今回ベストワールド社の『歴史・地理研修(巡検)』でバスクを訪れた。
バスク地方はヨ-ロッパ大陸の、フランスとスペインにかけてのビスケ-湾沿いにあるにもかかわらず、言語、民族がヨ-ロッパ言語やインド・ア-リア系民族とことなるといわれ、また20世紀、スペイン、フランスからの独立運動がおこなわれ、それは今、どうなっているのか。そして、バスク文化とはどんなものか、それを知りたく参加した。
あわせて、そこでは、こんにち、どのような屋外広告物があるのか、にも興味があった。
期間は、2013年(平成25年)8月2日(金)~10日(土)の約10日。
前半の3日(土)から5日(月)までフレンチバスク、後半の5日(月)~9日(金)までスペインバスクを訪れた。
■8月2日(金)
12:40、成田離陸。AIR FRANCE便。
同日 17:05、パリ・シャルル・ドゴ-ル空港(CDG)着陸。(日本時間、8月3日、0:05)所要11時間35分。
18:41、 国内便に乗り換えて、同空港発。
19:40、ツ-ル-ズ、ブラニャック空港着。(所要1時間)
20:24、バスで空港発。 キャピトル広場にバスは止まり、下車する。市庁舎前である。市庁舎はピンク色に輝く。
【 ツ-ル-ズ市キャピトル広場(市役所)】
ツ-ル-ズでは天然石が産出せずレンガで建物を建築するため、このような色になるとのこと。
広場に面した「CROWN PLAZA(クラウンプラザ)ホテル」着。20:56。このホテルグル-プは現在、世界最大のホテルチェーンである。(本社はイギリス。)昨年トルコの首都・アンカラの、CROWN
PLAZAに泊まったことがある。
ツールーズには夜到着し、翌日早朝には出発である。
しかし、フランス第四の都市にも関わらず宿泊のみではあまりに無粋なので、個人(私と美穂子)で夕食後に、サン・セルナン寺院(Basilique
St-Sernin)→ガロンヌ川(St.ピエール橋)→ジャコバン修道院(Cloitre des Jacobins)を見に出かけた。もちろん入場はできなかったが、それは問題ではなかった。
■8月3日(土)
起床5:00.
昨夜の続きとして、朝食6:00の前に、真暗な中をオーガスタン美術館(Muse Augastines)→サンティエンヌ大聖堂(Cathedral
Saint Etienne)→カピトル(Capitols)広場一周→再度ジャコヴァン修道院に行ってみた。
カピトル広場で青年に声をかけられた。「神戸に行ったことがある。」と言った。
本日の行程は、いよいよフレンチバスクに入る日である。
8:33、参加者12名と添乗員1名の計13名の貸切りバスでホテルを出発し、8:40、A64号線に乗り、フレンチバスクの中心地バイヨンヌへと西へ向かう。ガイドは恰幅の良い白ひげ・パナマ帽子のフランク氏、ドライバ-はブル-ノ氏である。
途中、「奇跡の泉」のある聖地ルルド(Lourdes)に立ち寄り(10:45~12:00)、少女ベルナデット(1844~79)の伝説のある「マサビエルの洞窟」の前に立つ。カトリックの重要な巡礼地のひとつである。
【ルルド、シュペリウ-ル礼拝堂。 マサビエルの洞窟はこの奥にある。】
険しそうな小山の頂上のChateau Fort(フォ-城)に国旗がひるがえる。
川の水は水量おおく、流れは奔流している。ここは、ピレネ-の雪解け水が多いのだ。ルルド、標高400m,人口15,000人。
12:00,ルルドを発つ。
道路は、「バカンス」が始まったようで、東(地中海方面)のリゾートへむかう対向車が多くなる。
12:50、A64の休憩所で昼食。
14:25、アド-ル川(Adore)をわたるとバイヨンヌである。ルルドから約200km。
【 アド-ル川。左側がバイヨンヌ。 】
バイヨンヌは、フレンチ・バスクの首都である。バスク名、BAIONA。人口46,200人。(2012年)
街は、東から流れるアド-ル川と、南から流れてくるニ-ヴ川の合流点に形成され、古くから大西洋貿易や大西洋漁業で栄えた。捕鯨業もあった。
14:33、バスク広場で下車。
フランク氏のガイドで、17世紀に築かれた城壁に登ったり降りたりして南へ行くと、15:34,サントマリ-・カテドラルの真下に出た。見上げると、2本の尖塔が聳える。
本堂を抜け、庭にでると、本堂の壁面をささえるフライング・バットレスの説明がなされた。これはゴシック建築の特徴である。
カテドラルを背にして坂をくだって行くと、やがて右側に、水量たっぷりの黒色のニ-ヴ川沿いに出た。ハ-フ・テインバ-の住宅、が目につく。これは、木造建築で、梁を外側にだし、漆喰のかべでおおう住宅で、バスク地方の建築の特徴である。
【 ハ-フテインバ-形式の木造建物 】
16:21、ニ-ヴ川の橋をわたり(マヨ橋)、「PETIT BAYONNE」(小バイヨンヌ)に少し越境してきた。「GRAND BAYONNE」(大バイヨンヌ)にもどり、正面にカテドラルの尖塔が見えるポ-ル・ヌフ通リを行く。
【 ポ-ル・ヌフ通り 】
チョコレ-ト発祥の地はバイヨンヌだそうで、17世紀に開店したショコラテリ-もこの近所であろう。
またジャンボン(ハム)もバイヨンヌが有名とのこと。
【 ジャンボン(ハム)の店 】
17:30、バイヨンヌ発。
17:45、バイヨンヌの南24km、サンジャンドリュスで高速をおりる。渋滞がある。ビアリッツ、ゲッタリ-という海岸リゾ-トがあり、シ-ズンに入ったためだろう。
18:00、サンジャン・ド・リュスのホテル(「HOTEL HELIANTHAL THALASSO AND SPA])着。モ-リス。・ラヴェル広場近く、海岸沿いである。
夕食に向かうべくガイドの野本氏誘導で、海岸沿い→左折しラ・レピュブリック通り→ガンベッタ通りへ。
【 ガンベッタ通り 】
【 18:55 MAISON ADAMの店頭(マコロンで有名)。ここは支店。】
ガト-・バスク(バスクのお菓子)は、バタ-生地にジャム、クリ-ムを詰めて焼く。
【 19:00 バスク・リネンの店(HELENA)】
【 エスパドリ-ユ(布のサンダル)の店 】
エスパドリュ-ユはバスク特産の平底のサンダルである。、18:55パテスリ-の老舗「Le Suisse」を抜けて、19:45レストラン「TXALUPA」(シャル-ラ)。VIN
ROUGE 1ボトル28ユ-ロ(約3,800.-)。イルレギ-、という力強いバスク・ワインだったか?
帰りは、ルイ14世とマリア・テレ-ズ(スペイン王女)の結婚式場たるEglise St-Jean Baptiste、をガンベッタ通りで見る。ピレネ-条約の証としてのフランス・スペインの結婚でもあった。(翌朝、また見に行く)
■8月4日(日)
朝食前に、海岸の遊歩道を歩く。
南西の対岸の集落はシブ-ルといい、音楽家モ-リス・ラヴェルの生地である。「亡き王女のためのパヴァ-ヌ」、「ボレロ」で知られる。「「亡き王女のためのパヴァ-ヌ」は昨年1月、スペイン紀行のあと、集中的に聴きすぎて、スペインの暗黒の魔力にはまってしまった曲である。そのラヴェルがバスクの人、しかも今みえる対岸の人とは知らなかった。
さて、今日はサンジャンドリュスを起点に、フレンチバスクの村々を訪ねた。
15km走り、10:40~11:25、サ-ルで洞窟(Les Grottes de Sare)に入る。
窟内は光と音響の小型テ-マパ-クであった。鍾乳洞とはちがい、石筍、石柱は無い。
洞窟をでたそとに、ヨ-ロッパ石器時代の巨石遺跡の一種、ドルメンがあり、まじまじと眺めた。初めてみるドルメンなるものである。巨石文化としてはこのほか、メンヒル、スト-ンサ-クル(環状列石)というものがあり、アイルランドのほうで有名。
【 ヨ-ロッパ巨石文化のひとつ、ドルメン。】
この周辺は石器時代の人類の痕跡洞窟が多々ある。スペイン側のアルタミラ洞窟、フランス側のクロマニヨン人、ガスコ-ニュ地方、、、。
9km走り、「フランスの美しい村」に登録されているアイノア(Ainhoa)。
6km走り、特産品とうがらしで有名なエスプリットの部落。
【 あか唐辛子。piment。ピマン。】
16:25~17:55,オルテイロピッツ(Ortillopitz)。 山バスクにおける農家をバシェリ(baserri)といい、その見学である。山バスクとは、海バスクと対比する言葉であるが、山バスクにおいて農家は集合して集落または村を作ることはすくなく、散家である。2階建てあるいは3階建ての多層階で、1階に家畜、2階以上が人が居住する。木造または石造りの切妻作りであるが、赤茶色の柱や梁を外面にさらし、そのあいだは白や淡褐色色の喰やレンガで塞ぐ(ハ-フテインバ-様式)。バシェリの近くに耕作地(栗・トウモロコシ・豆類)があり、その先に牧草地(牛等の放牧)、山岳地(羊を放牧)がひろがる。森は深く、山岳は峻険である。散家であるが、広い範囲で30~40軒で「隣組」を形成し互助単位となっている。(『バスクを知るための50章』(明石書店)より参考)
18:20、ホテルに帰着。海水着に着替え、海外の砂浜にでてビスケ-湾に浸かる。
砂浜からホテルの一階に直結しているタラソテラピ(温海水の入浴)であたたまる。トルコのハマ-ムみたいである。
夕食は各自自由だったので、ホテルのビスケ-湾に面したレストラン L'Atlantique でバケツいっぱいのム-ル貝マリネとム-ル貝チ-ズ(各22ユ-ロ)と赤ワイン半ボトル(13.5ユ-ロ?)を楽しむ。
22:50、部屋に帰着。
【 ム-ル貝をたべたレストランは正面テラス状の所。その右が泊まったホテル。昨日海水浴したのは、浜の弧状のところである。】
■8月5日(月)
朝、時間があったので、ガンベッタ通リのルイ14世の結婚式の教会をまた確認に行った。
【 朝はやいので、ガンベッタ通りもひとけがない。】
今日は山間部にはいり、スペイン・ガルシア州のカトリック巡礼の終点、サンチャゴ・コンポステ-ラへのフランス最後の宿場町たる、サンジャン・ピエ・ド・ポ-へ向かう日である。私の目的地のひとつである。
9:10、ホテル発。
62km走って、サンテイエンヌドバイゴリ-に立ち寄る(10:15 ~12:50)。
ここは特にみどころはない小さな村である。ニ-ヴ川の支流に沿った狭い谷間のゆるい斜面に住居が点在する。緑はきれいだ。多くのバスクの集落と同じく、ふたつのポイントがある。教会とフロントン(ペロタ競技場)である。フロントンは昨日アイノアでも見た。
【 ペロタ競技。壁に打つ。】
山腹の古城へ行った。エカウス城である。11:10~12:50。たっぷり見学。
現在の主人はアメリカ人女性、夫はイギリス人。10年前に購入したときは荒れていたとのこと。城と言っても、邸宅といった感じ。1031年作の室内壁がある。2階ロビ-の手すりは1555年~製。ナポレオン時代は将軍アリスパが住んだ。1930年頃C・チャプリンが滞在し、そのア-ル・デコ調の部屋がある。ススルという家父長がすわる椅子。渡辺三郎という名が語られた。何者か? 庭には、バスクの旗(1910年制定)がひるがえっていた。
【 地下室の中世武器庫 】
13:05、ついにサンジャンピエドポ-に到着。バスク名、 人口1,700人。
下車したところは城塞がとぎれた所の市場で、ジャンボン(生ハム)を買ったが、この「farmers market」を「Browse」することは、フレンチバスク地方のハイライトのひとつであるとして、『LonelyPlanet』がすすめている。(『FRANCE』p.639)
【 サンジャンピエドポ-の市場 】
【 サンジャンピエドポ-の中心通り 】
【 昼はウサギ料理だった。】
午後は、見晴台までバスで行き、15:10、そこで降りて、
「聖ヤコブの門」~「司教の監獄」~と巡礼の道をくだる。両側の家屋の壁面に、サンジャック(ほたて貝)がとりつけられている。
見えてきたのは、聖アンジェラスの鐘だろうか。「アンジェラスの鐘の音」として、司馬遼太郎の『街道を行く・南蛮の道』にくわしい。
アンジェラスの鐘の左手は、ノ-トルダム・デユ・プ・デユ・ポン教会。右手は路地である。
15世紀、日本にキリスト教を伝えた、かの、フランシスコ・ザビエル。そのザビエルの祖父の家は、この路地の正面である。また、ザビエルがバスク人だと公言し、戦前日本に滞在した、ソ-ヴ-ル・カンドウ神父(1925年来日宣教師)の生家は、その手前、左の建物で、いまはブテイックである。両家とも、「ナヴァ-ルの門」の中にあるのだ。これらのことは、『地球の----』にも、『lLonely
Planet』にも書かれていないが、私はその2軒を穴のあくほど見つめたものだ。これらのことは、ここにくるまで知らず、ガイドの野本さんの知識による。
【(左)カンド-神父の生家、(右)ザビエルの父祖の家】
【 振り返ると、「聖アンジェラスの教会」、正しくはノ-トルダム・デユ・プ・デユ・ポン教会 】
今夜は、16:20、メイン通りの市庁舎左の、HOTEL LES PYRENEES、に投宿した。
■8月6日(火)
今日はピレネ-越えで、スペイン・パンプロ-ナまで行く日である。
朝おきて、散歩する。ホテルの前の「ナヴァ-ルの門」をくぐり、昨日のソ-ヴ-ル・カンド-神父の生家を右に見てから、「アンジェラスの鐘」の教会前を右に折れ、ニ-ヴ川にかかる「ノ-トルダムの門」をくぐり、南の「スペイン門」まで行く。サンチャゴ・コンポステラへの巡礼路はここでさらに直進するが、我々はここで右折し昨日の市場をとうり、ホテルへもどった。市庁舎隣の書店で、本2冊買う。
【 ホテルへ戻る手前で右手、ニ-ヴ川。左テ白壁花壇のあたりがカンド-神父の生家?】
8:35,ホテル発。バスは昨日までのフランスのバスからスペインのバスにかわった。ガイドはつかず、ドライバ-はルイス氏である。急な坂道をひたすら登る。霧で雨もしのつく天気でみとうし悪い。
9:13~25、森林が切れ、ピレネ-の峠、イバニェタ峠(Puerto de Ibaneta)につく。標高1007m、気圧900mb。国境は、峠のフランス側の下だったらしい。晴れていれば壮大な景色がみえたはずだが、濃い霧雨で、あの「ロ-ランの石碑」しか見えぬ。
11世紀の『ロ-ランの歌、Canson de Roland』伝説によれば、778年、シャルルマ-ニュは、北上するイスラム軍(一説にバスク部族)にロンセスバリュ-ズ(フランス名・ロンスヴォウ、バスク語Orreaga)でやぶれ、しんがり軍の司令官・ロ-ランはここで戦死した。【この後、イスラム軍はイバネタ峠を突破しフランス深く攻め込む。その進撃がとまったのは732年、ツ-ル・ポアチエであった。】
「ロ-ランの歌」は騎士物語として、中世フランスを牽引していく。
さて、フランスバスクはこの峠で終わる。ここからは、スペインバスクである。
曲がりくねってくだる。森林のあいだから、左手に立派な洋館(ロンセスバリエス修道院、巡礼者のための救護場所だった)があらわれてとうり過ぎる。
さらにくだると人けの無いちょっとした集落になる。ここらが、ブリゲ-テかな?停車するかな?と期待したが、みるみる通過する。「とめてください!」と声がでなかった。バスの後ろ窓から去りゆく道をみつめる。カ-ブしてみえなくなる。野本さんからは解説もない。ガイドが乗っていない悲しさか。参加者の誰からも声があがらない。当然止まるものと期待していた自分はなさけなかった。一生の不覚だ。A・ヘミングウェイの『日はまた昇る』を誰も読んでこなかったらしい。
【 ブルゲ-テのカテドラル 】
【 さらば、ブリゲ-テ。】
10:20、パンプロ-ナ(バスク語・イル-ニャ)市内へはいる。標高456m,人口195,800.
10:38ホテル着。NH IRUNA PARK。
パンプロ-ナはナヴァ-ラ州の州都。かってのナヴァ-ラ王国の首都。ナヴァ-ラ人にとって、スペイン(カステイ-ヤやアラゴン)は敵である。
というのは---。
そもそもパンプロ-ナとは、B.C.75年、古代ロ-マ帝国ポンペイウスにちなんだ名前でポンパエロと言った。バスク語でイル-ニャ。そのご西ゴ-ト族、イスラム教徒、の支配、778年AD、フランスからピレネ-をこえてシャルルマ-ニュの到来、その頃バスクはまだキリスト教に浸透しきっておらず、バスク人がイスラム軍とくんで、シャルルマ-ニュをロンスヴォ-峠(イバネタ峠)で撃退する。「ロ-ランの歌」とはこれを題材にしたフランク側の歌である。
一般民衆がキリスト教化したのは、11,12世紀~からである。たしかに、ガルシア地方にのキリスト教化は5世紀後半~だが、イル-ニャの司教区確立は7世紀~から、バイオ-ナ(バイヨンヌ)の司教区確立は10世紀~からと遅い。
824年、バスク人はふたたびフランク軍を破っている。これを機に、ナファロア王国(ナバッラ王国)がおこり、サンチョ3世(1004~35,在位)のもと、東は現在のフランス、ボルド-方面ガスコ-ニュ地方まで、そして西は、レオン、ブルゴス方面まで統一。バスクはこのとき統一した。しかし、サンチョ3世没後、王国は、ナファロア王国、レオン・カステイ-リャ王国(1037年建国)、アラゴン王国に三分裂。後者の二王国がレコンキスタを牽引し、1512年、ナファロはカステイ-リャの侵攻をうけ独立をうしない、更に 年、ピレネ-条約により、スペイン王国の傘下に入ってしまったからである。
10:52、観光に出る。ガイドはファン氏(英語でJohn)。
パンプロ-ナはサンチョ3世の頃、サンチャゴ・コンポ・ステラへの巡礼路として繁栄した。今日も市域はは拡大している。
【 タコネラ公園。】
公園内にオペラ歌手ガヤ-レ?(18~19c)の銅像。(ちなみにホゼ・カレ-ラスはバッタン【バルセロナ方面】の出身。) 北に見える山は、エリペルドン、800m。
闘牛の牛は去勢牛、oxonとのこと。牛追い祭りで有名なこの都市のまつり、サン・フェルミン祭りの牛追い(enciero)の出発点たる囲い(bullpen)は公園の東側に続く城壁の下にあった。
【 牛追いの出発点、ブルペン。】
毎年、7月6日から14日まで毎朝、ここから牛が走り出し、Encieroを、終着のアリ-ナまで約830m、約8分で走りぬける。1回に6頭ずつ走らせる。8夜は闘牛になる。昨年冬行ったバルセロナでは闘牛が禁止になったというが、こちらでは?聞き忘れた。)
その走り出しの、Encieroの上り坂は、幅4.5m位の、両側は聖者のレリ-フがはめこまれた壁であるため、人も牛も前方にしか逃げ場がない。
【 これが牛追い路。 ENCIERRO. 】
その上り坂がおわる右手に、Iglesia de San Saturnino o San Cernin、サン・サトルニ-ノという教会がある。布教者サトルニ-ノはあばれ牛による引き裂きの刑で殉教した。サン・フェルミン祭りででみんなが首に巻く赤い色のスカ-フは、その血の色に由来する。
【 市庁舎 】
市庁舎前の広場(カステ-ヨ広場)に出た。左手がパンプロ-ナ市庁舎である。
カテドラルにも行く。
【 カテドラル・サンタマリア・ラ・レアル 】
13:00~、エスタフフェッタ通りの「La Granja」で昼食。生ビ-ル(カ-ニャ、Cana)をのむ。
【 昼食のレストラン 】
食事後は、闘牛場(Plaza de Tros)を街路樹のあいだから左前方に垣間見たあと、
【 牛追いのモニュメントの前に立ち、】にたち、
【14:10、カステイ-リョ広場に到着。ここがパンプロ-ナいちの広場である 】。
14:25、パンプロ-ナの東 kmにあるフランシスコ・ザビエルの生地、ハビエル城にむかう。
15:10~16:20、ハビエル城。村の人口、80人。
フランシスコ・ザリエルの生地。12歳までここですごし、そのごパリに出る。パリでイエズス会のイグナテイス・ロヨ-ラと知り合い、イエズス会に入会。アジアに布教、1453年、日本の種子島に到来し、西日本にキリスト教を広める。1552年12月、46歳でインドのゴアにて没した。
17:10、パンプロ-ナのホテルに帰る。
夕飯は各自となったので、カステイ-リョ広場に歩いて行く。広場で小柄な老人に話しかけらた。なんとこの方は、54年間、日本におり、3ケ月前に故国のパンプロ-ナに帰ってきたばかりの方であった。横浜、横須賀、にいたあとアメリカに2年半、その後、海星高校、四日市カトリック教会の司教、横浜栄光学園の校長をつとめ、交通事故にあい友人は死去、そのショックを機に3ケ月前に帰国ばかりとのことであった。日本語をたどたどしげに話され、筆談ではカタカナ文字をお書きになった。スナップ写真を取らせていただいた。この方のたたずまいの中に、フランシスコ・ザビエル、ソ-ヴ-ル・カンドウ神父の再来を見たきがした。
19:40~ 31:30、カフェ・イル-ニャで夕食。ア-ネスト・ヘミングウェイも食事した店である。
13.5ユ-ロの定食と赤ワインを摂る。Entrante、Segundo、Postre、Pan、Aqua・o・VinoIRACHE、で、 precio(値段)は13.5ユ-ロであった。
広場の夜空は薄ブル-のえもいわれぬ美しさであった。サラサ-テ通りを歩いて、ホテルに帰着は22:30であった。バイオリニスト、パブロ・サラサ-テ(1844~1908)はパンプロ-ナ生まれのバスク人である。ジプシ-音楽をとりいれた「チゴイネルワイゼン」。フランス・バスクの海岸ピアリッツでなくなる。
【 サラサ-テ通り 】
■8月7日(水)
今日はプエンテ・ラ・レイナにいったあと、ビスケ-湾岸のサン・セバスチャン往復である。
9:00,ホテル発。
【 9:20、プエンタ・ラ・レイナ(王女の橋)につく。】
標高421m,人口2,620.(バスク名・ガレス?)
ここで、サンチャゴ・デ・コンポステラへ向かう巡礼路は、フランス→ソンポ-ル峠→ハカ→(昨日の)ハビエル、を経てここにくる「アラゴンの道」と合流して、サンチャゴ・デ・コンポステラへのメイン巡礼路となる。その合流場所は見落とす。ここの最初の宿舎が、クルシフィ-ヨ教会(十字架のキリスト像教会)で、門のまえまで行ったが、入らず。開いていなかったのか?
テンプル騎士団によって建てられた。マルタ騎士団がどうした、、、、、という解説がなされたが、聞き落とした。
通りのうえに、長方形の緑色地に白十字のバスク州の州旗(イクリニャ)がたれさがっている。
スペイン・バスク4州をあらわす民族旗・イクリ-ニャ。
ETA(祖国バスクと自由)の旗をバルコニ-のかかげるいえもあった。2011年10月、ETAは国連事務総長K・アナン同席のもと、武装闘争の最終的放棄を宣言している。
こでのもうひとつの見所は、橋である。6脚のア-チ型の中世の橋で、皆、記念写真に忙しい。この橋の名前がプエンタ・ラ・レイナ(王女の橋)である。初老の夫婦の巡礼をかこみ、仲間たちは記念写真を撮っていた。
【橋をわたって、ふりかえる。】
10:50、プエンタ・ラ・レイナを立つ。
11:15,パンプロ-ナのホテルに一旦たちより、11:25、すぐサンセバスチャンに発つ。
12:30~12:15,高速道路のautogrillで昼食。雨になってきた。山岳地帯である。
【13:15、サン・セバスチャン着。】
雨の中、ホテルCODINA、の前につき、ガイドさんが来るのをまつ。コンチャ湾、バスク大学の周りをバスは時間つぶしにまわる。
【 バスク大学? 】
サンセバスチャンは雨が多く、日照すくないとのこと。しかしスペイン全土でぶどう畑が30%減のところ、こちらでは50%増である。日照すくないにもかかわらず!!
13:45,彼女が現れる。Ms.Anna。ほそ面の気品のある印象。
すこし動いて、バスをおり、左にコンチャ湾をのぞむ海岸沿いの小山にのぼる。
【 コンチャ湾 】
王室の庭園(Royal Garden)
オプス・デイの建物。えっ!!『ダヴィンチ・コ-ド』にでてくるあの「オプス・デイ」!!「そうです。」とのこと。
サンセバスチャン音楽大学の校舎(王室の宮殿アト)。
今度はコンチャ湾の砂浜に降り、海岸線を左にゆく。岩礁に作られた造形、「風の櫛」(1977)が現れる。Eduardo Chillida(エドアルド・チジ-ダ、1924~2002)。日本にも彼の作品がひとつだけあると。(どこにか?)
【 風の櫛 】
15:00,バスに乗る。三ツ星レストラン「Aruzak」の前を、減速して眺める。
ウルメ川をわたり新市街のほうに行くが、またこちらにもどり、15:40、市庁舎前で下車。
【 市役所前。】
雨、止まず。マヨ-ル通りを北に、正面のサンタマリア教会目指してすすむ。矢で射られて苦悶するサン・セバスチャンの彫像がファサ-ド上部に置かれている。
【 マヨ-ル通り、】
セバスチャンはロ-マ帝国の将軍だった。改宗し、矢で射られて殉教する。(石打ちの刑で殉教したのは、聖ステファン。) マヨ-ル通りをふりかえると、ゴシックの尖塔がそびえている。
教会突き当りを右に行く。Calle del 31 de Agosto(8月31日通り)。8月31日の言われは、1813年、ナポレオン軍とイギリス軍の攻防のなか、イギリス軍に街が焼かれた日にちなむ。
ETAの旗をバルコニ-にかかげた部屋があった。この旗をみるのは、今朝のプエンタ・ラ・レイナに続き2度めである。
Konstituzio Plazaで「風の櫛」のマグカップを買う。
KONSTITUZIO PLAZAで「風の櫛」のマグカップを買う。
バル(Bar)にはいる。
【 入ったバル 服部先生・撮影 】
マンタナ(りんご酒)、梨の酒、等々ある中で、チャコリ(TXAKOLI)という白ワインを所望。発泡し酸味がある。海岸地方でつくられるというから、地場のワインである。アルコ-ル度12度位。強くない。
【 これがTXAKOLIのそそぎ方 】
エスカンシア-ル? option + pinxios(ピンチョス)で50ユ-ロ。高いが、こういうバルがいっぱいあってうらやましい。仲間とはしご酒・はしご食べをする風習。また、ソシエダ・デ・ガストロノミカ(美食クラブ)。アラレルナウという文化(女子抜きで、男だけで料理を作り、食べるという文化)。しかし女性も1920年代から参加できたとか。しかしもともとバスクでは一子相続で、じょせいも相続でき、女性の社会的位置は低くない。
「サンセバスチャンの星は空にはない。それは地上にあるのだ」とサンセバスチャン市長が言ったそうだ。
【La Kaxkera(ラ・カスケ-ラ)という干し鱈の専門店の前をとうる。】
バスにもどる。雨がすこしあがり、コンチャ湾の右の山(ウルグル山)のキリスト像(サンセバスチャンのコパカバ-ナといわれる)を見上げる。
コンチャ湾のモノクロの水と、砂浜の茶色の砂、ホテルのファサ-ドの黄土色、が対象的である。
サンセバスチャン、人口183,300人、標高ゼロ。バスク名はDonostia。町は、1181年、カステイ-リヤ王国の羊毛の輸出港として建設されたことに始まる。
17:15、サンセバスチャンを発つ。
パンプロ-ナのホテルに到着したのは、18:20。夕食は、近くのメルカ-ドに行き、パン、チ-ズ、ハム、野菜サラダ、ワイン等を買い、部屋でたべる。
■8月8日(木)
今日はゲルニカ経由でビルバオに行く。
8:30,ホテル発。
雨、オリア川の橋。 9:40、休憩。アイスクリ-ム(magnum)2.3ユ-ロ。Zalderトンネル。
10:40,ゲルニカ市内にはいり、10:45,公園前でバス、停まる。
ゲルニカ(Guernika)、人口15,000。古来、バスク自治州のこころのふるさと。そして1937年4月26日、ナチスドイツによる無防備都市ゲルニカの空襲。
公園のような中に八本脚のあずま屋があり、その中に枯れたようなカシの木が立つ。これが「ゲルニカの木」(樹齢約300年)で、古来、バスク地方の支配者はこの木の下にきて、バスクの独立性の宣誓をおこなった。
この隣に小さな、とはいっても格調を感じさせる議事堂が立つ。
11:30、ガイドのMs.エレ-ヌが現れる。
【 11:45、有名なピカソの『ゲルニカ』の絵のある街かどへ来た。】
Calle Allende Salazarという街路で、タテ3m☓ヨコ5mくらいの磁器タイルで、専用の石垣に枠をつけて垂直に建てられている。なぜゲルニカは、軍事基地でもないのに空襲されたのか。
11:55、そこから南へ2ブロック行き、バスク平和博物館(Museo de la Paz de Gernika)である。
1937年の空襲の残骸物、当日の展示がある。ガイドは説明した。
What is Peace? 答え→1. absence of war.
2. inner peace.
3. to have to forgive enemy.
傾聴すべき説明だった。『The Bombing of Gernika 』5.5ユ-ロを買う。
実はゲルニカに先立つこと、ドランゴという小都市が無差別空爆されているのである。
13:00~45,さっきの議事堂へまた入る。
今度はガイド付きである。議場の天井いっぱいに「カシの木」のステンドグラスがはめ込まれている。
昼食はバルの路上のテラスでだった。Ms.エレ-ヌに、アグアルデイエンテ(蒸留酒)はどんなものがあるかと尋ねると、私の手をひいてバルの主人の前に連れてった。そのひとつ、パチャランPatxaran。やはり透明酒でぐっと腹にしみた。しかも彼女のおごりであった。おかねをうけとらなかった。彼女が日本へきたら、お返しをせずばなるまい。その後調べたところ、パチャランは、スモモの実をアニス酒に浸けてつくるアルコ-ル度25~30°の蒸留酒のことのようだ。ナファロ(ナバッラ)で95%生産される。(『現代バスクを知るための50章』(明石書店)P.282)
ゲルニカを発つ。
15:00、ビルバオの街にはいる。人口354,200人。
中、高の教科書で製鉄の工業都市と習っていた。その面影は、あった。
15:10~15:30,ビスカヤ橋を見学。】
【 工業地帯も残る。】
16:00.ヌエバ広場で下車。
16:15~ バスク博物館(EUSKAL MUSEOA)。
大型のはりぼて人形がいくつか置いてあるが、これは祭り用か? 4階にバスク地方の立体地形図(ジオラマ)があり、興味深く見た。
17:10、バスに乗り、移動。
【 17:25~19:00、グッゲンハイム美術館。】
かつてアメリカ・ニュ-ヨ-ク市のグッゲンハイム美術館を見学した(1993年7月)ことがある。こちらはその分館で、1997年10月、それまで失業とバスク独立運動のテロで荒廃していたビルバオ市の再生のエ-ス級施設としてオ-プンした。展示物は抽象物が多い。ニュ-ヨ-クの場合は、上層階から螺旋状のスロ-プをくだっていく動線沿いに展示があったが、こちらビルバオにはそのしかけはない。建物外側は奇抜な曲線に沿って、全面、チタン板で覆われる。建物そのものが傑出したデザイン、といわれる。
グッゲンハイム・ビルバオはビルバオ都市再生の中心物としての評価が高い。しかし、都市計画とグッゲンハイム計画はもともと別々に企画されたもので、一体ですすめられたのではないともきいた。いくつかの評価点と批判点がある。
マグカップとTシャツ、闘牛のぬいぐるみを持って売店の列にならぶが、これが長蛇の列で、出発時間がせまっていた。Ms.エレ-ヌが機転をきかして、僕を列から引っ張り出し、2階の売店へつれていく。こちらの売店はガラガラにすいていた。
19:05、ホテル着(ウサ・ハルデイネス・デ・アルビア)
食事は外出し、CAFE IRVOIA、で摂る。明日朝は早いので、せわしない夕食であった。
■8月9日(金)
日本に帰る日である。
4:00,起床。食事して5:30、ホテル発。 空港で、闘牛のぬいぐるみ1ケと、闘牛マ-クのキャップ6ケを買う。
7:20、ビルバオ空港離陸。エ-ル・フランス便、機体はロンバルデイア。
パリ、シャルル・ド・ゴ-ル着陸8:35。
ラングドック産の赤ワイン2本、Limoux産赤ワイン1本、買う。バスクのワインではなく、出発地のツ-ル-ズに近い地方のワインを買ったことになるが、心はあまりバスクに残らず、むしろツ-ル-ズ方面に残っていることの反映であろう。【事実、翌2014年10月、ツ-ル-ズを起点としてラングドック地方をレンタカ-で2週間かけて旅行することになった。】
14:00,シャルル・ド・ゴ-ル離陸。エ-ル・フランス便。
■8月10日(土)
7:55,成田着陸。帰国。
■屋外広告物について
■パリ・シャルルドゴ-ル空港
【 JC Decaux社 】
■ツ-ル-ズ
【 ブラニャック空港 】
【 キャピトル広場、バナ-。 】
【 キャピトル広場、STREET FURNITURE 】
■バイヨンヌ
【 バス・シェルタ- 】
■サン・ジャン・ド・リュス
【 夜間にきて見たいファサ-ド 】
【 バスクの家 入り口 ポ-ルサイン 】
【 ガンベッタ通リのSTREET FURNITURE 】
【 道路脇サイン。】
■サン・テイチェンヌ・ド・バイゴリ-
■ここからスペイン・バスク。
パンプロ-ナ
【 バナ- 】
【 バナ- 】
【 野立て看板 群 】
【 夜間、STREET FURITURE 】
■サン・セバスチャン
【 バスシェルタ- 】
【 ラッピングバス 】
【 バナ-】
■ビルバオ
【 テレフォンキヨスク 】
【 CEMUSA社の媒体 】
CEMUSA社は、バルセロ-ナに本社をおくグル-プの屋外広告、特にバスシェルタ-に強い広告会社であった。2015年、フランスの世界最大の屋外広告会社JCdecaux社に売られた。
JCdecaux 社は、本社をパリ近郊のヌイイ・シュル・セ-ヌにおく、多国籍企業である。(日本ではMCドコ-社) 産業分類は、アウト・オブ・ホ-ム・アドヴァタイジングである。バス停広告、ビル・ボ-ド、公共自転車レンタルシステム、ストリ-ト・ファ-ニチャ-、空港広告に強い。その特色は、その利益を公共財に投入していることである。1964年、ジャン・クロ-ド・ドコ-によりリヨン市で創立。現在も、株の約70%を創業家が持つ。
【 ゲッゲンハイム・ビルバオの造形物 】
この項、終わり。