まる。バスタブの栓がなかった。
2日目(2010年8月1日、日曜)
早速、9:00~10:45まで、ホテル内で、キエフ・モヒラ・アカデミ-の、キリシエンコ教授の講義をうける。キエフ・モヒラ・アカデミ-は国立大学で1632年、設立の、東欧では最古の大学とのことだ。国立キエフ大学(設立1834年)より古い。設立者の、ペトロ-・モヒラはモルダビア公国の貴族モヒ-ラ家の出身の主教で、西方カトリックのイエズス会のカレッジをモデルに設立した。(wikipedeaより)
講義はモロゾヴァさんの通訳で、「ウクライナ一般」、「歴史」、「現状況」、「質疑応答」、にわけておこなわれた。以下、メモより。
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1.「ウクライナ一般」
・ウクライナとは、母国(homeland)、の意味。
・面積60万3700キロ㎡、日本の1.5倍。
・人口はソ連時代の5170万人より減っており、4600万人。減少している。理由は、1)チェルノブイリ原発事故の影響、2)労働人口の転出、である。
・他民族国家である。ウクライナ人70%、ロシア人15%、その他15%。(ポ-ランド人、ギリシャ人、ドイツ人、ユダヤ人、ブルガリア人、ハンガリア人、、、、)
・言語は、ウクライナ語(人口の1/3)、ロシア語(同1/4)、、、
・国土について。まず地震はないとのこと。
肥沃な黒土、チェルノ-ゼム(チェルノジョ-ヨムと聞こえる)。全世界の黒土の1/3がウクライナにあり、他はロシア、カナダ、中国北部にすこしずつ。
・ヨ-ロッパの穀倉である。
にもかかわらず、過去には飢饉もあった。それは自然現象の飢饉ではなく、人為的な(intentionalな)飢饉であった。 『A HISTORY OF UKRAINE』( PAUL ROBERT MAGOCSI著)【←スタ⁻リン時代の人災を指す】
2.「歴史」
・BC.7C. 古代ギリシャ人が来る。植民都市、黒海沿岸
・東ロシア、バルト海、地中海
・9~14C. キエフ中心に国家
ウクライナコサックの出現、(コサックと日本武人の共通点(武人、詩人、歌人、)と相違点(武士は主君に仕えるがコサックはその点では身分的には自由、コサックは農業するが農民ではない、相互扶助で団結固い。)
・14~17C. 西部はハンガリ-領、クリミヤの一部はジェノヴァの植民都市、大半はポ-ランド、リトアニアの支配、1/3トルコ支配。
・17,18,19世紀、コサックの全盛期。
・18C. 東半分、ロシア領。 西側半分、オ-ストリア・ハンガリ-領。
・19C. ロシアとオ-ストリアに挟まれる。圧迫、ウクライナ語禁止も。
シェフシェンコ(詩人)「春のチェリ-が咲くころ」
・「ヤルシェンコ(日本人であるウクライナ人)」←←なんのことだったか?( )
・20C最初は独立国家だった。WW1で敗れる。
・ソ連時代、厳し時代、共産党支配。また、スタ-リンかヒットラ-かの選択しかなかった。
(東欧には西か東かの選択があったが、ウクライナにはなかった。数百万人--ソ連赤軍に、数千人--アメリカ支持、大半--ヒトラ-を支持。 人口の1/3が死亡。
・重工業の発展、東部ドネツク方面。鉱物資源に恵まれるも貧しい国。
3.「現状況」
・1991年、ソ連崩壊により独立。
・できるだけ早くEU加入したかったが、EU消極的。
・現在、移民の子孫がおおく、国民のアイデンテテイは弱い、一方、コサックの精神的伝統はいまも残っている。
・2004年、オレンジ革命。
4.質疑応答。 ( )名。
10:45、講義おわる。概略的によくわかった。が、質問できるほどの問題意識の無さを痛感する。
キエフのことは「キ-ヴ」と聞こえたりする。
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バスで市内研修に出発。
まず、ペチェル-スカ・ラヴラへ向かう。
【 市街地 道路分離帯に自立広告。日本にない手法。 】
11:10~13:35 ペチェル-スカ大修道院 Pechersk Lavra
1051年創建。
1051年といえば、キエフ公国が始まって(880年)からすでに170年。ウラジミ-ル1世がギリシャ正教に改宗(989年)してから、すでに60年を経過した、ヤロスラフ賢公(1019~54)の時代の、キエフ・ル-シの破竹の時代である。ソ連社会主義時代にはすたれていたが、現在は復活し、いまやロシア正教ウクライナ支部の総本山である。
【 表門の右側の、壁画。 】
【 表門をくぐって振り返る。門は、三位一体教会の下にあった。】
【 向かうさきにウスペンスキ-大聖堂 】
ウスペンスキ-大聖堂はまぶしい金色屋根でけばけばしい。圧倒される。
ウクライナの地は、古くは、スキタイ文明の地である。スキタイ文明といえば、遊牧騎馬民族であると同時に、黄金(きん)である。それもあって、このようにけばいのであろうか。
事実、このウスペンスキ-大聖堂の背後にある歴史文化財博物館でそれにお目にかかる。
そこでは、三つの部屋をガイドされた。
① GOLDSMITHERY RELICS ON THE TERRITORY OF PRESENT-DAY UKRAINE OF BRONZ-EARLY IRON AGE 1 SHOW
ROOM
② 二つ目、ここがハイライトである。
「スキタイの黄金の首飾り」、ペクトラ-リ(PRCTRAL)とよばれるそれである。重さ1148グラム。紀元前4世紀頃のものといわれ、トラスタ・モヒ-ラ古墳より出土。20世紀最大の発見物とさせれる。 (中公新書『物語ウクライナの歴史』p015)
三層の輪廻図がほられている。BREAST ADORNMENT。
さらに ③ ユダヤ教工芸品室。この地方、ユダヤ人が多かった。
12:35、退室。
・12:55~。下の教会(LOWER LAVLA)とよばれる「十字架昇天教会」に行く。
その地下墓地(ペチェ-ルイ)へ、ロ-ソクを灯して降りる。薄暗い中にガラスケ-スに収められた118体のミイラ化した僧侶を拝む。13:20、退出。
ペチェル-スカをかこむ緑の森のあいだから雄大なドニエプル河が望める。右手にはWWⅡの戦勝記念の女神の立像がそびえる。ドニエプル河は、ロシア西部に発し、ロシアのスモレンスク、ウクライナのここキエフ、ザポロ-ジェを流れ、黒海北西岸の河口まで全長2285KMの、ヨ-ロッパ第三の大河だ。(1位ヴォルガ河、2位ドナウ河)
「苦しみの道」を登りバス通りに出て、ペチェル-スカを退出した。。「苦しみ」のいわれは聞きもらした。
13:40~15:05 昼食。バスで2~3分の、レストラン・ツア-ルスイケ・セロ。
15:15~15:30、市の中心部、独立広場に行く。
市の中心部といっても、ここは中世の城壁の外に位置しており、整備されたのは20世紀にはいってからといい、2004年のオレンジ革命の舞台はここであった。広場の南側は噴水があり、高さ52mの独立記念塔の上に女性像がそびえる。背後は上り坂で頂点におおきなビルがある開放的な空間である。
私の気をひいたのは、むしろ、広場の北側を円形形にかこむビル群の屋上看板であった。(夜もとうりかかり、夜景のそれらの照明に目をこらした。
【 独立広場北側夜景 】
聖ミハエル修道院のまえを通過し、15:45~16:45ソフィア大聖堂。 ソフィアとは、イスタンブ-ルのハギア・ソフィア(聖ソフィア)にちなむ。大聖堂の建立は、1037年、Yaroslav ヤロスラフ the wise (978~1054)の戦勝を記念するキエフ最古のキリスト教会である。現在は17世紀の再建物。ここは大公たちの墓所でもある。西ヨ-ロッパ方面のロマネスクやゴシック形式とはことなり、ウクライナ・バロック形式といわれる。 建物外壁の色も、白、青、で明るい。ソフィア広場には、ポ-ランド戦争の英雄ボフダン・フメルニッキ-の騎馬像が立つ。彼はポ-ランド貴族であり、ウクライナ・コサックの最高指導者(ヘトマン)であった。
このあたり、マロニエの木が多い。マロニエの実は食用にならず、薬用である。
トルストイ通りがあった。トルストイは一時、キエフに在住したことがあるとのこと。
16:50~17:00,キエフ大学前。建物はくすんだ赤色で若干、驚く。これはロシア、ニコライ1世が徴兵拒否運動の学生たちに対する罰として、塗られたことに由来する。
【 キエフ大学 】
大学自体は、ハリキフ大学(ハリコフ大学)に次ぐ国内二番目の、1834年の創立である。
( 疑問あり。 キエフ・モヒラ・アカデミ-国立大学の設立は、1632年と聞いているが、、、、)
なお、キエフ大学は国民的詩人タラス・シェフシェンコの名を冠せられている。
彼の名は、国立オペラ・バレエ劇場にも冠せられている。そのかれの立像を、シェフチェンコ公園で見る。
17:05~15,黄金の門。 11世紀、ヤロスラフ賢公によりキエフのまわりに城壁が築かれた。その公式門のあと。門の上に緊迫のド-ムが築かれたことに由来する。しかし、1240年、モンゴルのバトウによって破壊、入場された。1982年、再建。
【 黄金の門 (1982年再建) 】
さてここから、地下鉄に乗る。黄金の門駅(Zoloti vorata駅)からPalats Sportu駅まで、ひと駅。地下鉄の駅は深く(50mくらい)、空間はひろく、またエスカレ-タ-は高速である。空間の広さはニュ-ヨ-クや都営銀座・浅草線の比ではない。エスカレ-タ-の両側や中間に電飾の看板が屹立している。この点での広告景観は世界一であろう。
【 キエフ地下鉄の駅は深い。】
降りた地下鉄の駅からホテル(昨夜と同じホテルル-シ)までは歩き5分くらいだった。
夕食はバスに乗り、レストラン「トサルスコイ」に行く。
食後、伊藤忠キエ事務所の今泉徹氏による「日本人の目から見たウクライナについて」の講義が行われた。
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その目次はつぎのとうり。
●ウクライナの国民性
・西と東のウクライナ
・ウクライナ語とロシア語
・女性大国
・大国に翻弄された歴史~あいまいさが残る性格
●政治
・政権交代 ヤヌコビッチ、テイモシェンコ、ユ-シェンコ
・オレンジ革命(熱狂と期待)^失望と混乱~安定政権か
・天然サス問題~親ロシアへの揺り戻し
●経済
・財政赤字とIMF スタンドバイクレジット
・輸出の大部分を担う鉄鋼業
・黒土地帯を背景にした豊かな穀物
・低迷する機械産業
・新興財閥(オルガルフィ)とロシア
●日本とのビジネス
・キエフ商工会 (20社程度、商社など)
・自動車、家電
・GIS、 環境問題
・老朽インフラの近代化 (例、日本の円借款200億円で空港改築予定)
●質疑応答 5名
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食後、21:55,下町のボデイル地区の中心、コントラクトヴァ広場に行き、ドニエプル河畔で涼む。
【 右岸高台の照明されたア-チを見る。】
ホテルにもどり、就寝は22:50頃であった。
3日目 (2010年8月2日、月曜)
今日は、黒海のオデッサへ飛ぶ。
6:30,ホテル発。
ガイドさん曰く、キエフにはまだゴミ焼却場は1ケ所しかなく、山中に埋設していると。日本を研究しているとのことが言われた。
7:06、BORISPOL(ボリスピリと聞こえる)-KIEV空港着。道中、ドニエプル河左岸の街の朝の風景をみた。空港では、空港では、AERO
SVIT、DONBASS AERO AIRLINES, などの機体をみた。
9:10、ドニエプロ・エアラインの機体でキエフ発、
10:10、オデッサ着陸。オデ-サまたはアジュ-サ、と発音するのが正しいらしい。
10:45,バスで空港発。
11:15,オデッサ港着。
11:35,歩いていくと、なんとポチョムキンの階段の上の広場に到着。今回のテ-マの1ケ所であるが、階段をまず上から見るとは思っていなかった。197段を歩きくだる。下から見上げる。踊り場は2段あったと思うが(実は9段?)、踊り場が見えないのはともかくも、
ずいぶん、上が高く見えるとか。私はそうも感じなかったが、ここにマジックというか、OPTICAL ILLUSIONがあって、そう見えるのだそうだ。そのわけは、
ふもとの階段の横はばは21m、てっぺんの幅は13mで、徐々に狭められているからであると。
それより、ここは映画『戦艦ポチョムキン』で有名な階段だ。階段下の反乱阻止軍の発砲で、乳飲み子が乗った乳母車が母親の手をはなれ、階段を一段ずつ落ちていくシ-ンだ。まだ日本では完全版が劇場公開されていない1965年、私はこの映画を早稲田祭の自主映画実行委員会による映画会でみたのである。ここはその現地である。
階段上の広場には、このオデッサを開発したエカリチェン2世像、初代市長のリシュリュ-像があるが、私はそれよりも夕方見たリクリンチュク(戦艦ポチョムキン反乱軍リ-ダ-)像の方がまじかにおもえた。(但し、どこにあったっけ?)
広場からは並木のプリマルスキ-通リを行く。 右手にホテル・ロンドンスカヤ-----。
突き当りの十字路にプ-シキン像。(プ-シキンはオデッサで「エウネギ-・オネ-ギン」第2章を執筆)
【 プ-シキン像 】
十字路の左奥にオデッサ市役所(ホワイトハウスというニックネ-ムを持つ)。
右手に折れて、左に焼肉「神戸」、ホテル・MOZART、むかいに、オペラ・バレエ劇場の広場に来る。
【 オデッサ オペラ・バレエ劇場 】
リシュリ-通り(プラタナス)、ギリシャ通り(広場)、エカテリ-ナ2世通り、ランジェロン(2代目市長、オランダ出身)通りを横切り、市立公園(ゴ-ルサト公園)へ。
パッサ-ジュにも入った。
【 パッサ-ジュ 】
ロシア正教のプレオブラジェンスキ-教会にも立ち寄る。
13:30,バス移動して昼食。デザ-トにヴァリ-ニテイズビジュニ-(サクランボ入りぎょうざ)を食べたらしいが記憶にない。
15:30~16:10,オデッサ屈指のビ-チ、アルカデイア・ビ-チ。老いも若きもくつろぐ。足の長いウクライナ人たちの裸は見応えがある。
【 アルカデイア・ビ-チ 】
帰途、16:45頃、ワクリンチュク(1877~1905)の銅像の前を通過。
戦艦ポチョムキン反乱軍リ-ダ-。
17:00,ホテル・オデッサに到着。埠頭の先端に2001年に建ったばかりの高層ビル。大型のクル-ジングSHIPのもいる。9月には「飛鳥」もまた入港すると。
夕食まで時間が有ったので、市内の書店に地図を買いに行くという帝国書院の3名ほかのメンバ-に参加させてもらって、プレオブラジェンスカ通りの「BOOK
SHOP」へ行って来た。TAXI 2台でワリカン。
夕食は19:00,ロビ-集合でバスで、ポチョムキン階段上リシュリュ-像広場の左側、「ウクライン・カラスニカラ」というグルジア風ネ-ミングのレストランだった。
帰りは、ポチョムキンの階段をおり、歩きでホテルに帰った。21:45着。
【 ホテルオデッサ。埠頭の先の高層。ポチョムキン階段より。】
この町も、WWⅡナチスドイツ占領下、レジスタンスがあった。
4日め (2010年8月3日、火曜)
今日は製鉄都市クリボイログをへて、ドニエプル川沿いのザポロ-ジェまで行く。
7:40,出発。
【 ル-マニア?へ向かうフェッリ- 】
【 オデッサ港 】
【 ポチョムキンの階段よ、さらば。】
7:55から9:10まで、日大・池本修一教授の車内LECTUREが行われた。教授の分野は比較経済体制である。日本の戦後体制は、なにあろう、昭和10年体制と近似している、という論点に同感であった。
窓の外、右側は黒海近しと思われた。
草原があり、ひまわり畑がひろがる。かつてのイタリア映画「ひまわり」の舞台ならんか。(映画のロケはウクライナではなくスペインだったとか。)
8:55,ドニエプル河の河口のあるキリマン入り江を渡る。。
ミコラ-エフ(MYKOLAV)州の交通標識を通過した。
「春村」という街をとうり、9:33~10:00,ミコラ-エフ市直前のガソリンスタンドで休息。このあたりは19世紀、露土戦争により、オスマントルコ帝国領土よりロシア領(ウクライナ領でなく)になったと説明があった。かつてのオスマントルコの勢力範囲は広かったのだ。
【 10:10,ブック河の橋を渡る 】
ミコラ-エフ市。人口50万人。造船の街。かっては黒海艦隊の街
。
「クリボイログまで159km」の標識がでてきた。
11:17~23,見事な、広大なひまわり畑で停車、みんな降りて写真撮影。
12:05,Novyi Buh(市)通過。
12:40,ドニエプルペテロスク州に入る。この州の首都は、人口は339万人。大都市だ。
12:54,クリボイログ市に入った。 Kryvy Rih。
この都市の名は、私は高校時代の地理の授業(青島先生)で習って以来、そらんじている。当時はウクライナでなく、ソヴィエト連邦の都市としてならった。世界的製鉄の都市の一つとして。 あと、「ドネツ炭田」
もならった。ドネツ炭田はいまはドンバスというようで、ウクライナ東部である。
ロ-タリ-で看板の貼り替えを行っていた。 が、撮影を逃す。痛恨!!
市内の建物に「フルシチョフの家」がたくさんある。1970年代に盛んに建てられた5階建ての集合住宅のことで、天井が高く、広く、評判は良いとのことだ。
【 「フルシチョフの家」? これは9階建てであるが。】
13:35~14:35、クリボイログ鉄道駅近くのドヴギンツイヴォ(Dovgyntsiv's kyi)地区のレストランで昼食となる。(ガガ-リン通り? 近くにウクライナ正教の教会(cherkva)があった。
【 昼食のレストラン 】
地元の旅行会社がガイドに入った。エレ-ナ社長という。「娘はカ-チャ。夫は3ケ月前に31年間務めたクリボイログ・スタ-リを定年退職した」と自己紹介があった。
14:58~13:05,採鉱場の塔のそばで反対車線に停車し、写真を撮る。私はこちら側にある自立看板にも興味があり、両方見ないとならず、忙しい。
【 採鉱場 】
クリボイログが誕生したのは、1775年のことだったと。なんと!
処理済み鉄鉱石の捨て場(ボタ山)も見る。
【 正面、全山 ボタ山 】
そして、クリボイログ・スタ-リ(クリボイログ製鉄場)は、現在はなんと、鉄鋼世界最大手アルセナ-ル・ミタルの傘下にあるといい、びっくり。もはや、アルセナ-ル・ミタルに国境はなくウクライナも資本主義経済下にあるのだ。私の世界認識はおくれていた!
15:40~50,別の採鉱場にきて、撮影。
15:55~16:10,第三の採鉱場で撮影。
16:12、第1回目の採鉱場に来てまた撮影。
【 四つの冷却塔 】
この通リの名は、Metalurhiv avenue というらしい。
【 クリボイログ・スタ-リの大看板 】
【 Socialist realism mosaic。】
16:30~16:54,マルチン式第6溶鉱炉工場前で停車。勤務が終わってたくさんの従業員、労働者が一斉に門から出て帰路につくところに出会った。 壮観な景色であった。
バスは、工場への鉄道の引き込み線を見下ろせる高台にもいってたっぷり見せてくれた。
製鉄場外観見学は以上でおわり、17:05~40,中央市場内を見学。海水パンツを買う。クリミヤのヤ-ルタに着いたら、黒海に飛び込むのだ。
クリボイログの街は全体的に赤っぽかった。それはここに産出する鉄鉱石が赤鉄鉱石のためであろう。
【 さらば クリボイログ 】
さてここから東南東のザポロ-ジャに向かい、そこが今日の宿泊地である。
そこへは、高速道路はないようだ。ザポロ-ジャへの道は複雑とのことで、しばらく行ってUタ-ンし、北東のドニエプロペトロ-スク( Dnipropetrovsk )をめざす。(地図では遠まわりだ!)
18:15~40,トイレ休憩。
このあたりでバスdriverのアンドリュ-氏は、近道をとると言った。が、立派な道路とは言えず藪の中を進む感じになり、不安になってきた。
20:05,日没。 どうも道に迷ったらしい。
21:00、 22:00、を過ぎた。ザポロ-ジェの近くまでは来ているらしい。ザポロ-ジェのドニエプル河の中州に迷い込んだことがわかる。ここで、ベストワ-ルドの野本さん、迫真の行動にでる。 バスを止めさせ、バスを降り、通りがかりの乗用車をとめ、ザポロ-ジェの インツ-リスト・ホテルへの行き方を尋ねる。その車、「ついてこい」とばかり先導し、10~15分ほどでホテルに到着した。
到着22:48. クリボイログから、4時間50分、かかった。 きれいなホテルだった。遅い夕食を急いでとった。24時を過ぎていた。
第5日目 (8月4日、木曜)
就寝したのは夜中1時半ころで、起床は6時。
今日は、クリミヤ半島のシンフェロポリまで行く行程である。
出発は8時。ザポロ-ジェ限定のガイド、リュドミラさんがついた。
【 ホテル・インツ-リスト・ザポロ-ジェ
十月革命広場にたちよったあと、片側3車線、両側6車線くらいの道幅ひろく、且つ、まっすぐ直線の道路がアップダウンしながら北方向へむかう。長さ12km、ヨ-ロッパ最長の直線道路で、レ-ニン通りという。ザポロ-ジェはエカテリ-ナ2世の愛人ポチョムキンが要塞をきずいたのがはじまり?
8:15~25、マヤコフスキ-広場。ロシア・アヴァンギャルド詩人のウラジミ-ル・マヤコフスキ-のことか? 彼の両親はコサック出身であるからか? 対ナチス戦士碑、アフガニスタン戦士碑(当市より127名戦死!)がある。
8:42~9:17、レ-ニン像のある広場から北に、レ-ニン・ドニエプロ・ザポロ-ジェ発電所をみる。ドニエプロ河にアコ-デオンを広げたかの景観である。発電量、600万kw。レ-ニン亡きあとの、スタ-リンによる第一次五か年計画時代の1927~1932年の建設である。ヨ-ロッパ最大。そしてまさにその時代は、農業集団化時代であり、ウクライナの飢饉時代でもあった。
wwⅡでナチスドイツによって破壊されたと。
WWⅡ直後、この地方にも日本軍人が抑留されたとの解説があった。鎮魂あるのみ、の気持ちで受け止める。
9:38~11:35,ドニエプロ河の中州、ホルチョッツア島にあるザポロ-ジェ・コサック博物館にきた。
ホルチョッツアとは、中州の意味。北西から東南へ斜めの形の島で、タテ12km、ヨコ3km。ここがコサックの拠点シ-チである。キエフでみたフメルニッキ-像のフメルニッキ-の拠点である。
そもそも、コサックとは15~16世紀い圧政から逃亡し、ドニエプロ河東岸に住みついた農奴のことで、
トルコ語で「自由な人」という意味。その内実は共和国的であり、ロシアにとっては、東方タタ-ル、モンゴルへの防波堤として、重宝された。この頃が、ザポロ-ジェコサックにとっては黄金時代ではなかったか?
やがて、1650年、コサックはロシアに帰属する。ヘトマン国家ができるとコッサクの中心地はチヒリンというところへ移り、1775(1735?)年、ザポロ-ジェ・コッサクはエカテリ-ナ2世によって廃止、解散させられたれた。(このあたり、中公新書『ウクライナ物語』p.105より)
11:35、シ-チを発つ。
【 シ-チから見る発電所。】
ドニエプル河には橋が3っつかかっている。あと2つも建設中であると。その一つがプレオブラジェンス-橋で、昨夜バスが迷い込んだのはそこであり、見覚えある景色が断片的にそこここにあった。
車はここ5年で5倍に増えたという。「ザポロ-ジェ」という国民車が有名らしい。
【 国民車 「ザポロ-ジェ」 】
ここらでは、「SUDOKA」というチェコ製の車も多いらしい。
ザポロ-ジェ・スタ-リの前をとうり過ぎ、ザポロ-ジェから南下した。
コンカ川という川をわたる。カホフカという貯水池(人造湖)がある。
車はクリミヤ半島を目指し、南へ走る。
途中、13:45,右折。ラ-ナ牧場へ向かう。ひまわり畑があり、そのつきあたり、チェルノ-ゼム土壌の畑があった。14:00~41:10、車を降りていまは無農作(ロ-テ-ション)のチェルノ-ゼム(チェルノジョ-ヨムときこえる)土壌をまじかで見る、さわる、なめる。
【 チェロノ―ゼム土壌 】
世界にあるチェルノ-ゼムの25%がウクライナにある。その深さはここザポロ-ジェ州では、45~90mに達する。
ここは、肥沃な、プロドロドノイエ村というところで、14:20~17:00、ラ-ナ牧場を見学した。
(1)まず、社長室で社長氏のlectureを聞く。
社長は謙虚であったが、失礼ながらオリガルヒでもあるのではと感じた。
・面積3000ha。そのうち果樹園が240ha。果樹園1haのうむ利益は、その他の作物の60ha分にあたいするので、果樹に特化するとのこと。
・その他は5年周期で収穫する。ヒマワリ→秋まき小麦→ライ麦→カナリア草→ライ麦
・スタッフは100名である。
・売るときは(ウクライナ通貨でなく)EU価格で取引する。中間マ-ジンとられず直接やると。
・貿易も目的である。リトアニア、ポ-ランド、チェコ、ハンガリ-、( )、セルビア、、、85%。国内15%。
・流通用トラック、15台保有。(volvo、SAAB、スカニヤ、、、)
・養殖もやっている。鯉、アム-ル?、、、。
・ここは15年前に開場した。建設チ-ムあり、20人。
・土地は誰から借りているか。 10年契約30%、25年契約40%、49年契約30%。
・投資の金はどこからきているか。 自己資金、3年くらいで回収。あと、ファンド、オルガノフ、。今後外国資本が入ってくるまでに、力をつけないといけない。
・以前ここはコルホ-ズ(※)だった。近くにソホ-ズ(※)も一つあったが分けられた。
・ヒマワリの収穫には、WW600コンバイン(農機の名前?)。1日60ha。 収穫のあと、ブルド-ザ-。
・日本のkubota鉄工機を試験したが、そのままでは使えない、改善してくるとのこと。
・(この項、社長氏のlectureではなかったと思うが→)コルホ-ズ、1シェア4~12ha。ビジネスマンに貸せる、貸した方がよい、しかし売ることはできない。 (←いま土地の所有形態はどうなっているのか。いまだに共有所有なのだろうか、調べる必要あり。)
【 ラ-ヤ牧場、元コルホ-ズ 】
(2)15:10~25,冷蔵庫倉庫の見学。 1000トンのリンゴをいれるためにリニュ-アル中。
(3)15:32~16:17、120haの耕作地を見学。リンゴ畑。 (2005年に180haになった?)
リンゴ、モモ、チェリ-、アプリコット、ブドウ、、、10種類。オランダやポ-ランドのテクノロジ-に従う。
【 水はドニエプル河支流よりひいている。その貯水池。 】
(4)16:30~17:10、場所を移して野原のなかで、農場のスタッフたちと交流をかねて、遅い昼食を摂った。カルバドス、ウオッカが振るまわれた。
この豊かな、この地方は、かって、スタ-リン時代、農業集団化による飢饉に見舞われたのだった。いま人々にその苦しみの面影を窺がうことはできない。 (帰国後、悲しみの収穫をじっくり読んだ。)
なお、上記の(※)について。
コルホ-ズもソホ-ズも1920年代後半からのソ連社会主義農業の農場形態であるが、前者は集団農場、後者は国営農場と訳される。違いは、前者が、自作農であった農民・農地を協業化(社会主義化)、協同組合化し、既存の農地で展開され、収穫物は基準によって分配され、各農民の利益となる形態である。後者は、未開地を開墾するなど政府の力で建設された大規模な国営農場で、農民は労働者として給与を受け取る形態のようだ。(wikipediaより)
17:10,ラ-ナ牧場を去る。
17:25,南下する本線に戻る。 17:31,踏切があり列車をやりすごす。
【 17:45,メルとポリ市にはいる。】
モロゾヴァさんのレクチャ-より。
・賃金 医師…1477~1743フリブナ、校長…1549+(150~450)フリブナ。
・民族楽器バンドウ-ラについて。
18:55,ヘルソン州に入る。
すぐ、左手に現れたセンタ-・ピポット見学で急停車。広大な農地を給水するための、長大な給水機のことである。耳にしたのも初めてだったが、帝国書院のメンバ-たちは期待していたようで、飛び降りて接近して行った。
【 センタ-・ピポット 】
18:30、クリミヤ半島に近づいた。 クリミヤ半島には幅8km、長さ23kmの地峡をはいる。幅8kmもあるそうだが、現実的には下記の(ピンボケ)写真のように、むしろ周りは海が迫っている。
【 クリミヤ半島への地峡 】
シンフェロポリのホテル・テスに到着したのはようやく、22:30で、二日連続の夜おそくの到着であった。しかしねぎらってくれるかのように、ホテルの部屋はひろく、シャワ-は「ドイツ式シャワ-」。だが、またもバスタブの蓋がない。
第6日目 (2010年8月5日、金曜)
今日の日程は、アゾフ海の海峡の街ケルチ往復である。
8:10、出発。driverは、アレキサンダ-氏で変わらず。
「シンフェロ」=集める、集まる。 「ポリ」=街。 シンフェロポリはクリミヤ共和国の首都。半島最大の河、サルギル川がながれる。1700年後半に作られたとのことで、私には、USAの町のように見える。
東へ進む。
森や山に入ったりぬけたり、海辺になると時々、ビ-チになり、海水浴客でにぎわう。 ビ-チ入場料は200グリ-ブナ、シングルル-ム300グリブ-ナ、ツイン・三食付き・プライベ-トビ-付きなら600グリブ-ナ。
【 黒海。真夏。】
10:00,Feodosiya フェオド-シャという街になる。シルクロ-ド交易の町らしい。
海岸、ビ-チ、干潟、丘陵、草原、集落、パイプライン、また草原チェルノ-ゼム、……。
11:15,ケルチに入る。ロ-カル・ガイドのARAさん(女性)が乗る。
ケルチ(ウクライナ語ではケ-ルチュ)とは喉の意味。
11:30,ケルチを見下ろす高台に着く。山側に、古代ギリシャの都市遺跡(ancient city)パンチカパイオンがある。遺跡に少し足を踏み入れる。天気晴朗で空気は澄み渡り、一方で海あおく、別世界のようだ。真夏にもかかわらず湿気を感ぜず、地中海性気候で快適である。
【 ケルチ高台より黒海 】
【 ミトリダテス山より見下ろす。】
【 パンチカパイオン 古代ギリシャ遺跡 (美穂子取締・撮影】
以下、ARAさんのlectureより。
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・ケルチ、 BC5世紀、ギリシア人により創設。アクロポリスもあった。ギリシア名パンチカペイ(魚の道)。 パンテイカパイオン港には30隻入港できた。
・ミトリダテス王は背後のミトリダテス連山にちなむ。小国ポント、ここにあり。王が大国に成長させる。
息子にうぎられ、山頂で殺されトルコに眠る。。
・エルミタ-ジュにある金は、ケルチのもの。
・ウクライナ最古のキリスト教会がある。(ヨハネ教会?)
・この町の開港、1820年。byアレキサンドル1世。 漁港で塩湖だった。
・中央広場(レ-ニン像のあるレ-ニン広場)は1830年代。オベリスク(戦勝記念塔)
・1920~、缶詰工場。製鉄、造船、18万2千トンのス-パ-タンカ-。
・WWⅡ、ドイツ軍により破壊。
・ケルチの支配民族 古くはボスフォ-ル
7~8C. ハザ-ル人 (向こう川、の意味)
10C、コ-ルチェ(ロシア軍下?)
13C、シルクロ-ド、ジェノヴァ共和国、チエルキョ-(?)
1485~ オスマントルコ
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また他の書籍より以下、抜粋、補強。。
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・BC17~BC15世紀、人類の居住。
・BC.480年 ボスポロス王国の首都。 この頃、スキタイ人、サルマタイ人。
・AD.1世紀(?)、東ゴ-ト王国侵入。
・375年、フン族侵入でパンチカパイオン破壊。
・6世紀、東ロ-マ帝国領土となる。
・576年、突厥(?)の包攻撃に耐える。
・7世紀、テユルク系ハザ-ル人の支配。 ・717年、洗礼者ヨハネ教会。
・10世紀、スラブ人が移住してくる。
・13世紀、モンゴル帝国(バトウ)の侵略。
・1318年、ジェノヴァ共和国の植民地となる。
・1475年、オスマントルコ帝国領となる。 またザポロ-ジェ・コサックのの襲来。
・1706年、オスマントルコがロシアにそなえ、イエニカレ要塞(Eni-kale)建設。1771年露土戦争(ロシアのクリミヤ侵略)により、1777年ロシアに譲渡。
・1821年~ ケルチ、貿易港、漁港として発展。
・1846年~、クリミヤに鉄鉱石埋蔵判明により鉄工業の開始。
・1855年、クリミヤ戦争。イギリス軍による蹂躙。
・
・1941、11月 ナチス軍侵略、12月ソ連海軍上陸して奪還。
・1942、ナチス再占拠。1943,10月ソ連海軍再上陸開始~1944、4/11、ケルチ解放。(郊外のアジムシュカイの鉱山、カタコンベ群がゲリラの拠点、難民の隠れ家となった。)
・2007年11月、暴風雨、海峡に船が難破し海峡をふさぐ。油・硫黄が流出、生態系的災害。
・現在のケルチの工業は、冶金と造船。
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さて、町の東5kmくらいのアゾフ海の海峡へ行く。
海峡に望んでイエニカレ要塞(Eni-kale)という古城がある。オスマントルコが築いた。(その後、この海峡に大橋がかけられたと聞く。)
アゾフ海の奥は、ドネツ炭田やロストフがあるはず、また、大河ドン河がそそいでいるはずだ。
アゾフ海、長さ340km、幅135km、面積3.8万キロ㎡。深度平均9~13m。冬は凍結。夏水温25~30°c。
海流は反時計回り。
【 イエニカレ要塞よりアゾフ海を覗く。】
以下も、ARAさんのlecture。
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・イエニカレ要塞、オスマントルコにより、1703~04年に築かれる。
・広さ8ha。四角形。大砲60門。 1000人収容。
・門は三つ、(東)ケルチ門、(西)アラバッキ門、(北)アゾフ門。南は海である。
・軍艦12隻停泊可。
・水について。 井戸はあったが近くの村の泉から水を引いた。パイプはセラミック製。北の壁をとうし、
南門近くまでひく。 ためるタンクは大理石の棺を使用。
・歴史について。
1771、露土戦争では戦場にならず。
1774、条約でロシア領となる。(ケルチも) ロシア領になった最古の町。
1853~56、クリミヤ戦争、一度だけ戦場になった。1855,ロシア軍が自爆させ、トルコ占領。
1862、パリ条約で、再ロシア領となる。
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イエニカレ要塞は歴史におもいを馳せられ、立ち去り難い場所であったが、『Lonely Planet』に次の記述がある。
It looks like great in photes, with its four pointed capsule-like turrets.
But it's slightly more nuassuming in real life.
( assuming =慎み深い(modest) )
旅人が目にする風景と現実の差、のことだ。
13:30~14:50,市内中心部レ-ニン広場近くにもどり昼食。「ケルチ・レストラン」。
その後、散策。「BANZAI」という名の日本レストランの看板のまえで、バンザ-イして写真をとっていたらいきなり背後から現地の男がバンザ-イして加わった。開放的なところもあり、ウクライナ(ロシア圏?)とは思えなかった。もしかしてかれはUSA?
再度、ARAさんのlectureより。
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・ケルチの鉄鉱石の層は地下6~15mにある。鉄含有量は少ない、30~40%。
・1934,選鉱工場ができた~2009年(昨年!)まで。
・ケルチ半島、石油、天然ガスが出る。石灰岩あり。石灰岩建物は少ない。
・ミサイル基地あり。 かって外国人は立ち入り禁止。
・レ-ニン像から上の階段について。1830~40、工事。
・頭刎ねられた( )教会。1970~80年修復。かって、モスク。ロシアになってからロシア正教会。ただし中央教会ではなかった。←( )? ビザンチン様式?( )。
・クリミヤに地震、多少あり。BC3C.の記録がある。 1927年、大地震。
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16:15、ケルチを去る。
16:20、ARAさん、下車してわかれる。 彼女の早い日本語だったが、わかりやすかった。
17:30、朝、往路で通過したフェドロシア通過。
17:50,ロ-ドサイドにサ-ビスエリアなく、露店トイレ休憩。
P28号線直進。
【 イスラムのモスクにも見えるが、何だったか? 】
19:20、今朝出発したシンフェロポリ、通過。ヤルタへ進路。
19:30、GSで休憩。そこはアングロステイ峠(752m)付近。シンフェロポリ~ヤルタ間(102㎞)は、トロリ-バスが走っている。ここで、明日以降行くセバストポリの地図があったので買っておく(7.10グリブ-ナ)。ビ-ル5.99×2本。
M18号線となる。
20:30~40、アンガロス。
【 道路サイン 】
20:50、アル-シタ(ALUSHTA)通過。
20:59~22:25,ようやく夕食。タタ-ル料理のレストラン。場所、不明。(もうヤ-ルタ近い)
ビ-ル16+ワイン28.
【 タタ-ル料理 (美穂子さん撮影)】
22:50、ホテル・ヤ-ルタ到着。 社会主義的ホテルで部屋へやもシャワ-も並み以下だった。(日本のビジネスホテルの多くも部屋狭く居住性は最悪なのでこちらの悪口は言えない。)Lonely
Planetもここのホテルはよく書いていない。市街の東1.5km。客室は1248室。ちなみにヤ-ルタ最高級はホテル・オレアンダ-(Oreanda)。
深夜25:30、就寝。
第7日目 (2010年8月6日、土曜)
65年前、広島に原爆が落とされた日である。今日のメインはヤルタ会談の場所。ヤルタ滞在である。
6:10、起床。
【 ヤ-ルタ湾 】
ホテルから岩窟をとうって黒海のビ-チへ行き、泳ぐ。砂浜というより丸い石がゴロゴロしていた。
朝食はベストワ-ルド恒例の、日本から持参のお釜でたいた米食ごはんであった!
ヤ-ルタは「陸」の意味。1154,記録に登場、「ジャリ-ト-」。
10:05,出発。現地ガイドにヴァレンチ-ナさんがつく。ホテルは中心地より東の山中にあるから、中心地の北東からヤルタ谷、マッサンドラ、経由で、中心地へいおりて行く。
【 ヤ-ルタは避暑地である。 】
キエフ通り(下りの一方通行)で突き当りのヤルタ市役所で下車した。
棕櫚、アカシア、月桂樹、マグノリア、-----。
10:40~11:13,ヤルタ港、レ-ニン広場。(ここにもレ-ニン像がある。)
【 レ-ニン広場。 リゾ-トマンション開発も旺盛である。】
桟橋にクル-ズ船が停泊しているも、大型港湾とは感じなかったが、観察不足だったか? アルカリ電池を買う。( ) 服部さんが恒例の釣り糸を垂れる。
背後に高い山脈が走る。険しい白い肌むき出しの絶壁も多い。クリミヤ松の森林がおおう。
【 クリミヤ山脈の懸崖 】
11:50~14:00,ヤ-ルタ南西8kmの「つばめの巣」(Swallow's Nest)なる絶景ポイントに行く。アイ・トド-ルなる岬の高い先端に、1912年、ドイツの豪商が別荘を建て、現在はレストラン「エレ-ナ」である。眼下は入江、ビ-チである。海面まで100mもあるだろうか。 1927年の地震でこのあたりの岩が割れたとのこと。地震はすくないが、1927年のは大きかった。
【 燕の巣 】
14:20~15:35,ヤ-ルタ南西8kmのアル⁻プカ宮殿(Alupka)。 1945年ヤルタ会談でウィンストン・チャ-チルが滞在した宮殿。宮殿南側の階段にある6頭の眠りライオン像がユ-モラスでチャ-チルがスタ-リンに所望したがスタ-リンは断ったとのこと、それ英国ロシアの駆け引きであったことだろう。そもそもここは1828~1846年、この地域の富豪な、イギリス教育をうけた知事ミハイル・ボロンツオフが建てた宮殿と庭園である。宮殿の山側(クリミヤ山脈アイ・ペトリ山に向いた面)は5世紀のイギリスゴシック調、海側はアラビアアジア調である。宮殿内は豪華で、シャリアピンがうたった部屋、温室、がある。
16:05~17:37,リヴァデイア宮殿。Livadia Palace。
ここのthe white roomで、1945年2月4~11日、wwⅡごの世界体制を決めるヤルタ会談がひらかれた。その円卓が置かれている。ここでナチスドイツの戦後処理、ポ-ランドの国境確定(リヴィウをふくむ東ハ-リチナはソ連領とし、オ-デル・ナイセ以東をポ-ランド領とすること)と、国際連合細部(安保理の拒否権確定、ウクライナとベラル-シの国連加盟)が決められた。
【 当時の円卓がそのままに残っている。 】
そしてむなくそわるいところだった。なぜか? 特にル-ズベルトがスタ-リンに対日参戦を要求。スタ-リンはその対価として南樺太、千島列島を要求。ドイツ降伏後の2~3ケ月後に参戦するのも、ソ連軍を極東に移動させる時間稼ぎであった。しかもチャ-チルをはずし、ル-ズベルトとスタ-リンで合意した。そして、そう為さしめた日本軍国主義の戦争のやり方の戦略のなさにも憤慨せざるをえない。
会談中、ここはル-ズベルトの宿舎であった。チャ-チルはアル-プカに、スタ-リンはユスポフ宮殿を宿舎とした。(黒川著p.229)
リヴァデイア宮殿じたいは、1911年ロマノフ家の大別荘としてたてられ、ニコライ2世一家も滞在している。かれらはモスクワからセバストポリまでは列車で来、そこからは海上、ヨットでリヴァデイアまできた。グジュリ(ロマノフ朝の陶器)、ヘレンド、アルガルテン(いずれもハプスブルグの陶器)の陳列もある。
18:00,ホテル・インツ-リストにもどり、2泊目。夕食はバイキング。
道中、クリミヤ山脈の植生の説明あり。j海抜0~300mまでは自生のネズのの藪、900mを超えるとブナ。外来植物もあり、プラタナス(19c~)、糸杉、マツ、アイランド(1813年?~。においわるい。トネリコに似ている。)
第8日目 (2010年8月7日、土曜)
今日は、クリミヤ半島西端のセバストポリへ行く。8:15,出発。
マッキンドラ(←ロ-カル・ガイドのマ-ヤさんの発音)通過。マッサンドラ・ワインは甘い。
昨日はリァデイア空電まで行ったが、今日はその先を行く。(ヤ-ルタ・セバスト-ポリ間高速道路は1971年開業) 森林地帯のうえは、むき出しの懸崖のスカイライン(稜線)で、目をみはる。「1970年代、住宅はただで支給された。現在は1㎡ 2,500ドル? 海に近いほど高い。」とガイドさんの説明。
クリミヤ最南端の岬、サルチ岬。トルコ海岸まで240km。
ラスピ-湾、バラクラバ手前のトンネル。
国有林(オオカミはいない、毒蛇もいない)
9:10、(セバストポリへのかっての)検問所アト通過。 左へ分岐すると、オベリスクの立つバラクラ-バの丘である。
【 9:30~9:52,バラクラ-バの谷 】
クリミヤ戦争戦場のひとつである。
いまはぶどう畑。このブドウはシャンパ-ンになる。インケルマン(?辛口)の工場がある。
第4砦(いまオベリスクが立っているところ。第1砦は後方の山 )と、サポン山のあいだが谷になっており、ロシア騎兵隊がまちかまえていた。イギリス軍が南から迎撃に来る。バラクラ-バの谷が戦場となる。ロシアがわは、ロシア軍将校7人と兵150名戦死。イギリス軍は600人中400人戦死。イギリス軍にとって死の谷となった。(この経過は歴史資料館で見るこができる。
クリミヤ戦争でロシアは敗北し、バルカン半島への南下の道はとざされる。以後、東方の中国(清朝)、満州、極東への進出をはかり、やがて日露戦争で敗北に至るも、第二次対戦末期のどさくさで日本北方領土を制圧した。
10:00~11:12,バラクラ-バ湾
この湾は、黒海からセバストポリに向け北向きに食い込む天然の良港(良湾)である。
バラクラ-バとは「魚の巣」の意味でトルコ語。
ここの歴史は古く、2500年前の人類居住跡にさかのぼるとのこと。ギリシア神話ホメロスの「オデッセイ」に、海賊のden( )として記載されているという。
南側の山頂からバラクラ-バ湾をみおろす砦はかってジェノヴァ人によって築かれた三つの砦である。
その後オスマントルコによる征服。
クリミヤ戦争にいたる時代に、周辺の鉄道はイギリスが作り、港湾はフランスが開発したようだが、海軍基地を置いたのはイギリス海軍のようだ。戦争中、フロレンス・ナイチンゲ-ルがつくった野戦病院は、バラクラ-バ村の丘のうえで、二つつくられたようである。
湾の入り口は狭く、中は西へカ-ブし、西側の岩盤の山(タラレス?山)にソヴィエト時代に掘削された長さ500mの、核弾頭搭載の潜水艦秘密基地(修理工場)あとがある。この基地は地図に示されなかった。
1953年にはじまり、最後の潜水艦は1999年。湾内側のドッグ入り口は橋でかくされた。乾式ドッグは深さ8m、幅10m、長さ102m。
【 核搭載潜水艦秘密基地アト 】
岩盤の2階に海軍博物館があり、クリミヤ戦争について学べる。ロシア皇帝アレクサンドル二世や近衛兵の軍服、サ-ベル、砲身そうじ具、ピストル。 イギリス軍将官室の装備、ペチカ、食器、鐘。 アフリカ戦線の経験にふまえたフランス軍の軍服、1812年ごろ発明された当時の缶詰(中味は魚、ブイヨン、豆など。缶詰はクリミヤ戦争でポピュラ-になった。)、、、、などの陳列がある。
11:25,セヴァスト-ポリ市街地にはいる。
さてさて、セバスト-ポリである。
11:47,右手にロシア正教会とおもわれる教会、遠望。(聖ウラジミ-ル教会?)
街を通りぬけ、西岬の突端にある古代ギリシャの都市遺跡・ヘロソネス。XEPCOHEC。
【 11:50~12:50、ヘルソネス遺跡 】
この遺跡は紀元前5世紀である。紀元前3世紀の劇場アト。(女性は劇場感激許されず、と。)
その後、この地セバスト-ポリを、ゴ-ト族、ハザ-ル人、ペチェネ-グ人がとうった。
13世紀モンゴルタタ-ル人が破壊、15世紀トルコ人が完全に破壊。
1783年、ロシア(エカチェリン二世)が占領。1804年ロシア黒海艦隊(Black sea Fleet)基地。
第二次対戦(独ソ線)でナチス軍の( )日の包囲に耐え、1945年5月8日、ナチス幸福の日に解放。
ウクライナ国家成立後もかって外国人はセバストポリに入れず、解禁になったのは1996年?
市街地にもどる。軍人像が立つ。ナヒモフ広場か?
13:07~35,セバストポリ港。南国の、地中海を思わせる解放感がある。クル-ズ船も停泊。垢抜けした街である。造船、修理(外国船も)。学制も多いと。(大学がある?) お固なそうなこの街に開放的なstrip
barの自立かんばんがあり、レストランの壁面に人物像をぶらさげた面白ろ広告を見た。
港を望んで13:40~14:53,昼食。
トロリ-バスが走り、いかにもクリミヤ的! トロリ-バス運賃は75カペイカ。(1カペイカ=1フリブナ=¥ )。路上上部の道路横断架線に小型ネオン管チュ-ブが見える。これは夜間照明されるだろう。
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【 南湾でロシア軍艦を見る。】
ここでロシア軍艦を見るとは、意外であった。 2017年までロシアは軍港を賃借りしていると。ウクライナは天然ガスをロシアに頼っていると。旧式のポンコツ艦だらけにみえたが、新式艦は外洋中とのことだった。いつかロシアが牙を剝かなければいいがとおもわざるを得ない。かって、2006年私はグルジア旅行で、グルジア軍用道路の1本を見たとき、いつかロシアが軍事的南下をすることがあるだろうかと不吉に思ったが、案の定、2008年、ロシアはグルジアに侵攻した。
【 セバストポリ駅 】
鉄道はモスクワへ直行している。1831年、グロンソ-ワ父の要望で鉄道が敷かれたと(?)。
セバストポリには、日本車ダイハツ(横断幕)、トヨタ(野立て看板)の広告も目についた。
バクロ-スキ-教会というのは、どこだったか?
70分程、走り、16:10~17:08,バフチサライに行く。
【 かってのクリミヤ�汗国の首都である。】
クリミヤ汗国とは、15世紀、キプチャク汗国がカザン汗国、アストラハン汗国、クリミヤ汗国に分裂したそのクリミヤ汗国のことである。(1441~1783年、ロシアに併合) チュルク系の遊牧民が多く、イスラム教国であった。
・ハンの宮殿(ハ-ンスキ-・ドヴァリュ-ツ) かっては40ha、現在は4ha。背景の岩山は砂岩。
・モスク 今も礼拝に使用。
・1787年エカチェリン二世が来るに備えて作られた施設の地図。皇帝は2泊した。
・扉数、1503. 紋章。
・夏のあずまや。中央に噴水。かっては100以上の泉。
・祈りの間。ミハラブあり。
・金の泉
・涙の泉
1783年、ロシア(エカチェリン二世)に併合。
1945年、スタ-リンにより全てのタタ-ル人が強制移住される。→ウズベクなどに。【ロシア国家は異民族を強制移住させた所業がいくつかある。2006年コ-カサス旅行したとき、アルメニアのレ-ルモントヴオ村というところで、1812年フィンランドより強制移住させられたロシア民族のひとつマカラン人の存在を知った。】
17:15~18:00,ウスペンスキ-修道院。
バフチサライより車で10分の洞窟内の修道院である。【岩窟修道院は2006年アルmrニアのゲガルド修道院以来である。】 8世紀創立のロシア正教。 3つの修道院のうち、一つは閉鎖。二つ残った内、一つのみ公開。修道僧20名(8月に見倣い僧、10人が来ると。信教の自由はあるのだろう。
【 ウスペンスキ-修道院 】
22:00ころ、ヤ-ルタのホテルに帰着したが、途中見どころがあった。といっても、写真には撮れなかったが、ヤルタまであと50kmくらいのForos村というところの高速道路から、19:15頃、黒海を右下にして、赤い屋根の家(ゴルバチョフの家)をみた。これは1991年8月、ソ連崩壊の引き金となった保守派ク-デタ-未遂で、ゴルバチョフが保守派に拉致されていた家である。( he
was held under house arrest during 1991 counter-Soviet coup attempt in
Moscow. Locals will happily point out his dacha, which has a terracotta
roof. 茶褐色の素焼き陶器の屋根。)
夕食は20:00頃~21:30頃、昨日見学したリバデイア宮殿の正門より入ったレストランでであった。ホテル帰着22:00頃、3泊めである。
第9日目(2010年8月8日)
本日はウクライナを去りロシアのモスクワより日本に帰る。
10:07,ヤルタ・インツ-リスト・ホテル発。シンフェロポリの空港へ向かう。トロリ-バスが並行する。ヤルタ~シンフェロポリ間は1980代に工事、1990年代に走行開始。20分おき。2ドル弱。
アル-シタ通過。デメルジ山、標高1372m。 アンガルスキイ峠、標高752m。道路をまたぐ横断幕の連続、あわせて道路わきの柱のフラッグ広告の連続、1km2kmも続く。
11:50,シムフェロポリ空港着。空港通りの広告景観にも目をみはった。
14:50,take offタイム。ところが中々飛ばない。エアコンもきいて来なくなる中、乗客の1人、イギリスの若い男性が体調崩し熱中症状になった。
16:40,飛ばないことになり、飛行機からおろされる。
19:20,出迎えバスに乗らされ、3~4日前泊まったHOTEL TESSの前を走り抜け、19:45,ホテル・タブレ-へ。ここで夕食後、22:05,ここを発ち、22:25,また空港着。
第10日目(2010年8月9日)
正規便か臨時便かしらないが、2:05,シムフェロポリ空港を離陸した。やく12時間遅れである。
3:35,時差で1時間早くなり、4:35,モスクワ空港着。空港の外、空高く黒煙がただよう。きけば、気温たかいため、黒土の泥炭層に火が付きもえている煙とのこと。
8:00,エアロフロ-トのバスで、近くのNOVOTEL HOTEL へ移され南京状態になる。なぜかと言えば我々にロシア滞在のVIZAはないのである。部屋(#3107)はキングサイズのダブルベッドが2台、1泊2万円位。昨夜はずっと起こされていたも同然で、昼夜の感覚が少しずれてきた。シャワ-をあびたり、食事によばれたり(14:00~15:40)昼寝したりして、ようやく17:50、このホテルを立つ。
18:10,シェレメチェボ空港・タ-ミナルD、着。19:00,搭乗。
20:10,離陸。 ここから成空港まで4730マイル(約7568Km)である。
第11日目(2010年8月10日)
こうして約24時間おくれで成田空港へ帰ることができた。