2016年ウズベキスタン


 2016(平成28)年8月2日より13日まで、中央アジアのウズベキスタン共和国に、屋外広告物視察を行なった。もちろん、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァなど、古代からの歴史都市をもち、中央アジアの中央に位置する地政学的に枢要な国であるから、その歴史的・地政学的見聞の獲得もも目的であった。旅行手配は、㈱セブンスタークラブ社に依頼し、現地日本語ガイド(ウズベキスタン人)をつける個人旅行とした。

             
 8月2日(火成田 → タシケント

 9:53、成田空港第一タ-ミナルより大韓航空706便にて出発し、仁川乗り換えでウズベキスタン共和国首都タシケント空港に到着したのは、同日18:30。日本との時差は4時間である。途中、天山(テンシャン)山脈を越えた。機上より見下ろす天山山脈は雪におおわれ、険しく、荘厳な山脈であった。

               【天山山脈を見下ろす】

                     【タシケント空港】

                                                   タシケント空港では、韓国からのりこんできたウズベキスタン人男性たちが大量の手荷物をおろし、ごった返す中、Mr.ディックおよびMr.ザパ-ルが我々を出迎えた。税関でデクララ-ツイア(税関申告書)を出す長蛇の列にうんざりしかけたころ、かれらは職員に心付けを渡したとおもえる。彼らは専用ゲ-トに我々を導き、スルッとロビ-に出た。そこに現地日本語ガイドのMr.アリと専用車のドライバ-のMr.ジュラが現れた。MR.ARI(アリさん)には、12日後の出国まで、一貫して世話になった。
 空港を出ると、すでに薄暮の近代的な通りを通る。道路中央分離帯にユニポ-ルの自立広告物があらわれ、広場の脇に、H3m×W10mくらいの自立看板があらわれた。景観はやはり異国である。

 

         【夕暮れのタシケントの道路と屋外広告物  現地時間8月2日 PM 7:42 】


 タシュケントはすでに紀元ゼロ年ころにはオアシス都市として成立しており、「チャチ」とよばれたそうである。現在のように「タシュケント」とよばれるのは、11世紀頃からである。トルコ語で「石の町」。長い歴史があるが、サマルカンドほど遺跡はない。
 ホテル「SHEDLICK PALACE」 606号室に投宿する。アリ氏が早速、100USドルを両替してくれる。   1USドルが3,030 スム(SUM)なので、100USドルは303,000スムである。100スム札で、なんと3030枚で札たばである。100スム以下は流通していなく、デノミネ-ションしたほうがよいのではなだろうか。小銭(コイン)はこのあとも見なかった。ともかくビ-ル小瓶1本が7,000スム、ミネラル・ウオ-タ-0.5リッタ-は、2,000スム。この小瓶ビ-ルはSarbast(サルバスト)というブランドで、ここタシュケント産とのこと。ホテルで買うから若干高いと思う。スムを30で割ると大体日本円になることが、のちのちわかってきた。

                【ホテル6階から見たタシケント夜景】


8月3日(水)  タシケント → アラル海(ムイナク) → ヌクス

 午前5:15、ホテル発、レギストラ-ツイアという宿泊証明書を忘れずにうけとる。社会主義国時代の名残りである。空港に向かう。きょうはウズベキスタン共和国の西北端、カラカルパクスタンに向かう。
 タシュケント空港は市街地の南、6kmの所にある国際線用のタ-ミナル(2)と、さらに南へ3kmの所にある国内線用のタ-ミナル(3)に分かれている。今日は国内移動なので、タ-ミナル3に向かった。向かう車中、アリ氏による日本語の説明に耳を傾ける。
 (1) 1924年、ソ連がウズベキスタンを作る。
 (2) 1991年8月31日、ソ連崩壊にともないソ連より独立。初代元首は、イスラム・カリモフ大統領。独立記念日は9月1日。この旅行後の9月2日、カリモフ大統領は逝去した。
 (3) 現在、ウズベキスタンの人口約3000万人。構成はウズベク人72~75%、タジク人5%、ロシア人4~5%。アリ氏の父はタジク人であるが、アリ氏自身の国籍はウズベキスタンであると自己紹介した。タジク人はイラン・ア-リア人系である。
 (4) ウズベキスタンの面積は44.7万㎢。うち75%が砂漠(砂漠だけで日本の面積の1.2倍)。12州と1自治共和国から成る。その1自治共和国がこれから行くカラカルパクスタン(主都Nukus)である。
 (5) 大学は65校ある。そのうち30校がタシュケントにある。うち、タシュケントの国立大学は1/6位。残り20数校の私立大学はイギリス資本、マレ-シア資本が多い。その「イギリス資本の大学」と聞くと、私はモロッコのモワイエン・アトラス山中の、イフレインの町にある「Al-Akhawayn University」のことを思い出す。

 7:17、カラカルパクスタンの首府ヌクスへ向け、飛び立つ。
 機体はイリュ-シン製である(IL-114-100)。アリ氏曰く、「第二次大戦中、イリュ-シンの工場がタシュケントに疎開して、2000機を生産した。現在その工場は修理専門となり、新規機体は生産していない。国は今や、アメリカ製のボ-イングを買っています。」とのこと。大戦中、ナチス・ヒトラ-の侵略に対し、ソ連は戦力を大きく後方のヒンタ-・ランド(後背地)にひいた。当時ソ連邦であったウズベキスタンもその一部(後背地)であったことがよくわかる話だ。
 飛行機は、赤茶色のキジルクム砂漠の上空を飛んだ。

   【キジル(赤い)クム(砂漠)を見下ろす】


 9:25、Nukus空港に着陸。(カラカルパクスタン語でNo’kis)気温24℃。さわやかであるが、日差しは強い。ヌクスはカラカルパクスタン自治共和国の首都で人口27万人。空港の外にこれから、ずっと我々が乗るセダンが出迎えていた。ドライバ-は、Mr.アヴノ-ル。彼はこのあと、8月10日朝、ブハラ駅で別れるまで我々をあちらこちらに運んでくれた。
 10:15、まず、かっては世界第四位の広さを誇ったアラル海(その旧南岸の旧港ムイナク)へ向けて、車、スタ-ト。幹線道路を北に向かう。アムダリヤ川の大橋を東から西に渡る。アムダリヤを初めて目にする。昔、アム河と学んだ。ダリアとは河の意味だから同じだ。

                 【アム・ダリヤ大橋】

          【アム・ダリヤ大橋から見るアム・ダリア】
 
 すでに水量がすくない。 
 ここに流れ下るまでのあいだに、すでに大量の水が綿花栽培のための灌漑に引かれてしまっている。

橋をすぎると、時々道路に穴ボコもあらわれ、ハンドルは右へ左へあわただしい。町並みは、その道行く人々とともに、かってどこかで見たなつかしさがある。これまで訪れたイスラムの国々や地域と同様、ここも厳しい灼熱の乾燥の自然条件下にあるが、人々や町並みには穏やかで、安堵できるものがある。

                【 E40号線の道路脇 】  

 マルシュル-トカ(小型の乗り合いバス)が走っている。こちらでは、ダマスと呼ぶ。日本製のイスズの小型バスも走る。これは、2006年、小泉首相がウズベキスタン訪問時に、イスズの工場建設が決定して以来ウズベキスタンで生産されているとのことだ。

アリ氏のガイドに耳を傾け

 ① ウズベキスタンの天然ガス(プロパン)生産量は世界11位。ロシア、中国に輸出している。
 ② 金の生産80トン。輸出量は世界3位。
 ③ 綿花の生産量400万トン、世界5位。輸出量は世界2位。(この綿花の生産がアラル海の消滅を来たした)
 ④ 小麦生産550万トン。ここから400万トンが国内消費され、残り150万トンは輸出される。
 ⑤ 発電は水力発電は少なく、天然ガスを原料とする火力発電が多い。                  聞き終わっての感想としては、ウズベキスタン共和国という国は自給自足できている国では無いだろうかというきがする。これは地政学上の、大きなポイントだと思う。
 イスラム教徒の共同墓地が左にみえた。イスラム教徒の共同墓地を見るのは、2008年、アラブ首長国連邦のアルアインで見て以来である。
 道路際にピンク色のタマリスクがあらわれた。Sven Hedin(19~20世紀の中央アジア探検家、スウエ-デン人)の探検紀行を読んでいた時、盛んに記述されていたので、覚えた植物だが、見るのは初めてである。灌木である。中国語では紅柳と書く。通常は2~3mの高さだが、根は地中深く伸びてもっと大きな木になることもあるという。

               【タマリスク】                                                                            
 ヌクスから100km位走った頃、Qong’lrotという所で本線から右にそれ(R173号線)、ガタガタ道になる。この先、ムイナクまではまだ約80kmある。本線(E40号線)をあのまま進むとカザフスタンに達する。
 左手遠く白い台地のような地形が見えた。ウスチュルト台地というのだそうである。旅行後、ネットで調べると、ちがう天体にも似た奇形の地形のようである。
 やがて、ムイナクに入ることを示す市町村境界識(←これは私の表現)が右にあらわれる。建物、民家、ガソリン・スタンド(正しくは天然ガススタンド)もあらわれるが、しかし、港を感じさせる海風のそよとした風もない。埃っぽい灼熱の大地に置かれた荒れ地といったである。                      12:55、レストランの前に到着。トイレは屋外に独立してあり、イスラム式である。乾燥しきっているので、トイレの悪臭は後退している。ビ-ルは、10,000スム。主食はピ-マンの肉炒めス-プ(ガルプツイ-)であった。         
 14:05、かってのアラル海の港湾、「船の墓場」に着く。

              【アラル海   船の墓場】

           

            【アラル海 縮小の経過① 1960年、1973年】

            【アラル海 縮小の経過② 1987年、1999年】

            【アラル海 縮小の経過③ 2006年、2009年】

 なぜ、このようになったか。                                    タマリスクが散らばる乾燥した砂地に、真っ赤に錆びた漁船が九隻、放置されてある。          アラル海はかつて、世界第4位の湖であった。1950年代より、ここに流れ込むアルダリア(アム川)、シルダリヤ(シル川)の大量の水を、中流の綿花畑に感慨したため、流れ込む水量と、乾燥で消える水量のバランスが崩れ、水がこなくなった。説明の掲示板によると、1960年にはムイナク漁港はまだ辛うじて漁港であった。しかし、1973年にはすでに海岸線は沖合に引き、ムイナクは完全に陸地である。                  1987年、中央部に湖底が現れ、大きな島ができている。1999年、海は半分の面積に縮小。2006年、この島は南北で大陸とつながり、湖は東西二つに分かれる。2009年、東側の湖は湖と呼べないほどに消滅。   現在、湖水は西側の湖岸(ウスチュルト大地の崖)沿いと、東北部分に僅かだけとなった。ここからランドクル-ザ-で200kmも走らないと、水に達しないそうである。以上は現地に立てられている縮小の経過をしめしたパネル板による。2004年ころ、帝国書院主催の歴史地理研修で、ここに来た人たちのときは、今よりまだ、だいぶましな時だった時と思う。    
 「20世紀地球最大の環境問題」とは、ここ、アラル海のことである。地表化した湖底からの塩分や、かって流れ込んでいた大量の農薬が周辺に飛ばされ、環境問題はより深刻であるという。かつて珍重されたチョウザメや魚類貝類、藻類はもういるはずがない。鳥たちも去った。

 14:40、かつての缶詰工場の廃墟をみる。
 第二次大戦中、ここは一大コンビナ-トで、600万食の缶詰を供給し、1万人の雇用があったとのことである。門の脇に、景気に沸いたときの漁民や工場労働者を描いたペンキ描きの看板が赤さびて朽ちている(鉄骨・トタン看板)。あえて撤去しなかったのであろう。
 14:55、近くの博物館にはいる。アラル海、アムダリヤの過去と現在の比較の展示がある。写真、実物の漁具、漁網、かっての豊かな動物・植物の剥製や見本、自然環境の説明、その他が展示されている。この館内にも外気の強烈な熱気が忍び込んでくる。一方、冬季は厳寒の寒さだそうで、地形はさらに痛めつけられ、土壌はボロボロになっているのだとのこと。
 15:30、なにか、胸を搔きむしられるような気持ちでムイナクを去ることになった。
 来た時、見かけた市町村境界識(←私流にはWelcome Sign)の脇に車をとめてもらい、この広告物をじっくり眺める。アラル海の荒廃のことを忘れようとしたのかもしれない。地元の少年たちが駆け寄って来た。

 車にもどると、アリ氏が、「(本日の宿泊地)ヌクスに帰る前に、この先150km進み、右に25kmはいると、ゾロアスタ-教のミズダハン墓地があるとのことです。ドライバ-のおすすめです。特別Feeが必要で×××スムですが、立ち寄りますか。」とのこと。もちろんOKである。
 Qong'lrotで本線に戻り(E40号)、かなり行ってから右折し、ミズダハンの丘が見えてきた。  

                    【ミズダハンの丘】

 わたしはこれまでゾロアスタ-教といえば、2006年、コ-カサスのアゼルバイジャンの首都バク-で、ゾロアスタ-寺院を見たことがあるだけである。ゾロアスタ-教は火を崇拝するが、その時アゼルバイジャンでよくわかったことは、かの地では地面から漏れる天然ガスが自然着火し燃えているくらいに天然ガスが豊富であること。だから、ゾロアスタ-教地域は天然ガス分布地域とダブルのではないだろうかということである。ここ、ウズベキスタンもガスは豊富である。ウズベキスタンもゾロアスタ-教発祥の地といわれる。

 17:30,Mizdakh-khan 着。                                  面積10ha。西2~3kmに見える小高い丘の城塞(ギュウルカラ、Gyaur-Qala)の人々(=ゾロアスタ-教徒)の墓地であったという。今はイスラム教徒の墓地であるので、これがゾロアスタ-教のものである証拠はこれだ、というものはわからなかったが、ゾロアスタ-教の地であったということであれば、見逃すわけにはいかなかった。斜面に墓地が続く。岡の上に数基、廟がある。地面は乾燥、荒廃、崩落し、穴は冥府への入り口にもみえた。 

        【ミズダハン墓地。かっては、ゾロアスタ-教の、いまはイスラム教の墓地。】                                                       墓守の老婆がいた。アリ氏にさかんに話しかけている。アリ氏によれば彼女は生活はほかにももっているのだとのこと。                                                                                             18:30、ミズダハンを発つ。ヌクスまで13km。途中、車を止めてもらって、自立広告看板を撮影する。

  タテ5000×ヨコ2700、立ち上がり2000位だが、置き基礎である。地震が少ないのでこれで持たせるようだ。置き基礎のサイズは3000×3000四方、厚さ600位で、鉄筋コンクリ-トの塊である。2010年、ウクライナ旅行中に初めてこのタイプを見たが、2015年、ペテルブルグの方でも見たし、今回も何回も見ることになる。この手法は旧ソ連圏の特徴である。
 ヌクス市街へ入って行く。
 「ヌクスにはソ連時代、工場が1440ケ所ありました。おもにソ連からの部品の組み立て工場でした。1991年の独立後、部品が入らなくなったため多くがつぶれました。」とのこと。どうやら昔も今も重工業の生産工場はなかったようである。町は整っている感じである。
 19:00ころ、ホテル「Jipek Joli2」(新館)2階104号室に投宿した。夕食は、ホテル内のレストランで肉じゃが風ロ-ルキャベツ。

 8月4日(木)  ヌクス → アヤズカラ

 今日は午前中は、カラカルパクスタン自治共和国を知るための博物館めぐり2ケ所と、午後に古代ホラズム帝国の遺跡、アヤズカラに向かい、そこに宿泊する日程である。
 8:55、チェックアウトし、まず、民族歴史博物館(9:10~10:15)を見る。地元小学校の2階にあった。2階にあがる前、青の制服の警備員が後ろから走ってきて、並んで記念写真をたのまれた。しかしそれをあとで送ってくれとも言わない。ひとなつこい、と言うしかない。

 

           【民族歴史博物館。実は少学校の2階にある。】                 博物館といっても、そう大きくはない一部屋だけである。入口をはいり、すぐ右手に、カリモフ大統領の業績コ-ナ-がある。彼に批判は多いが、独立後のウズベキスタンという国家をもたせた功績は大きいものがあるようだ。ここで興味を持ったものは次の事柄である。
 ・カラカルパクスタン自治共和国の境界図
 ・アラル海水位の変遷図
 ・英雄図(ト-マリス女王)、英雄図(ヒヴァへの対抗者エルナザ-ルアクラズ)
 ・四大詩人、アジニョス、ジェンジェラ、クヌ・ホ-ジャ、ベルダク・アジニアズ、の肖像図。
 ・保護地区図
 ・ウスチュルト台地図
 ・遺跡分布図
 ・天然ガス分布図
 ・民族の風俗を示す結婚式のようす図、子供の遊具実物(カタカタ…)、ユルタ内部での女の子の教育の写真、楽器(牛の心臓の皮製の二弦の楽器・デユタ-ル)、台所の収納箱(カヴァヤカ)、衣類収納櫃(サンドク)
   ヨ-グルト収納壺、
 ・織物機械、織られた布(→アトラス、女性用・男性用)
 ・ユルタ内部の敷物(ユルタ内中央の食べ物を置く所→ダスタルハン、大きく固い座布団→クルパチャ、畳・ゴザ→     シップチャ)
 ・鳥葬の後の遺骨収納壺(オスワリア)←ゾロアスタ-教徒。
 ・カラ(城塞)の模型 ←カラ名、見落とす。
 ・近代(火力)発電所の模型
 ・市内モバイル会社ビルの模型
 興味が沸いて1時間も見ていた。

 次に徒歩で10分くらい移動して、ロシア人でカラカルパクスタン民俗の専門学者イ-ゴリ・ザヴィッキ-の9万点というコレクションを収納したザヴィッキ-美術館に向かう。   

              【ザビツキ-美術館。左の建物。】

 ここも興味が沸いて、10:30から12:30まで二時間も見ていた。個人旅行は、こういう自由がきく醍醐味がある。
 ・ウズベキスタン画家の絵(ザクロの静物画、ヒヴァ・イチャンカラの風景画など、陰影のはっきりした絵。空気  がそうなのである。)
 ・ロシア・アヴァンギャルド絵画
 ・考古学的発掘品
 ・トプラク・カラの模型
 ・伝統工芸品
 ・見たことあるタッチの絵 (フランスのアンリ・ルッソ-に似たタッチ)
 ここで記念にマグカップを買う。25,000スム=¥800.-位。
 この博物館は1966年の建設。ただし、館員全般が(特に女性館員)ニコリともしない。権威的で親しさがまったくない。やはりまだ旧ソ連圏の空気というべきか。束縛と自由の間でとまどっているのであろう。個人生活レベルでは皆いい市民であると思うが、公式の場所ではまだ皆、警戒を解いていないのだ。       アリ氏の説明で「ウズベキスタンの年間果樹・野菜収穫量は400万トン」とわかる。(日本は     )。 
 さて、昼食の時間。町中のレストランのビ-ルは、6,000スム。銘柄はメモしそこねた。ス-プ(シュ-ルパ-)は塩味で、ジャガ、トマト、黄色ピ-マン、黄色人参、牛肉ブロックが入り、口に合った。。 メインに注文した冷やし羊肉(タンデイ-ル)は一口、口にし「こんなもんかな」とおもっていたら、ドライバ-のMr.アヴロ-ルが、「これ腐りかけだ。キャンセルする。」と怒る。代わりは牛肉の揚げ物(ジイズビ-ズ)であった。こちらは問題なかった。

 13:25、レストラン発。午後は、乾燥したキジル・クム砂漠を約160km位東南に突っ切り、古代ホラズム帝国の城塞遺跡群へ向かった。
 ・キジルクム「砂漠」といってもサハラ砂漠やタクラマカン砂漠のような砂一色の砂漠ではなく、土漠であって、砂一辺倒ではない。しかし植生少なく乾燥しているのは変わりない。昨日、タシケントからヌクスへ飛ぶ飛行機から見おろしたのが、この砂漠である。
 ・車の給油スタンドはガソリンスタンドでなく、天然ガス・スタンドである。「PROPAN」、「METAN」と表示している。
 ・14:00、右手台形の丘の上に遺跡らしきものが見える。

                 【チルピック・カラ】                       紀元前2世紀の遺跡といわれる「Chilpik Qula」、チルピック・カラである。 これは見た目も何か円筒形に見える、わすれがたい地形だった。実際、学問的にもよくとりあげられ、今日午前中の博物館のどこかで、そのミニュアチュアをみた記憶がある。(また翌日ヒヴァで購入した)ガイドブックには、上空からのこのカラの地図があり、それによると、直径60m位の円形である。また、旅行後、知ったことであるが、加藤九ぞう氏『シルクロ-ドの古代都市-アムダリア遺跡の旅』(新潮文庫)のp.193にもこの角度からの写真と説明がある。それによると、「ホラズムのチリプイク、かつてゾロアスタ-教徒の遺体置き場(ダフマ、沈黙の塔)だったといわれる。」である。 ガイドのアリ氏も盛んに説明してくれた。鳥葬の場であるという。鳥葬は、ゾロアスタ-教の葬儀の一形態である。ところで鳥葬はチベットでもおこなわれていた。チベット人はゾロアスタ-教徒ではないが、その比較、検討も自分にはここで研究課題となった。
 ・14:10、車の給油。昨日以来、最初の給油である。プロパンガス、36リッタ-×@2500スム。リッタ-、¥83.-位。単価は日本のレギュラ-ガソリン@¥120前後より安い! また、水も安い、1.5リッター×2,000スム。(\66.-位)                                             ・15:05、右に「AL-BERUNIY」の市町村境界識を見る。中世のイスラム科学者アル・ビル-ニ-の生地の地名と思う。                                           

             【 「アル・ビル-ニ」市?の市町村境界識 】

 アブ-・ライハン・アル・ビル-ニ-(973~1048年)。                      太陽の光が月に到着するのを地球が遮るとき、月食が生ずることを図解した。その図は、このあと、博物館などでたびたび目にすることになる。ただし彼の著作はラテン語に翻訳されることがなかったため、ラテン名はなく、20世紀、歴史家ジョ-ジ・サ-トンにより言及されるまでヨ-ロッパに知られることはなかった。(マイケル・ハミルトン『失われた歴史』(平凡社)より)                                                                              「AL-BERUNIY」の市町村境界識を過ぎて、すぐ左折し、踏切を渡る。左手に黒い山地がいつの間にか平行している。地図によると、この山脈は、SULTAN-UIZ-DAG MOUNTAINS。アリ氏はこの中に50の村があると言った。
 右手に土塊というか、異様な丘が見えてくる。キズル・カラである。やがて道路をまたぐ巨大な門が現れる。なんだ、これは? これはカラ群の入口であることを示す、「ELLIKOALA 」門である。(「50の城塞」の意味。)これをくぐる。この門は、1940年代に作られたはずだ。それまではホレズム王国の城塞は文書でしかしられていなく、1940年代にこれらの地形が、ホラズム帝国の城塞としてロシアの学者たちに発見されたというからだ。まさか、という気もするが。

                   【 エリカラ門 】 

 15:30~55、Kzil-Kala キジル・カラ。

                                                  さっき見えた土塊はこれだった。登ってみた。中は、65×65mのほぼ正方形。守備隊の砦として1~2cに建造。11~12Cに再建。
 ・次に、16:00~15、直線距離で1km東の、Toprak-Kala トプラク・カラ。 

              【 トプラク・カラの内部 】                     

  「トプラク・カラ」とは、「砂の城塞」の意味。東西500m×南北350mの矩形。レンガ造り? 建造されたのは1c、または5c(『地球の歩き方』p116)、または3~4c(『LonelyPlanet』p. )と食い違いが多いが、1~2cのホレズム王国の首都であったというのが、定説のようだ。北西すみに3っつの塔がある。なお、10~14世紀のホレズム王国の首都は、現在のトルクメニスタン共和国のクフナ・ウルゲンチ(ヒヴァの北西150km)であった。そこはアムダリヤの河岸であったが、17c、アムダリヤの流れが変わり水利を失い、町は今のウルゲンチに移った。1~2cのホレズム王国と、10~14cのホレズム王国は別物かどうか、自分は研究不足である。
 トプラク・カラを発つ。右に湖(アクチャ湖、地図による)。

 さて、16:55、平原の中に、かなたに丘が現れる。丘の上に人工物のような物が垣間見える。これが、この一帯で最大の、アヤズ・カラ(AyazQula)である。カラについて、発音整理。Qula→「城塞」。 カラコルム山脈の「カラ」→「黒い」。

  Ayazとは「冷たい風が吹く」の意味とのこと。見渡す限りの乾燥平原に盛り上がった地形である。 ここも建造年は、2~4c説と、6,7c~説がある。後者は地球(p.116)とLonelyPlanet(p.202)とで共通している。左にくだったのところは、肩(峠)になっていて、ユルタ群があり、車はここで止まった。小休止のあと、18:05、山頂の城塞へ向かう。

  山頂にある城塞は第三城塞、中腹のは第二城塞、麓近くのは第一城塞である。これはアリ氏の番号であるが、地元のガイド本では順序は逆であった。それはともかく、この城塞は実際は象徴的なデモンストレ-ションの意味だけで、軍隊や居住民は居なかったという説が多いようだ。

 うえの写真は、城塞の内部で、城壁が二層であったことを示す場所で撮った写真である。         18:50、ユルタに帰着。雨水を貯めた貴重なチョロチョロ水のシャワ-を浴び、さっぱりする。夕食をすませ、ベンチに寝そべって夜空を見る。一時間位、ながめていただろうか。今夜は新月で月がなく、暗い。光は星の光だけ。下界の物音はきこえず、悠久の宇宙や、古代のホラズム人たちと会話をこころみる。 南天はこぼれるばかりの星の屑だが、北天はかすんでいたため、満天の星ではなかったが、充分、満足した。みみさんは流れ星を見たと言った。泊まっていたのは、我々とスペイン人の夫婦だけであった。ホラズム王国とは何か。まとめる必要がある。

8月5日(金)  アヤズカラ → ヒヴァ


 8:10、アヤズカラのユルタを発つ。山をくだり、ブストンという昨日通った集落(交差点)をかすめ、 アムダリア河をわたり、ウルゲンチを、通過する。道路サイドに多数、屋外広告物(特に自立)がある。ただよいアングルでの写真は1枚も撮れなかった。車は揺れるのと、速度がはやいのと、持参デジカメは高性能ではないためと、座席が後部座席だったためである。
 9:48、世界遺産・古都ヒヴァの外壁南門をくぐる。正面にイチャンカラ(内城)南門を見る。

      【 ヒヴァ、イチャンカラ(内城)の南門。ここへは今夜、向こう側から来た。】       この門はくぐらず、左に曲がり、城壁沿いにまた右に曲がり、城壁が一部とぎれたところを右に曲がって、イチャンカラの中にはいる。正面にホテルが現れた。9:50、ホテル「ORQANCHI」(アルカンチ)到着。  ホテルの目の前に、青のモザイクのズングリ形のカルタ・ミナルの上部があった。このホテルは絶好の場所にある。1階7号室が我々の部屋であった。

           【 ホテル「アルカンチ」から見るカルタ・ミナル】                                                                ひと息入れて、10:30、観光にでかける。
 まず、今きた城壁のとぎれたところを出て、右に、西門に向かう。                   西門手前に、ここでの最初の目的物、中世イスラム科学者のアル・ホレズミ-像に対面した。

 まず、これを見るためにヒヴァにきたのだとも言える。像は思いのほか大きく、地元の子供たちがよじ登ってあそび場になっていた。アル・ホレズミ-について、私の思い入れは強く、事前にヒヴァにおけるゆかりの地をしらべたが、ここしか知ることができなかった。アル・ホレズミ-について、この滞在中にゆかりの地を探したり調べたりしたい。それまでは観光にすぎない。

  西門(OTA DARVAZA)より内城(イチャンカラ)に入る. ガイドブック1冊と、撮影券を買う。          パッと、目の前にカルタ・ミナ-ルが聳える。 衝撃的である。そしてそれは、ムハンマド・アミン・メドレッセという旧イスラム神学学校の敷地の中にあるのであった。

  このメドレッセは中央アジア最大規模のメドレッセで、教室125があり、16~36歳の男子が寄宿したという。1851~55年に建造。現在は「OrientStar」なる民間ホテルである。現在現役のメドレッセはウズベクにはわずか、10ケ所しかないとのこと。ここヒヴァにはゼロ、ブハラに1、……。 あとはどこであろうか。
 カルタ・ミナル(「短い塔」)、高さ26m。下部の直径14m。計画では高さ109mであったが、支配者第52代ハン、ムハンマド・アミン・ハンの戦死(1855年)により中断。青・緑・白のタイルが美しい。
 次にクフナ・アルクに向かう。途中に日本語ひらがなで「ほんや」の張り紙をみつけ、入る。

                    【 「ほんや」 】                      ここで何かを買わないとならないと思った。『THE ANCIENT AND MODERN KHOREZM』(英語A5、グラビア、59ページ、27,000スム)を買う。これ、ホラズム地方の、つまりこの地方の城塞群の説明や、この町ヒヴァの観光案内、歴代ヒヴァ・ハンのリストもあるコンパクトな本である。

               【 クフナ・アルク の正門】                     クフナ・アルク。(11:30~12:30) 「古い城」の意味。ここはヒヴァ・ハン国(1512~1873?1557~1920年)歴代58代ハンのうち最初の56ハンが政治をおこなった王宮である。正面、外左手にジンナン(監獄・処刑囚の居住所)がある。正門を入り、ハンの行政場所、大臣室、アクシャイハバ塔(見張り塔)、造幣所アト、夏用モスク、冬用モスク、ガレム(=ハーレム)などをみる。タイルは美しく、所々番号が振りあてられている。修理するときの目安だとのこと。

              【 写真を撮らせていただく 】

アクシャイハバ塔にのぼり、市内をみわたす。イスラムホジャ・ミナレットが間近に見える。(あとで登った) 気温は38~40度くらい。
  クフナ・アルクを退出し、昼食は12:45~14:20、元メドレッセのレストラン「YASAVUL BOSHI」。エアコンもきいて室内は涼しい。


  ビールはリ-シイスコエ(タシュケントに工場)、8,000スム。有名なプルサ-ルというビ-ルにはまだお目にかかってない。

            【 この黄色の人参サラダがよく口に合った 】

            【 ウズベク料理はだいたい口に合う。】

 アリ氏と一緒にとる食卓はいつも会話に溢れたが、雑談で今ウズベクで人気のグル-プサウンズは「ヤッラ-」である。彼の二人の娘はジャスミ-ナとシャリ-ナ。後者はイランの名で頭がよくて早いという意味。            ここでミミさんが絨毯を買った。
                                                  14:25~タシュハウリ宮殿。50代アラクリ・ハンが1830~38年にかけて建造し、ヒヴァ最後のハン二人(57~58代)が住んだ。ヒヴァの中でも豪華なタイルで装飾されているというが、少し熱さにやられてきたか、集中できなくなる。キャラバン・サライを通り抜けてイチャンカラを東にでる。かっての奴隷市場があったところで今は市場。時間的に閑散として、興味もわかず、少々バテ気味に東門はくぐらず、ホテルに帰りシエスタとした。15:30。  
                                                  17:35,夕方の行動再開。まだ熱いがいくらか、ましだ。                      17:40,ジュマ・モスク。これまでのモスクとは、趣きがちがった。薄暗く倉庫跡地の感じだが、彫刻された木柱が規則正しく並び、壁のミハラブはなんの装飾もなく壁龕そのものである。木製の頑丈な説教台は、質素にみえた。薄暗い中、中央部に天窓が一つあり、光はそこからのみ入る。瞑想を誘う興味のわく空間で、さまよい歩いた。 広さ、55m×46m。彫刻された木柱は約3m間隔で、213本とのこと。ミナレットがあるが、閉鎖され登れなかった。

                【 ジュマ・モスク 】

 つぎは5分ほど歩いて、パフラヴァン・マフムド廟。ヒヴァの庇護者であるパフラヴァン・マフムド(1247~1326)が眠る。廟の中は一面、タ-コイズ・ブル-のタイルである。パフラヴァンとは「強者」の意味で、本名がマフムト。彼は毛織職人、詩人、哲学者にして、クラッシュ(ウズベキスタンの武道)の名主。ヒヴァの理想形人物とのこと。

                                                                  【パフラヴァン・マフムド廟】                                                                    イスラ-ム・ホジャ・ミナレットへ向かっ歩いていると、後ろから陽気に声をかけられた。ふりかえると、手にカメラを持ったおじさんとおばさんたちが、一緒に記念写真を撮ってくれとのこと。フェルガナから汽車できたという。フェルガナで一生懸命はたらいて、財をなして、そのご褒美にきたという。表情が誇らしげだ。我々は日本からだというと、おおきな声を上げて歓迎していただいた。写真を撮りあって別れる。  


  【 イスラム・ホジャ・ミナレット と旧モスク(左端)】                     さて、ここのメドレッセは今は展示室になっており、特別なことはなかったが、ミナレットはヒヴァ一番の高さで45m。ミミさんは登らないというので一人で登る。ミナレット入り口までの助走の木の階段(左下に写っている)は19段。そこから頂上まで119段あった。急階段で歩幅が大きく、その上、所々螺旋階段で、暗く、遭難したらヤバイと思い一気にあがる。誰もいなかった。頂上の見晴らしはよかったが、狭いのと階段の手すりがないので、放心できなかった。1910年の建築。第57代ハン(最後から2番めのハン)・イスフェンデイヤル・ハンの大臣イスラム・ホジャによる。 
 18:50~20:40,旧メドレッセの一角のレストランに入る。飲んだビ-ルは、QIBRAY。

 

  夕食のレストランは昼間のレストランと同経営で、社長は女性。息子たちが各店長。そのため、昼間ミミさんがオプション注文した絨毯の実物を店長が「これでいいですか」と確認に来た。             外にでるとようやく、ヒヴァの、ウズベクの、中央アジアの闇が近づきつつあった。

   ホテルに20:55,帰着。夜中に2回、停電があった。 停電は頻繁にあるもよう。

 

8月6日(土) 終日 ヒヴァ滞在。 

                                                  昨日、ガイドのアリ氏に、アル・フワリズミ-について知りたいので、関連する所がないだろうかと問いかけてあった。彼は調べてくれた。今日は、その2ケ所へ案内された。一つは、旧マッツパノホ・メドレッセ。もうひとつは、ホレズム・マム-ン・アカデミ-である。(翌日、さらにもう一つ、ウルゲンチにある彼の名を冠した医療学校と、胸像がが追加された。) 感激である。                       8:55 ホテル発。                                        9:00~9:40,マッツパノホ・メドレッセ(MATPANOH BOY MADRASASI、ウズベク語)。ジュマ・モスクの向かいにあった。 

            【マッツパノホ・メドレッセ 入り口】

 この建物にゆかりがあるのではなく、その一室にアル・ホレズミ-の業績が紹介されているのである。  中庭を四角に囲む建物は一層であるが、かっては学生たちの寄宿舎で、今は各種の展示室となっている。 このなかにアル・ホレズミ-の展示部屋があったが、まずは、順番で見ていく。               ・ゾロアスター教の部屋。 ゾロアスタ-教の聖書『AVESTO』(アヴェスト)の実物の断片の展示がある。『AVESTO』なるものは初めて知った。『AVESTO』は2700年前、12,000枚の羊皮紙に書かれた。しかし、『AVESTO』はアレクザンダ-大王の侵入により焚書される。

      【ゾロアスタ-教の聖典『AVESTO』の断片 (壁に掛けられている物)】      

 【ゾロアスタ-教二元論、 ア-リマンとアフラ・マズダの模型(造形)】              ・ザ-ル・シュトラという名の、ゾロアスタ-教を伝播した人の絵。 
ザ-ル・シュトラというなまえは、ザラ・ドシュト(金色のラクダ)という言葉から転じたのだそうだ。  

           【 ゾロアスタ-教の伝播者 ザラ・ドシュト 】  

   ・昨日、車中から望んだチュルピック・カラからの出土品。円形のカラの模型。鳥葬の絵。

  ・(食べ物のパンの)ナンの部屋。ナンをつくる型。サマルカンドのナンは厚くて重く、長持ちするといい、サマルカンド在住のアリ氏はちょっと自慢したかったようだ。                     ・仏像の部屋。 仏教は東は日本まで伝播したが、西の限界はウズベキスタンであるということだ。 

                   【 仏 頭 、仏 像 】

  ・ウスト・オタ。←この意味は聞き漏らしたが、ウズベキスタンでは先生(教師)を大事にする伝統があ る。先生の意味だったか?「先生はお父さんよりえらい」ともいわれる。                 ・イスラム教の拡大過程図。イスラム教徒がゾロアスタ-教の本を焼く絵(アレクザンダ-だったか?)             

  ・さて、いよいよアル・フワリズミ-(ホレズミ-とも)の部屋である。              この中世イスラム科学者の名をよく知った知ったのは、2012年トルコ旅行のあと、イスラム教の歴史を調べていた時、マイケル・ハミルトン・モ-ガン著『失われた歴史』(平凡社)においてである。中世イスラム科学のキラ星のごとくたくさん存在した科学者の中でも筆頭格の一人であり、英語のAlgebra(代数)という言葉は彼に由来する。かれは、ヒヴァの生まれである。長じて、アッバ-ス朝バグダッドの「知恵の館」の図書館長にもなる。アラビア語記述での彼の代数の1ペ-ジや、著書『Earth viem』の1ペ-ジなどが展示されている。展示の量はさほど多くはないが、乾いた土に水が染み込むように、私の身体に入っていくようだった。彼の父はゾロアスタ-教徒だったという。

 【アラビア語でのアル・ホレズミ-の代数の1ペ-ジ、 または啓示をかきとめたもの?】     

          【アル・ホレズミ-『Earth viem』の1ペ-ジ】

 アル・ホレズミ-については、またのちに、まとめる。                        9:40,次のホレズム・マム-ン・アカデミ-に向かうべく、ここを去る。                                                                内城(イチャンカラ)西門から外に出て、右手に城壁に沿って行くと、城壁は最近整備されたばかりかのようで、なめらかである。1950~60年台、作家の井上靖氏がここを訪れたときには、崩れて土塁だったというようなことが、『         』(        )などに書かれている。

                     【振り返って見た城壁】

 なるほど ヒヴァがユネスコ世界遺産に登録されたのは、1990年。                  その前に「博物館都市」に指定されたのは、1969年である。イチャンカラのなかには、20のモスク、20のメドレッセ、6基のミナレットがあるのだ。                            途中、ス-パ-に立ち寄った。棚の上に日本の「まねき猫」が2つ置いてあった。売り物ではないらしい。 ヌルツラバイ宮殿にも立ち寄る。10:20~11:00。                        商人ヌルッラバイの敷地にあったことから、この名がついたが、王宮は、ヒヴァ最後のハンの息子が1906年に立てた。その父の、第58代ハンの名は、Sayid Abdullakhan(在位1918~1920)であるが、かれはここで殺害され、(つまりイチャンカラの外で亡くなったため、)イチャンカラのなかの、パフラヴァンには埋葬されていないそうである。王宮といっても小型であるが、贅をこらしている。壁はアルバスタ-(白い漆喰)である。アルバスタ-は、2015年、南フランスの旅の時、カルッカソンヌのコンタル城で、albatres(雪花石膏)として知った。純白で彩色が可能である。 またここで、ウズベクの詩人ハムザという人の名を知った。                                                    11:20、ホレズム・マム-ン・アカデミ-(KHOREZM MAMUN ACADEMY)の建物に着く。 デイシャンカラ(外壁)北門にあたるコシュ・ダルヴァ-ザ(Qusha darvaza・大きい門)の手前の右にあった。

 【 ホレズミ-・マム-ン・アカデミ-に着く。 中央の建物。 左の門がコシュ・ダルヴァ-ザ 】 

 この建物の二階部分にアル・ホレズミ-およびその時代を紹介する広いスペ-スがあった。        このアカデミ-は、世界三大アカデミ-のひとつであると説明があった。 三大アカデミ-とは、古代ギリシャ・アテネの哲学者、プラトンのアカデミ-。および中世アケメネス朝ペルシアの首都、バグダッドの「知恵の館」。そしてここ中央アジア、ホレズムのこのマム-ン・アカデミ-(KHOREZM MA’MUN ACADEMY)とのことである。しかもここは現役のアカデミ-である。ここのアカデミ-はバグダッドの「知恵の館」に依ること、大である。                                    その「知恵の館」(アイト・アル・ピグマ)とは、なにか。それは、832年アッバ-ス朝第4第カリフ、アブ-・ジャファ-ル・アブドッラ-・アル・マム-ン(在位813~833年)が、ビザンテインやペルシアのあらゆる書物をアラビア語に翻訳すること、哲学・科学・数学・天文学の世界の真の中心地とすること、を目的に創設した学問センタ-である。そこにはキラ星のごとき思想家たちがひきよせられた。そのなかには、ヒヴァ生まれの(←ここが重要!)、後の代数学の父、アルゴリズムの語源とされるモハメド・アル・フワ-リズミ-。 ネストリウス・キリスト教の内科医でギリシア哲学をアラビア語に翻訳したフナイン・イブン・イスハ-ク。もっとも完成されたアラブ哲学者アル・キンデイ-。などがいた。カリフ、アル・マム-ンは宇宙からの隠されたメッセ-ジ解読だけでなく、よりよい天文図を作り、その資料づくりに挑戦するよう、イラクの平原に、一つならず、二つの天文台をそびえさせるにいたる。その天文学支援を称え、今日、月のクレ-タ-の一つに彼の名があたえられている。アル・マム-ンである。知恵の館や、諸無ムスリム・センタ-は世界最初のシンクタンクといえる。(『失われた歴史』マイケル・ハミルトン・モ-ガン著、北沢方邦訳、平凡社、2010年より))                                          そして「カリフ・マム-ンのあとも、ホラズムの諸王たちはこの伝統にしたがった。 アブ・ナス-ル・ビン・イラクと、アブ・アル・ライマン・アル・ビル-ニ-は首都カヤスでともに働く。アル・ビル-ニ-がホラズム・シャ-の助言者だったことはよく知られている。」 (このあと述べる『KOREZM MA'MUN  AKADEMY』より)                                          二階では、アル・ホレズミ-と、アル・ビル-ニ-を中心にみてまわった。

            【 ムハンマド・アル・ホレズミ-】   

 ムハンマド・アル・ホレズミ-は、780年頃ヒヴァで生まれたペルシャ人で、父はゾロアスタ-教徒であった(彼も)。832年、カリフ、アル・マム-ンより、数の中に神を探求するのを助けよ、と召還される。彼は」ギリシア語が読め、ギリシア人、ビザンテイン人、インド人の数学的著作を吸収し発展させた。彼の著作がヨ-ロッパ人のためラテン語に翻訳されはじめたのは、彼の死(850年)後、すでに300年であった。彼の死後700年の16世紀頃までヨロッパ人は、証明済みとみなす事柄を権威付けるため、「デイクシット・アルゴリトミ」(「アル・フワ-リズミ-かく語りき」)という脚注をつけることになる。 彼の仕事は、ヨ-ロッパとムスリム世界の大学の数学と天文学の中核的教科書となっていく。代数(アルジェブラ)という語そのものが、彼の著書(『アル・ジャ-ブル・ワ・アル・ムクアバラ』つまり『完備化と均整による計算法の概要書』)という題名からとられた概念に由来する。彼の数と新しい計算方法は、100階建てタワ-や、数マイルの長さの橋の建設、宇宙探査機と木星諸衛星との交差点計算、核物理学の諸反応計算、バイオテクノロジ-の細胞処理計算、薬学やマ-ケットの調査計算、グロ-バル経済の微積分、ソフトウエアの言語や知能、携帯電話の会話盗聴防止などのすべてを、可能にするだろう。(上記『失われた歴史』より)             アル・ビル-ニ- についての解説も多かった。 

           【 アブ・ラヒマン・アル・ビル-ニ-】 

  今回の旅で、ヌクスからアヤズ・カラへの途中、アルビル-ニ-という地名があったのを観ている。彼の出身地であろう。 アブ-・ライハン・アル・ビル-ニ-(973~1048)も当時ペルシアのヒヴァで生まれた。1017年、ガハズニ-朝のスルタン・マハム-ド家庭教師兼顧問としてやとわれ、インドを目指す。ヒマラヤの高地で明らかに人の手で運ばれたのではない貝殻を発見する。聖なるガンジス川を氷河の源流からベンガル湾の河口までたどる。大洋の干満が月の諸相と関係するというインドの理論にぶちあたる。液体静力学の容器液流理論で、いかにして掘り抜き井戸や、自然の泉が水を湧出させるかを説明する。地球が地軸上で回転していることは自明であるとし、何百もの都市の緯度・経度を計算する。(←アル・フワリズミ-もそうだった) 月食がいかに起こるかをしめす図はここでも展示されている。 
館内に売店はなかったが、ここのパンフレットかなにかを欲しかったので、アリ氏に相談すると、事務室に掛け合って、『KHIVA-the Pearl of the East』(Tashkent 2015年発行、95ペ-ジのソフトカバ-のグラヴィア誌)を得た。さらにここのアカデミ-について書かれたものをもとめると、167ペ-ジのハ-ドカバ-の『KHOREZM MA'MUN AKADEMY』(Tashkent 2006年)というアカデミ-創立1000年記念誌に、研究員ゾ-キルジョン・ラジャ-ボヴ氏がサインをしてくださり、記念写真を一緒に撮っていただいた。まことに光栄なことであった。両冊共、ウズベク語と英語で併記されている。 12:10、ここを出る。 

        【 ソ-キルジョン・ラジャ-ホヴ氏と記念写真を撮る 】 

デイシャンカラ(外側城壁)の北門にあたるコシュダルヴァ-ザ(2つの)扉、大きい門の意味)を見学し、イチャンカラお北門をはいり、城壁に登る。そのあと、下へ降りて、昨日の昼食と同じレストランで昼食とした。午後はホテルにもどり、休憩(シェスタ)をとる。                                                                         17:15,夕方の観光にでかける。クフナ・アルク正門前の広場で「MERON FESTIVAL」がおこなわれており、各地から色とりどりのメロンがあつめられ、きょうは品評会がおこなわれるのである。


歌手が演壇でうたい、民族舞踊を着飾った女性たちがおどる。初めて聞く旋律と振り付けだった。ドッピをかぶった白髪、白ひげのおじいさんが、演壇したに飛び入りでおどっって、拍手喝采だった。やがて州の偉いさんがきて、西日の強い中、品評会の結果を発表した。 
 夕食は、20:30頃、ジュマ・モスクとホテル・アルカンチの中間のレストランの外のテ-ブルで摂った。 そのあと、暗闇のなか、イチャンカラ南門を見にゆく。ダシュ・ダルヴァザ(堅い門)という。ここが、カラクム砂漠への出入りの門で、2つの高い塔をしたがえた見栄えのする門である。
 ホテルへもどり、長袖シャツ2枚をクリ-ニングに出す12,000SUM。30で割れば大体日本円になるので、¥400くらい。 

 
 8月7日(日) ヒヴァ→ブハラへ。                              

 朝食前の6:30~7:00まで、ヒヴァのメイン通りを東門まで行ってみる。 西門からジュマ・モスクまではすでに昨日迄に歩いてあるので、ジュマ・モスクから先である。東門は、パルヴァン・ダルヴァザ(奴隷門)とよばれ、門の外は今は普通の市場であるが、昔日は奴隷売買がされていっという。
 さて、8:00、今日は、450km南西のブハラへの移動日である。が、その前に、アリ氏は、一昨日通って来たウルゲンチ市へ北上し、アル・ホレズミ-ゆかりの訪問地として、第3オプションを用意してくれた。それは、ウルゲンチ市の中心地、アカデミ-ドラマ劇場に面したアル・ホレズミ-広場の芝生の中に立つ高さ6~7mくらいのアル・ホレズミ-像であった。これまでの彼とちがい、柔和な表情だった。 

  【 ウルゲンチ市 ある・ホレズミ-広場のアル・ホレズミー像 】

 さらに市内には、「ホレズミ-通り」、「ビル-ニ-通り」などの名の通リがあり、彼らが大事にされていることがわかり、好感を持てた。ここは、かってソ連時代に建設された都市であることを思うと、以外な気もする。しかしいまは、ウズベキスタン共和国であり、ウルゲンチ市はホレズム州の州都であり、民族の歴史を否定しない。実際、ここに来る前にアリ氏は、1999年に建設されたジャロリデイン・マング・レンデイ像(JAROLIDDIN Manguberdi)に我々を導いていた。かれは、モンゴルの侵入の時、この地を7ケ月にわたって、守り抜いた英雄だという。アリ氏はこの像をみせたかったのだろう、予定外であった。あちこちにある噴水やスプリンクラ-からは惜しげもなく水が宙に舞う。これらはアム・ダリヤから引いた水であるという。

9:15、ウルゲンチを立つ。今日はこれから、450km、東南の古都ブハラに向けて、世界第16位の広さのキジル・クム砂漠を横切る。まず、市の北でアム・ダリヤの橋をわたり、右折して、右岸のガタガタ道を進む。アム・ダリヤは、パミ-ル高原に端を発し、アラル海まで長さ2660km、そのうち1500kmがウズベキスタンを流れる。しかし途中で綿花の灌漑や、都市化需要のために大量の水量が失われ、アラル海の枯渇化をまねいたのは、数日前に見たばかりである。
10:45~10:50、Miskin でトイレ休けい。砂漠がはじまりかけ。砂漠と言っても砂100%の砂漠ではなく土漠である。すな、土かけら、短い植物が混じる。
11:00~11:15 アム・ダリヤ遠望。
12:40~13:35、300kmくらい来たところにあるチャイハナで昼食。風強く砂塵が舞う。ス-プにラグマン(うどんに似る)、牛の串焼き、をたべるが、風強く砂塵がまい、口の中がわずかながらジャリジャリする。気温高く、体力温存を心がける。 
途中、足こぎ車でブハラへ向かう冒険者を追い越す。イギリス人か? 

       【 足こぎの三輪車でキジル・クム砂漠を横断する冒険家 】

 

  16:15,ブハラ市内のホテル「NEW MOON」に到着した。 ラヴィハウズまで東から2分のところ。

   ブハラとは、インド・サンスクリット語で僧院の意味。ブハライ・シャ-リフとは、聖なるブハラの意味。ほかのとちでは光は、天から差す。ブハラでは、光は、地から天を差す、といわれたという。そのブハラでは、ヒヴァに続き、2泊し、じっくりまわることにしてある。 
 夕食は、ラヴィハウズを西に向かい、ホテル「アジア・ブハラ」をとうりすぎた所のレストラン「OLD BUKHARA」。19:00、生ビ-ル、ボルシチ、ラグマン(炒めうどん)、ウオッツカ(タラヤ)など二人で26,000sum。食事しながらアリ氏のガイドを聴く。 ブハラの歴史は紀元前5世紀までたどれること。19世紀、ブハラには300のモスク、60のメドレッセ、があったこと。現在、ブハラ州の面積は国内12州のうち第二位(カラカルパクスタンを入れると3位。)ブハラ州の病院数55、中学校数778、遺跡数140。2011年からタシケントからサマルカンド迄新幹線が走っていること。「アフロショブ」号で2時間10分、「シャルク」号で3時間であること。今年中にブハラまで来ること。新幹線はスペインのPatentes Talgo社がつくっていること。
 帰りは、タキ・サラフォン近くのアトラスの店に寄った。アトラスは絹織物、アドラスが綿織物のことである。 迷ったが何も買わず。

 

8月8日(月) ブハラ滞在    
                                
 今日は終日、ブハラ滞在し、じっくりまわる。8:00,ホテル発。  
①サ-マニ朝の廟 、Ismoil Samoniy Madbarasi  

 
 中央アジア最古のイスラム建築。9c。 この頃、イブン・シ-ナ、ブハラをさりイラン方面へ。
モンゴル来襲時は土に埋もれていた(ので破壊されず。マゴキ・アッタリ・モスクも同様)
1925年、ロシア人により発掘。                                                                                   ②チャシュマ・アイユ-ブの廟  Chashma-Ayub (予言者ヨブの泉) 

  湧き水。井戸。
ムハンマドの言行録を編纂(『ハデイ-ス』)した学者(イマ-ム・アルブハ-リ、9c)の先生(名前不明)の廟。 12世紀頃建築。
屋根上の塔がアルメニア風。 
内部にブハラの灌漑システムの展示あり。1932年頃より上水道普及、井戸の水飲まなくなる。
ここの前でCDを買う、$9。「Karavan. Djivan Gasparian」 


③ボロハウズ。モスク  Bolo-Hauz Masjidi 

   池(ハウズ)の上(ボロ)にあるモスク。 
1712年築。ブハラ・ハン専用のモスクだった。今も現役のモスク。 
「アイヴァン」という建築方式。ブハラではここだけ。ヒヴァではよく見た。
木柱、屋根、20cのもの。木柱はくるみの木、20本。継ぎ足しなしの1本の柱。
「女性の見学は不可」(地球の歩き方p.83)←これは嘘。 
撮影料は無し、ただし、donationをする。 
アリ氏と話す。「ロシアに憎しみはあるか?」→「ない」(中韓の日本に対する姿勢を念頭に)) 


④アルク城 

   
 西暦500年にはすでに城が、あった。
歴代ブハラ・ハンの居城。
1873年、麻薬と奴隷の禁止。1920年、ソ連軍によりブハラ・ハン滅亡。  
面積4ha。城壁高さ、16~20m。現在70%は考古学研究で非公開。 
ズインダン…牢獄  
モスク、大臣の居住棟、ハウズの分布図、CORONATION HALL(1838年英軍、乗馬のまま入場し殺される。翌年も。)、STABLES(馬小屋広場)

ハンたちの写真。最後のハン(1910~20)の眠たげな写真。                     

⑤ミリアラブ・メドレセ + カラン・モスク&ミナレット                        水売りの売店、「榊原建設のウエア(作業着)、日本人にもらった」と言って見せられる。      


・Miri Arab Madrasasi  

  現役のメドレセ、入り口までしか入れない。100人ほどの学徒。 
1530~36年建築。「人々の悲しみ、涙でできている」…資金調達のために300人以上のペルシア奴隷を売ったため。


・kalon Masjidi  (カラ-ン・モスク) 

  入り口で、『ブハラ  中央アジアの傑作』(日本語、$10.)と香水3cc 6,000sumを買う。 
カラン・モスク 創立(   ) チンギスカン?乗り込む  
1514年(シャイバニ朝)が建て直し。
このモスクのスケ-ルに圧倒される。中庭と回廊(208本の柱)ヨ-ロッパ中世フランスのロマネスク教会の回廊を想起させるが、それ以上である!「地球」によれば、「サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵。広さ1ha。1万人の信者が入れた。ソ連時代は倉庫だった。」


・kalon minorai (カラ-ン・ミナレット) 

 

  ミナレット…光塔、と訳される。夜間、上部の窓に照明がはいり、遠方よりくる人々を導いた。      1127年、カラハン朝の時代に建てられ、高さ46m、ブハラ最高。(cf. ヒヴァのイスラムホジャは45m、1910年)
全体で14種層の装飾。上部は花束ミナレットと呼ばれると。 
この三つ全体で、ポイカロ-ン(Poi Kalon) Ensembleと呼ばれる。ポイ…大きい、カロ-ン…足、ペルシア語でミナレットの意味。 
⑥タキ(TOQI)。タキとは交差点を円屋根で覆った市場のこと。三ケ所、ある。              TOQI・ザロガロン(宝石市場)みみがハサミを買う。&20×3ケ=$60.


・TOQI・テルパックフルシャン(帽子市場) ここのさしかかる売店でネックレスをかい、売り子さんと写真を撮る。
・TOQI・サラフォン(両替屋市場)

13:40~14:45 ランチ  レストラン「Adras」にて。TOQI・サラフォンをくぐりラビハウズ側へでてすぐ右。 米・大麦のス-プ(フェンネル=ハ-ブ=香草、山草=シャンサイ=コリアンダ-)、ジイズ(肉料理、ウズベク語でグシュ)、ビ-ル(RIJSKOYE、リスコ-ヤ、名はロシア名だがウズベクのビ-ル)


⑦マゴキアッタリ・モスク  

   14:50~15:10  マゴキとは埋没していたの意味。1936年、ロシア人が発掘。もとは、ゾロアスタ-寺院だった。12C。 今は絨毯博物館。みみさんの希望で3点撮影も買わず?アフガン、イラン、中国の絨毯、あり。 スサニ(刺繍)を編んでいるところも撮影させていただく。               

⑧ラビハウズとその周囲 Labihovuz (池)
1622~23年築く。溜池? 
・池の西…ナデイル・デイアンベキ・ハナカ(1621)
・池の北…クカリダッシュ・メドレセ(1568~70)16c、300人の学徒、160のフジュラ 
ブハラ最大のメドレセ。ソ連時代はソ連軍宿舎。   
・池の東…ナデイ-ル・デイアンベキ・メドレセ。正面上部にタブ-の「人の顔」が描かれている。
その前に、ナスレッデイン・ホジャの像がある。                           

15:25~18:15までホテルに帰りシエスタ。シャワ-を浴びる。

⑨チョル・ミナル  Chor(四本)-Minor(ミナレット)、イラン語 

  1807年、トルクメニスタンの富豪、門番小屋として建設。塔を除けば、フランスのロマネスク教会を想像させられ、一周した。 

⑩ナデイ-ル・デイヴァンベキ・メドレセ Nodir Devon Begi Madrasasi
1622年。ファサ-ド上部に2羽の鳳凰、一頭の白い鹿、太陽の人面。イスラムの戒律にそむくので、モスクでなくキャラバン・サライとして使われた。中庭で20:15まで民族舞踊のショ-を見る。一昨日のヒヴァのショ-と同じ傾向。ビデオに摂る。曲は叙情的でなく、叙事詩的である。
 夕食は、第二のタキの先、左の小高い丘のレストラン「DORON」。20:30~22:00。シャシリック。Shashlik。牛肉串焼き2本セット。もう1本は、Jiz。白ワイン、ウオッカ。
ホテル帰着、22:20。                                      

 

8月9日(火) ブハラ滞在                                    


9:00,ホテル発。
ブハラから東南15Kmにある日本人墓地に詣でる。

 

  9:40、墓地に到着。第二次世界大戦最末期、ソ連軍によりシベリアからウズベクに抑留されてきた兵士たちである。墓守のロシア人(と言っていた)夫妻に挨拶して、日本から持参の日本酒(ワンカップ)を、中央の記念碑にかける。碑には、「鎮魂の碑 永遠の平和と友好を誓う2002年5月27日」と大書され、159名の出身県とお名前が彫られている。離れた所にも、ロシア語(ウズベク語?)で159名の名が彫られた碑がある。胸がしめつけられる。10:00,ここを立つ。 

 きょうは、ヒヴァでのアル・フラズミ-とならび、個人的テ-マとして中世イスラム医学者のイブン・シ-ナゆかりの場所をたずねるオプション行動である。これも、アリ氏がセットして下さった。その一は、ブハラから北へ30kmのペシュク地方アフショ-ナ村というイブン・シ-ナの生地であり、そのニは、ブハラ市内の大学である。

 まず、第一の場所には、11:55~12:20に、訪問した。                      そこは、アフショ-ナ村の、AFSHONA TIBBIYOT KOLLEJIというところだった。車を降りて構内にはいると、右手に大きな「ABU ALI IBN SINO MUZEYI」(「THE MUSEUM OF ABU ALI IBN SINO AVICENNA」) という博物館がある。中央の奥に3階建てのコンクリ-トビルがあって、その校舎をバックにイブン・シ-ナ像が立っている。表情は精悍である。イブン・シ-ナは、ラテン語名をアヴィケンナとして、ヨ-ロッパで知られている。像の左手に図書館ビルと、学生寮ビルが立つ。

  イブン・シ-ナは、西暦980年、このアフショ-ナ村に生まれた。10歳でコ-ランを読み、14歳で医師の弟子になり、17歳でときの為政者マンス-ルの病を治す。1005年ころ、ブハラを去り、ホレズムのヒヴァのアカデミ-に入る。1017年、カズニ朝の侵攻により、アカデミ-は閉じられ、イランに行く。生涯450冊以上を著作した。
 博物館では関連のものが色々見られた。『Museum of Ancient Bukhara』45,000sum、を買う。
12:20、アフショ-ナ村を去る。 

ブハラ市内にもどり、13:10~25、イブン・シ-ナ、オプションの第二の場所、ブハラ国立医科大学(BUHARA STATE MEDIDAL INSTITUTE NAMED AFTER ABU ALI IBN SINO 〉を訪れた。庭にイブン・シ-ナの胸像がある。こちらも精悍な表情である。

 

 ランチは宿泊ホテルの3軒東の、チャイハナ「Chinar」で摂る。サラダはレシ-トをみるとマッシュル-ム・サラダとjapan salad とあったが、japan salad とは、何だったかわからない。主食はZiz(牛肉串焼き)だった。 ホテルにもどり、15:00~17:50までシエスタ。 

 17:50、ゆうがたの自由行動にでる。「地球」に掲載のあるカラ-ン・モスクの前の「チャシュマイ・ミロブ」で夕食をとりたいと思って行ったところ、コ-ヒ-が粉コ-ヒ-(Nescafe)とのことで、やめた。またトイレもないとのこと。トイレあり、の標識のある邸宅風の敷地に入る。用は足りたが、なんとここは絨毯weaving工場兼販売店で、女主人が遣り手らしかった。25才、3人の子持ち。8月4日にはサマルカンドに招かれ、安倍首相婦人に面会し、絨毯を贈ってきたばかりという。ブハラはラクダ毛の絨毯で有名だという。1枚なら$150,2枚なら&250,クレジットカ-ドでなくUSドル現金なら$240、とのことで2枚買った。

 夕食は、ラビハウズのほうへもどって、アリ氏お薦めだった城壁風建物に赤のネオン文字のあるレストラン「BODREDDIN」に行った。ラビハウズの西のナデイ-ル・デイアンベキ・ハナカの西隣の建物にあり、我々は2階テラスに席をとり、暮れなずむ空のもと、温サラダ1、冷ダラダ1、ス-プ、メイン(牛肉焼き)2、ビ-ル(Sarbast)1、お茶(ジンジャ-入り)1,水(大)1,ウオッカ1ショット、デザ-ト、サ-ビス料込みで89,000SUM。ヴァイオリンの演奏があり、「モスクワの夜は更けて」、「ドクトル・ジバゴ」、シャンソンの曲…と西欧の曲が多かった。 21:40まで堪能した。帰りは、ラビハウズの周りを通ってもどる。 

 

8月10日(水) ブハラ→サマルカンド                             

 ミミさん、急に不調になる。昨夜は苦しかったと。昨日の朝、中庭での朝食で、肉類がなにかまずかったとのこと。 食あたりか?今日はサマルカンド行きで列車に乗るので身体が休まればよいが。しかし、車内は冷房がよくきかず快適ではなく、サマルカンドへ着く頃は、半ばフラフラになっていた。 
 7:10,ホテルをたちブハラ駅へ。駅は、昨日朝、日本人墓地のあった方へむかう。カザンという地区だ。この駅のことは何かで読んだことがあるが、今、思い出せない。

           【 ブハラ駅 】 
 いま、思い出した。1902年(明治35年)9月3日、第一次大谷探検隊は隊長・大谷光瑞以下一行がこの駅(ブハラカザン駅)を通過、同日夜サマルカンドに到着している。(そしてその後は、新疆・カシュガルに乗り込んだ。)『大谷紀行』p.74。  

 

8:02発のシャルク号。 
 9:23~27、NAVOIY駅停車。 10:15~17、KATTAQORGON駅停車。
 11:50、サマルカンド駅着。 みみさんの体調依然、優れず、心配。気温は、38度Cくらい。


 

【酷暑のサマルカンド駅頭】 

 新しい車がきていた。ドライバ-は、デイルショット氏。ガイドはずっとアリ氏である。
走行中、左側にサッカ-・スタジアムがみえた。テイナモ・スタジアム。ただ、サマルカンドのプロ・チ-ムは強くないとアリ氏が自嘲気味に言う。
 目抜き通りのウルグベグ通りに面した高級感のあるレストラン「ノ-ヴィ・アルバット」で昼食。

       【 レストラン ノ-ヴイ・アルバット 】 


 飲んだビ-ルはPulsar(プルサ-ル)、サマルカンドのブランドだが、チェコのビ-ル会社との合弁だそうだ。昨夜のビ-ルSalbast(サルバスト)はタシケントのブランドで、他にも(キブライト)もタシケントのブランドであるとのアリ氏のガイドである。

 ここのエアコンは少々効きすぎで、みみさんの身体によくないのではと感じた。そうでなくても大事を考え、今日のサマルカンド観光はキャンセルし、ホテルで休養することに決めた。 
 「ホテルASIA」はレギスタン広場の後方にあった。KUSH HAUZ, 50番地。4ツ星ホテル、中庭にプ-ルありで期待して来たところ、子ども・幼児用の直径5~6mの円形プ-ルで、がっかり。
 みみさんが、ポカリをほしいというので売店に行くがない。エナジ-・ドリンクというのがあったので、それにするが、なんと36,000SUM(約¥1,200!)、そのかわり塩はただでくれた。この店員、そのご見かけなくなった。

 午後の休養は私にとっても、充分、休養になった。
 また、日本(アポロ)からの連絡で、H市の広告媒体2件、A社より押さえるよう注文があった。旅先のことで嬉しい思いだ。作日は、S駅の媒体に対しT社より申し込みがあった。
 みみさんは夕食もとらないことになったので、18:50、アリ氏とTAXIで夕食にでかける。
 19:00~20:40,レストラン「OASIS」。屋外のテ-ブルにする。メイン料理はZiz(牛肉串焼き)、羊は苦手なのでうれしい。蜂蜜の話になった。綿花の蜂蜜があり(?)、ヤントック(YANTOQ)という蜂蜜もあるそうだ。ヤントックなるものをGOOGLEの検索写真で見たが、棘のある植物で、砂漠でなく山の植物の蜜だとのこと。
 音楽が流れた。「MILLION ROZ」(百万本のバラ)だ。ALLA PUGACHOVA。このスペルはアリ氏がおしえてくれた。
 幸運を表すものの話になった。日本では茶ばしらだが、ウズベクでは、茶碗にさしたお茶の真ん中に泡が集まる時を言うのだと。日本の茶柱を知っているとは、またどうして?ときくと、アリ氏は日本に働きに行っていたことがあるのだ。浅草、箕輪、…の地名が出る。日本橋のさくらハウスに住んでいたと言う。
 帰りは歩くことにした。「OASIS」から左にでていくとすぐ、中央分離帯に街路樹のある片側2車線通り(ブリバ-ル通り)にぶつかり、左折し、テイム-ル像広場へ歩く。右手のこんもりした木々のなかにあるのは、国立サマルカンド大学経済学部で、アリ氏の出身校である。

         【 国立サマルカンド大学経済学部(昼間、撮影)】
 右手はサマルカンド市役所、コミッシア(警察?)と続く。テイム-ル像広場でライトアップされたテイム-ル像を見上げる

              【 夜のテイム-ル像 】
 右斜めのレギスタン通りをくだる。右に噴水の公園。その奥に明日行くグル・アミ-ルの丸屋根がある。行く手におおきな壁画(広告?)がある。明日、明るくなったらよく見たい。
 坂のうえにくると、道路左側にライトアップされたレギスタン広場があらわれ、道路右側に(つまりこちら側に)明るく照明された三階建てのス-パ-があったので、ポカリを求めて入るが、ない。アリ氏いわく「ウズベクにポカリは、ありません。」 しかたなく 水を買う。ス-パ-出たのが、21:55.レギスタン広場はライトアップされてきれいだ。

               【 夜のレギスタン広場 】
広場右手の建物のうしろをとうり、ホテルへ向かう。道のとちゅうで、おばさんがひまわりの種を売っていたので買う。
 22:10,ホテル着。みみさんは依然として、ベッドに伏せっていた。

 

                                                 8月11日〈木) サマルカンド滞在

 朝、みみさんが「回復した」と言う。よかった。
 9:30、ホテル発。今日は、アリ氏の自家用車で、運転もアリ氏である。午前中は、グリ・アミ-ルと、リギスタン広場。午後はウルクベク天文台と、アフラシャブ博物館である。なにせ、この地は、玄奘三蔵『大唐西域記』に「颯秣建国」、「康国」、と記述で書かれているというサマルカンド、まさにその地であるのだ。

 

       【 グリ・アミ-ル・テイム-ル廟 】

 グリ・アミ-ル。支配者(=テイム-ル)の墓、廟。
青石(ククタシ〉はじめきらびやかなタイルが使われている。風雲児テイム-ルが眠っている墓所である。1403~04年、テイム-ルが孫の墓として建築はじめるも、自身が1405年、中国遠征にのぼった直後、現在のカザフスタン、Utrorで死にいたり、かれは故郷に葬られるのを祈願していたが、図らずも、ここに収まることになった。 かれの墓石は中央の黒墓石。足元に孫で名君のウルクベクの墓石がある。 1941年、ソ連学術隊により発掘調査され、その結果、テイム-ルは片足が不自由だったこと、ウルクベクは斬首されたのであることが判明した。 1996年、テイム-ル生誕660年を記念し、この建物は修復され、金3kgがつかわれたとのことだ。


11:00~  サマルカンドの象徴、レギスタン広場に来た。(砂の広場)
チム-ルの時代、ここはバザ-ル(市場)で建物は無かった。
最初にたてられたのは、左の、ウルグベク・メドレセ。1420年。高さ32m。
二番目に建てられたのは、右の、シェルドル・メドレセ。1632年。シェルドル(=ライオンの絵がある)。
三番目にたてられたのが、中央の、テラカリ・メドレセ&モスク。1660年。
いずれも内部は今は土産物店で宗教施設ではない。現在、サマルカンドにメドレセはない。不思議なことだ。



 廻った順に記述を少し。

 まず、右のSherdor Madrasasi。 ファサ-ドにライオンの絵がある。イスラムの戒律に反する。(ブハラのナデイ-ル・デバンベキ・メドレ-セもそうだった。) 奥は民族楽器が陳列。係は、Mr.バブ-フ。楽器の説明と音色を奏でてくださる。いわばショ-ト・リサイタル。チャング(69弦)、デユタ-ル(2弦、桑の木)、タンブ-ル(4弦)、トウ-ル(9弦、桑の木、螺鈿、牛の心臓)、トウル-バ-ブ(5弦、鯉の皮)、ナイ(尺八、竹、笛)、アラブチャングル(唇で吹く)、  ドウイラ-(タンバリン、牛革、結婚式用) …。 CDも買う、$15. オ-ケストラを1枚、ソロを2枚、一枚はサ-ビスだった。Mr.バブ-フと記念写真を撮る。小泉元首相、ケリ-元米国国務長官、カリモフ大統領、メドベ-ジェフ元ロシア首相との記念写真も飾られていた。
 

     
  【 Mr.バブ-フ  楽器を演奏して下さる。ミニ・コンサ-ト。CDも買う。 】
 
 次は、正面中央のTilokori Medrasasi。元マドラサといっても、ウルグベクの時代はキャラバン・サライ。入るとすぐ中庭になる。中庭左側の建物(モスクあと)、この内部こそサマルカンド一きれいといわれ、金箔3kg使用。天井は平面だが凹ませて見させている(技術)。両脇に身体を清めた部屋あり。そこの右部屋で『SAMARUKANNDO』(英語版、25,000SUM)を買う。 外から見ると2階建て、しかし1階建ての建物である。
  最後に、正面左側にそびえるUlugbek Madrasasi 。両側に塔がある。右のは、傾いている。 中庭を囲む2階建てのフジュラ。

  ランチに向かう時、Silk Road旅行社のオペレ-タ-というロ-ラさんが、あらわれた。Mr.アリのガイドの仕方に苦情などありませんかというわけである。表情、たたずまいに知的であることを感じた。

       【 Ms.ロ-ラ、 Mr.アリ、 美穂子さん 】

 ランチはレギスタン広場正面の、昨夜のス-パ-の前を奥へ行った所だった。とり肉ス-プがでたので、みみさんはよかったのではないか?ビ-ルは、地元Pulsar。
 午後はまず、14:15~14:50,ウルグベク天文台。
 1428年建設。中世のイスラム圏には、バクダッド、ペルシア、などに天文観測の天文台が多くあった。この点でもヨ-ロッパを凌駕している。ここ、サマルカンドにあるのが、チム-ル帝国第3代アミ-ル、ミルゾ・ウルグベク(Mirzo Ulug Begh)の建てた天文台遺跡である。タシケント通りを登った丘にある。1908年、ロシアの科学者によって、発掘された。現在は、その当時の四分儀の地下部分がある。弧の長さは、約63mといわれ、そうすると、四分儀の直径は(   )m。地下部分が11mあるので、地上に30mの高さだったことになる。当時は四分儀であったが、現在は六分儀、八分儀が使われている。 

ウルグベクは、太陽の恒星1年間を、365日6時間10分8秒と計算し、これは今日精密に測ったのと誤差1分以内だという。(365日6時間9分9.6秒)。
 脇に立つ博物館で、この天文台の復元図、天文表(1018ケの星の軌跡の記録)等を見る。これらは彼の暗殺(1449年)後、イスタンブ-ルに逃れた彼の弟子たちによって、出版された。退出する時、売店でパンフレット($10)を買ったが、ロシア語版とまちがえたので、アリ氏に日本語版を買っていただきあとから送って頂いた(8月14発、日本に8月29日着。)
                                                  現在のサマルカンドの市街地は、古来からの市街地ではない。古来の町は、アフラシャブの丘にあったが、モンゴルの襲撃で徹底破壊、放棄された。そこはいまは荒涼たる荒れ地(その広さ200ha)だが、その中を貫くタシケント通りに面するアフラシャブ博物館(1970年)に立ち寄る。 

      【 アフラシャブの丘】 

    【アフラシャブ博物館   15:00~15:20】 

 破壊されるまえの町の模型があった。それによると、かっての都市には4つの門があり、道路は舗装され、鉛管の水道があり、丘の北西部に城塞(シタデル)に囲まれた宮殿があった。宮殿内にあったフレスコ画(ソグド人貴族や婚礼場面。中国人朝鮮人らが乗船している場面…)の展示がある。アレクサンダ-大王時代のコインや、ゾロアスタ-教の祭壇、偶像がいまも発掘されるとのことである。考古学者にとっては、垂涎の対象であろう。
  日射は猛烈で暑いので今日の観光はここまでだ。
  だが、少し手持ちのUSドルがすくなくなり、両替が必要となり、ASAKA・バンク・サマルカンド支店というところまで連れて行っていただく。ASAKAとは、フェルガナ州アンデジャン近くの町で、自動車工場(日本車0マツダ?)で有名とのこと。MASTER CARD で$200をキャッシングする。手数料は3%。VISAカ-ドの場合は5%だとか。銀行内の支店長室に入ったが、隔離された感じで、圧迫感があった。 余談だが、フェルガナ州 アンデジャンという町は、19世紀、かのスヴェン・ヘデインが初めて新疆に行ったとき、カスピ海の港町から乗った鉄道の終着駅だった街だ。そこから少し東へ行くと、ヘデインの忠実な従僕であったイスラム・(    )の出身地・オシュがある。 16:05にホテルへ戻った。

        【 銀行へ行く途中の壁面画 】
                                                 8月12日(金) サマルカンド → タシケント
                                                   8:40,ホテル「アジア」発。今日は午前中はサマルカンド滞在、昼ころタシケントに向かい、少し観光して、夕方タシケント空港から日本へ帰るコ-スである。
  8:55~ 9:30,シャ-ヒズインダ廟群。Shohi Zinda Ansambli。
  タシケント通りをあがり、シャ-ヒズインダ通りを右折、下り坂の左手にある。

  もともと、ゾロアスタ-墓地だったが、いまはイスラム廟。生ける王、の意味。廟は20もある。チム-ル一族の廟が一直線に並ぶ。1432年、ウルグベクが今の入り口をつくる。入るとすぐ、40段の階段をのぼる。登ったところの平地で、おじいさん・孫達から一緒に記念写真をせがまれ、収まる。


  そこは4つの廟が集まっているところで、アリ氏から、壁面のテラコッタ、マジョルカ、モザイク、の実物説明をうけるが、理解し切れず、残念。

    【 テラコッタ 】

 

      【 マジョルカ 】  

 

      【 モザイク 】

  左手ふたつめの廟が、シャ-ヒズインダで最も美しい廟だと説明された。突き当たりの廟でユ-タ-ン。ユ-タ-ン後、左手の、クサム・イブン・アッバ-ス廟に入る。モンゴル襲撃時、ここだけは破壊をのがれ、サマルカンド最古の建物とのこと。。通路は右折し、奥に青いタイル貼りの礼拝室にたどり着き、ミハラブがくつがれている。涼しい場所。巡礼の人たちが祈っている。
 坂を下り、出口(入り口)へ返った。地元の人、巡礼の人、観光客が絶え間なく訪れる。井上靖氏の旅行記の時(1960年台)はソ連時代だったためか、巡礼の人たちのことは書かれていない。(『シルクロ-ド紀行』岩波書店)

 

 タシケント通リへ戻り、車に乗る。途中、振り返った右後ろのアフラシャブの丘の上に見えたのは、あとで、「ハズラテイ・ヒズル・モスク」とわかる。アフラシャブの響きは、聞いているうちに、徐々に日本でいえば、飛鳥、奈良の響きを思わせた。 地名は伝説のソグドの王の名前とのこと。  

           【 ハズラデイ・ヒズル・モスク 】  

9:40~10:05 ビビハニム・モスク  Bibixonim Masjidi。  確かに巨大な門ではある。

  

  門を入ると、中庭正面に同じくらいのに巨大なモスクがそびえ、左右にも大きいモスクが屹立する。かってこれらを結ぶ回廊があったというが今はない。四隅の塔はもっと高かったとのこと。何か、大きすぎて、大雑把な印象しかうけない気がした。中庭に石造の書見台があって、はじめて引き締まりを感じた。それもそのはずと言うべきか、チム-ルは何かをあせり(?)1399~1404年、突貫工事で完成させる。イスラム世界最大だったというが、突貫だったためか、礼拝中、レンガの落下が続き、人々は寄り付かず次第に廃墟になったという。廃墟後はレギスタン広場のテラカリ・モスク(1660年建築)が集まりの中心となる。ビビハニムとは、チム-ルの愛妾の一人のこと。あまり、感動がなかった。大きいものをみすぎているためもある。
  隣のショブ・バザ-ルへ立ち寄る。「ナンは、サマルカンド」と以前きいた。そのナンが山積み。
  さて、サマルカンドの主な観光はここで終わり。
 
  ここで、オプションとして、300mほど、瀟洒なタシケント通りを、電気自動車の観光車に乗り、サマルカンド・ペ-パ-を買いにいく。この周辺で、すでに、(      )が走っている。途中左手にカリモフ大統領の出身という小学校があった。カリモフ大統領は、我々のこの旅行後の2016年9月2日、なんと独立記念日直後に生涯を閉じた。強権で批判も多かったようだが、ソ連からの独立後、国をよくまとめたとおもう。新興国の発展にある種の強権はつきものであろう。
  ちなみにウズベクでの学制は、小学校6年+中学校3年+高校2年だったが、独立後、高校のみ3年になったという。 瀟洒なタシケント通リを乗り合いの電気自動車にに乗って進む。 

      【 タシケント通りはこのあたりでは、瀟洒である。】 
  500mくらい行ったサマルカンド・ペ-パ-のアンテナ・ショップで、そのサマルカンド・ペ-パ-を買う。原料は桑の木であると。 
  10:50、サマルカンド駅へ向かう。 
  11:03、サマルカンド駅到着。 一昨日、ブハラからこの駅について降り立った時、美穂子さんは調子がわるかったものだが、いまは回復している。                              11:15発のはずである新幹線特急「シャルク〈Shark、=東、の意味)」がおくれていて、まだ到着していない。ク-ラ-のないホ-ム待合室で待つ。気温40度くらい。

        【 タシケント行のサマルカンド駅のプラットホ-ム 】

  列車がおくれて困っている日本人女性がいた。きけば、数年前、JICAでタシケントに日本語指導にきたことがあり、今日その時の教え子の結婚式によばれ、タシケントにいくところだが、ケイタイから遅延の連絡を入れたが通信状況がわるくつながらない、と困っていた。そこで私のル-タ-を提供すると、見事つながり、よろこばれた。 
 「新幹線」は、2011年、タシケント~サマルカンド間約300Kmが開通済み。1日2本、2時間6分でつなぐ。2016年つまり今年カハシまで延長されており、この9月1日、ブハラまで開通するとのこと。
 その「新幹線」がようやく到着し、13:15、出発した。2時間遅れである。新幹線と言っても、もともと広軌の鉄路に新型車体を乗せただけの感じである。車内の内装も居住性、高級感も特別無かった。 我々のコンパ-トメントは、6人掛け。我々3人と、日本人の若い女性1人、少し高齢の日本婦人1名、ウズベク人の女性日本語ガイド1名。彼らの旅行日程は1週間くらいだと言った。
  窓の外の景色は草原で単調。草原と言っても典型的な草原というわけではない。タシケントまじかになってシルダリヤ川(スイル川)をわたるのを見るのが、最大の楽しみだったが、思いのほか、川幅はひろくなく、シャッタ-を押したら渡りきってしまったという印象だ。

        【 シル川を渡る。右手がサマルカンド。】 
 
  シル川は、アム川と同じくアラル海にそそぐが、源流はアム川がパミ-ル高原に対し、シル川は天山山脈である。この両川にはさまれた流域が、マ-・アワ-・アンナフルと呼ばれ、ホラズム地方の別名でもある。(イランから見て「アム川の向こう」の意味のあり。)
  列車の停車中は、駅に進入直前から出発後までトイレ使用が禁止されるのは本当だった。つまり、特急といえども、トイレはタンク式でなく垂れ流しであるため、駅停車中は、使用禁止というわけである。 『世界最悪の鉄道旅行』にも書かれていたとうりである。タシケント到着前にトイレに行ったところ乗務員からせかされ、気分を害した。

  3時間09分かかって、16:24、タシケント駅到着。
 これまでのブハラ、サマルカンド駅より巨大で人混み数倍多い。ソ連時代の建築であろう、大きいが、無愛想、無表情の駅舎外観である。3時間もおくれたのでタシケントでの観光はないに等しいが、まず、日本人墓地に参る。ブハラではオプシヨンだったが、こちらではコ-スに入っている。

 16:50~17:05,日本人墓地。Yaponiam Mazoni。 市街の南西、ヤッカサライという通りのイスラム墓地の奥の一角に緑にかこまれている。57名が眠られている。ブハラと同じく各自大きな平石の墓石である。中央の記念碑は低かったが、「永遠の 平和と友好 不戦の誓い 1990年5月28日 「碑」建立実行委員会 日ソ親善協会福島県支部 」と刻まれている。そしてブハラと同じく、フルネ-ムでお名前と出身県名が彫られている。持参の日本酒を捧げた。世界人類の碑もあった。記念碑部分は、直射日光をしゃだんするビニ-ルの覆いが架けられて配慮が感じられた。きけば、この8月上旬、安倍首相夫人も訪れたとのことである。もっと長く留まりたかったが、時間がなかった。「資料館」にいく時間もなかった。残念である。

           【 タシケントの日本人墓地 】

17:25~17:35 ナヴォイ劇場  ALISHER NAVOIY NOM.   1947年完成。工事にはシベリア抑留された日本人労働者1500名が動員され、日本人を称えるレリ-フが劇場左側壁面にはめこまれている。

 

         【  ナヴォイ劇場壁面の、日本人を称えるレリ-フ 】
 

 今回の旅もこれで終わりだ。
 17:50~19:00 夕食のレストラン。何か急に食欲なくなる。水はすこし飲んだが、食べ物は口にとうらない。一連の行動が終わり、緊張がとけたのと、屋外広告物の気に入った写真が殆ど撮れていないことにがっかりし、落ち込んだ。
 団体旅行でなく、個人旅行であっといえ、やはり助手席にのって見たい物、撮りたいものをきちんと撮らないといけなかったのだ。また、撮りたい物や撮りたい場所では車を止めさせないとだめである。これを徹底しなかった悔みが落ち込みの原因である。いまや、あとはどうでもよく日本への帰途に着くだけだある。お世話になったアリ氏に、タシケント空港で別れの挨拶、感謝の挨拶をするのがやっとだった。
 21:20、タシケント空港離陸。
 機中、もっぱら寝る。ただし吐き気は無し、熱も無し。少し下痢1回。

 8月13日(土)
 07:35。仁川着。空港で「ウ-メン」を口にするがまずい。ベンチによこになり、少し眠る。
 仁川発、10:10、機内食もパスして食べず。
 12:30、成田着。残金、2000SUM。$0.-。 撮った写真は3678枚であった。