1990年6月 ベルリン・スイス・パリ 旅行  (記録2023-05-15)

 1989年11月、「ベルリンの壁」が崩壊した。東西冷戦の終末を象徴する出来事だ。
その現場に行って見たい!それが動機で、ベルリン~スイス~フランス・パリをまわるパック旅行に参加した。

1990年6月7日(木)
 12:30,成田空港発。ヴァ-ジンアトランテイック航空901便。 ヴァ-ジン・アトランテイック航空は、去る5月1日より就航したばかりで、バンク-バ-やアンカレッジ経由の北極海コ-スでは無く、シベリア上空経由のノン・ストップのロンドンへの直行便である。ロシア上空を飛ぶなど、考えられないことだ。
 約、12時間15分飛んで、同日16:45,ロンドンのヒ-スロ-ではなく、ガトウイック空港へ着陸。
 ホテルは、LONDON METROPOLLE HOTELである。Edgward Road, London W2 1ju。

2日目 1990年6月8日(金)
 6月といえども、ひんやりした空気の中、朝食前に散歩する。「CENTURY 21」チェ-ンのフ移動産店舗があった。
 8:15,ヒ-スロ-発、Bitish Airway 926便でドイツ、ケルン空港にとぶ。10:35,着。
 ここから同じくBritish Airwayでベルリン郊外のテイ-ゲル空港(西ベルリン)に飛ぶ。12:00発。ベルリンは東ドイツに囲まれているので、緊張して乗った。13:00着。
 チャ-タ-バスで「6月17日通リ」を東へ。ブランデンブルグ門をくぐる。テレビ塔が見える。「ウンタ-・デン・リンデン」通りとなる。森鴎外の名を思い出す。左手に「フンボルト大学」。へ-ゲル、マルクス、アインシュタインなどの出身校。だが、全体に街並みや建物はくすみ、東ドイツ時代がどんな時代であったのかを考えさせられた。
 やがて「博物館の島」へ。左折して奥まったところにある「ペルガモン博物館」Pergamonmuseum、で下車。ペルガモンとは小アジア(トルコ)のエ-ゲ海岸イズミ-ル市(旧名スミルナ)の北東25kmにある古代都市。紀元前3世紀~2世紀(ヘレニズム時代)に栄えた。ドイツ帝国が19世紀に持ち帰った「ゼウスの大祭壇」「ミレトスの市場門」などを見る。予備知識なく突然見たので、整理がつかなかった(その後、認識を深める。) アレキザンダ-広場にも行ったのだろうが、下車はなかったので印象がない。
 ホテは、ウンタ-・デン・リンデン街の一角にあるHOTEL BEROLINA。館内はうすぐらく、食事もさえなかった。ベッドも木枠のベッドで、寝室全体がパッとしない。

3日目。 1990年6月9日(土)
 きょうの日程は、西ドイツ側へもどり、ハイデルベルグからカ-ルスル-エまでである。
 ベルリンから西ベルリンへの帰途、チャ-リ-検問所をくぐる。Check Point Charlieである。バスの中に米兵らしき係が我々のパスポ-トを集めにきた。そして記念に検問所のスタンプを押してかえしてくれた。ジョン・ル・カレのスパイ小説「寒い国から帰ったスパイ」を思い出す。
 バスはブランデンブルグ門の近くでとまる。残っている「ベルリンの壁」を見に行く。かけらをお土産にもちかえる。どうということはない、ただのコンクリ-トのかたまりである。
 近くの帝国議会議事堂Reichstag,、に行って建物の壁をさわる。1933年2月27日深夜の謎の放火事件の場所である。ヒトラ-の陰謀であろう。
 1943年連合軍の空襲による廃墟、「カイザ-・ウイルヘルム記念教会」の前でバスは停車した。
 その先の旧日本大使館のまえを通る。
「シャルロッテンブルグ宮殿が見えます」とガイドが言ったが、あまり興味がわかず。もっぱら第二次大戦がらみのことに関心がむいていた。
 西ベルリン側は東ベルリン側にくらべはるかに、はなやいでいた。 
 テイ-ゲル空港12:00発、フランクフルト・アム・マイン空港着13:10。専用バスで、ライン河沿いに上流の東岸のハイデルベルへ。
 まず「若きハイデルベルヒ」という詞が思い浮かぶが、これは1930年のドイツ映画の名前らしい。確かに舞台はハイデルベルグだが、ゲ-テやシラ-の原作ではない。ハイデルブルグ城、アルテブリュッケへ行く。ライン川対岸中腹の城塞を見上げる。
 宿泊地は、カ-ルスル-エ(Karlsruhe)だった。(RAMADA RENAISSANCE HOTEL)

4日目 1990年6月10日(日)
 カ-ルスル-エ発
 ロ-テンブルグ  中世「帝国自由都市」
        昼食はHOTEL BARENにて。
 ネルトリンゲン
 ヂンケンスフユ-ル
 ミュンヘン ホテル BESTWESTERN  ALTANO

5日目 1990年6月11日(月)
 ミュンヘン発
 ホ-エン シュバンガウ(ノイシュバンシュタイン城)
   昼食はFussen市のHOTEL ALPENBLICKにて。
 リHテンシュタイン
 スイス、ルツエルン
   カペル橋  
    ホテルASTORIA ミ-ト・フォンデユ

6日目 1990年6月12日(火)
 7:15,ルツエルンLuzern発
 9:15,ベルナ-オ-バ-ランドの中心地グリンデルワルドGrindelwald 登山電車発~クライネシャイデックKleine Scheidegg。若き頃憧れた浦松佐美太郎氏の『たった一人の山』の舞台である。標高2061m。クライネシャイデックでは霧で、アイガ-北壁は霧の中で全く見えない。ああ、何たること! ここからアイガ-三山の岩盤奥深く穿たれている登山電車を乗り次ぎ、Eigergletscher駅 2320m, Eigerwand駅2865m,を通過し、10:50頃Eismeer駅3160m。 この先運行中止のためユングフラウヨッホJungfrawjoch駅3454mではなかったと思う。降りるとひんやりした暗闇である。ここはなんと、アイガ-3970mとメンヒ4099mの山塊の中間部奥深くに位置する氷の宮殿である。岸壁に開いたまどから外を見るも、濃霧のため、下に臨めたであろう氷河もなにも、まったく見えない。アメリカの友人にハガキを出し、日本のわが社に国際電話をかけて、ここへきたアリバイをつくるのが関の山だった。ここの最高峰はユングフラウで標高は4158mである。
 12:00,帰途につく。クライネシャイデックへ下りて下車し、昼食12:45~13:45.
 13:45,クライネシャイデック発、
 ラウタ-ブルンネンLauterbrunnenてまえ右窓の岸壁から巨大な落差の滝が落下している。
 ラウタ-ブルンネンよりインタ-ラ-ケンInterlakenまでバス。
 インタ-ラ-ケンで買物(HOTEL VICTORIA JUNGFRAW隣の店、ミミ ブラウス4枚)
  InterlakenはBRIENZER SEEと、THUNERSEEに挟まれている。
 インタ-ラ-ケン発13:50~(ベルン通過)~(15:10,左窓にLa グリ-エル湖)~(17:30,vevey分岐)~(17:47,Lausanne分岐~sortie)~18:25,Geneve
 ジュネ-ヴ  ホテル ム-ヴィンピック ラデイソン

7日目 1990年6月13日(水)
 ホテル発9:00,
 TGVジュネ-ヴ発10:02, TGV922号、7号車-75,76 車内でレクチャ-あり。パリのtaxinのtip について、料金の一割、たとえば3フラン→3サンチ-ムでなく4c。以上は添乗員曰く。ガイド氏は、6フランなら0.5フランだと。
 

 パリ 
  ノ-トルダム・ド・パリ
  凱旋門
  シャンゼリゼ

ホテル インタ-ナショナル ド パリ

8日目 1990年6月14日(木)
 パリ滞在
  ヴェルサイユ宮殿

9日目 1990年6月15日(金)
 パリ発 エア-ヨ-ロッパ41便12:15  ロンドン着(時差あり)12:15着
 ロンドン ヴァ-ジンアトランテイック900便 14:00発 

10日目 1990年6月16日(土) 
 成田着 10:00