1998年~1999年 フランクフルト・ウィーン

1989年12月31日(木)~1999年1月9日(土)
 今回はウイ-ンに留学中の長女を訪問する目的で、但し日本からの直行便がSOLD OUTだったため、ドイツのフランクフルト・アム・マイン迄飛び、そこからレンタカ-で行くコ-スとなった。飛行機はH・I・Sに、レンタカ-は日本ハ-ツに、初日のホテルはCHOICE HOTELSに手配した。

目次
Ⅰ・旅行記
Ⅱ・屋外広告物視察


Ⅰ.旅行記

1日目 1998年12月31日(木)

 1時間遅れで、11:35,成田空港をANAで飛び立つ。
 約12時間飛んで、接近するフランクフルト空港の空は、薄暗い雨模様で、キリも少々、時間がたつにつれますます濃い黒グレ-の空になった。15:43(日本時間23:43)、着陸。
 通関手続きをおわり、レンタカ-はドイツ車のOPEL ASTRA 1600cc。
 17:00ころcheck outし、アウトバ-ン3号線に乗り入れる。目的地はフランクフルト東のOffenbach(オッフェンバッハ)Bismark Shtrasse63065の「HOTEL BISMARK HOF」。地図はMichelinの100万分の1の地図しか用意してなく案の定、アウトバ-ン661号線乗り換えに失敗し、急きょ一般道46号に降り北進する。が、全くの漆黒の闇で、街灯も商店の光もなく、不安になってUタ-ンする。
 今度はさっきおりたアウトバ-ン3号線をくぐったのもしらず、相当はしり、やっと町のあかりになったところでコンビニふうの店に飛び込み道をきくと、そこは、DREIEICHという町で戻りすぎていた。A(アウトバ-ン)661号の北行きの入り口(LANGEN)をおしえてもらえ、そこから入って、Offenbach-Taunusringでおりて、ようやくHotel Bismark Hofにたどり着くと、こんどは玄関ガラスドアに「12/24~1/2まで休業」「かわりに「 HOTEL OFFENBACHER HOF」(Ludwigstrasse33-37)に行け」という地図入りの張り紙があった。そこへついてようやく一息ついて、食事はすでに飛行機で満腹であったので、散歩に出かけると、空気は冷凍で、皮革美術館、ADAC(ドイツのJAF)、window-shopping、トイザラス、などがあった。暗闇の中のroute findingに疲れて23:00、ドタンと就寝した。ところが真夜中になると、新年を祝う耳をつんざく爆竹の破裂音の洪水となり、ここは中国ではないかとおもった。

2日目 1999年1月1日(金)
 
7:15,ビュフェで朝食。朝はまだくらく、9時頃ようやく日がでるのだとのこと。旅行中の女性から「日本に行ったことあります」とはなしかけられたが、ドイツ語で会話が続かなかった。つたない英語でやればよかったのに、と反省。きょうは、A3号線を東へ、ニュルンベルグからバイロイト、バンベルグへよりみちすることに決めた。
 8:54,出発。昨日からの累積走行距離メ-タは、48.5kmを指していた。A3号へはいるには、一般道46号を南下すればよく、地図をよく見ると、それは昨夜の一般道46号線のことであった。昨夜Uタ-ンした場所まで来て、くるまを止め、周りをよく見た。こんな所だったのかと思った。夜と昼では全く違う。

  A3-offenbachで、A3-eastに乗り入れる。やっと明るいところでアウトバ-ンを走った。最初のSA(サ-ビスエリア)で有料トイレを初体験し、ニュルンベルグの地図帳を買い、10:00出発。(66.0km)
 ドイツにも荒いドライバ-はいるもので、追い越し車線でまえの車を威嚇しまくる車がいておどろいた。(アメリカを横断したことがあるが1台もいなかった。かろうじて、NewYork・マンハッタン・9番街交差点で流通トラックのラテン系ドライバ-が威嚇的だったことくらい。)
 ところで、ニュルンベルグでA3からA9北行きに乗り換えに失敗し、A9南行きに行ってしまったが、次の出口でUタ-ンし、A9北行きをバイロイトへ向かった。ところが、A9-Bayreith(バイロイト)sud(南)でおりるべきところ、一つ手前で降りてしまったので、もどろうとして、流通会社の広場へはいってUタ-ンしたところ、なんと入り口にゲ-トがあったのか、ゲ-トが電動式的に閉まってしまった。私は一瞬、1993年、Washington D.Cで、Pentagonに誤って入ってしまったことが脳裏をかすめた。 幸いこのゲ-トはすぐあいて、事なきを得た。(どこかで見張りがいたのだろう。
 アウトバ-ンのSA(9号線、Wildraufe)できずいたこと。ゴミ箱(recycling)の種類。5ッある。
  Nur fur Altpapier
  Weissblech
  Weissglas
  Grunglass
  Baraunglas

 さて、バイロイトでの目的はワ-グナ-(と妻コジマ)の屋敷(Haus Wahnfried, ハオス・ヴァ-ンフリ-ト)をみにいくことである。国立教会?(Stadtkirche)に駐車して頼りげない地図をみながら行った。途中、さすがドイツであると思うような住宅、研究所(会社)をいくつも見た。こういうのが、バウハウスというのでは?と思う。
 これらの建物の奥まったところにワグナ-の屋敷があった。新年ゆえ、誰もおらず施錠されていた。裏手にワグナ-夫妻の墓地がある。石塔でなく、盛り土型である。リヒャルト・ワグナ-、1813ライプチヒ生まれ~1883ヴエニスで没。ここに彼は1874年以降住んでいた。彼のパトロン、フリ-ドニヒ二世の玄関前の胸像は見落とした。ワグナ-音楽祭は7月~8月である。
  バイロイトは、近世、ブランデンブルグ辺境泊の宮廷が置かれていたのも初めて知った。
  15:45、バイロイトを発つ(375.1km)。

 向かう先は、バンベルグである。バンベルグで泊まることにしている。
 85号線を北へたどり、アウトバ-ン70号線へはいり、西へ向かう。 周辺は(まだ行ったことは無いが)古城街道
の趣きだった。40分くらい走行し、15番出口(HALLSTDT)で降り、 16:50、バンベルグ中央駅で車を止める(走行距離443.2Km)。駅のINFOへ行ってホテルを予約できた。しんせつな係員だった。 Hotel Ibis(ホテル・アイビス、Theatergassen(劇場通リ) 10番地。)には容易にたどりつき、レストラン(Katzenbuckel、猫背亭)を紹介してもらう。もはや日は暮れ、しばれる空気の中、ホテルをみぎにでて、水量豊富な轟音を立てる橋を二つわたり、右手をたどると緩い下り坂の左手にあった。寒さから守るためレストラン入り口はビロ-ド風の厚手の重いカ-テンの中にあった。店内はぽかぽかでコ-トも上着も脱げる。また、食事は最高であった。豚の骨付きスネ肉のラオホ・ビ-ル(黒ビ-ル)煮込み。冷えた体は一気にあたたまり、満腹になると眠気が襲って、美穂子さんは居眠りする。寒気の中、絶妙の味であった。このりょうりは、Bier- Haxeというらし。われわれは、これにほれ込み、日本へ帰国後もこの味を思い出すために、諸レストランをめぐった。ザウワ-クラフトがこれに近い。
 20:30,ホテルに帰り、22:00,就寝する。


第3日目。 1999年1月2日(土)
  今日は午前中はバンベルグ散策~午後にニュルンベルグに行き、ニュルンベルグ次第でそこに泊まるか、行けるところまで(国境くらいまで)距離を稼ぐか、の方針にした。
 7:10~8:00、朝食。
 ホテルのすぐ左手にちいさな公園があり、1809~1812年までここバンベルグに住み、「牡猫ムルの人生観」を書いた作家E・T・A・ホフマン(1776~1822)の胸像があった。それにあやかり、昨夜のレストランは「猫背亭」としゃれたのだ。街なかに猫のシルエットを多くみた。史のシンボルとして活用している。
 NONNEN橋でレグニッツ川の水量と轟音に圧倒される。夕べもそうだった。まるでダムである。
 その川の左岸をたどり、対岸の「小ベニス地区」を眺める。この川はやがてマイン河となる。

 「小ベニス地区」が終わった橋のたもとで、黒のGRAND CHEROKEE (Jeep)が颯爽とかどをまがって橋のほうへ疾走していくのに遭遇した。私も秋に、この車を買って日本で乗っている。
 川沿いの道から1本、中のUntere Sandstrasseをたどり、しばらくして左へ鋭く折れ、急坂を昇ると、左手にセント・ミヒャエル教会である。その南が大聖堂(Dom)で、中に入る。Domの山を下り、レグニッツ川をわたる橋は建物のようである。事実、旧地庁舎であったとか。
 11:00,バンベルグのホテルを発つ。(445.0km)
 私にとって、バンベルグという都市名は思い出深い。高校時代に買ったド-ナツ盤「ペルシャの市場にて」、「カバレリア・ルステイカ-ナ」はたしかバンベルグ交響楽団だったとおもう。それ以来、バンベルグががどこにあるか確かめることなきも、覚えている。 現在、人口約7万人。第二次大戦の戦禍をまぬがれ、中世の建物がそのまま残り、ドイツでもまれだという。

 アウトバ-ン73号線を南へ。直射日光がまぶしい。
 NURNBERG/FURTHで降り、市内へ。
 12:10、ニュルンベルグ駅到着。511.5km。 
 12:45,ようやくパ-キングビルへ車を入れる。女性専用のパ-キングスペ-スがある。見る目的のものは決めてなかったので、ケ-ニッヒ通り→St.ロ-レンツ教会→中央広場へ行ってみる。途中、ドイツ・マルクが不足してきたので、City Bankのキャッシュデイスペンサ-でマルクをおろすも、エラ-、エラ-で手続きがアウトップしてしまう。 (ヨ-ロッパではカ-ドを裏返しにいれないと機能しない。これはwienで長女に指摘されてわかった。)お菓子を買う。ケバブを食べる。
 突き当りの山の上のカイザ-ブルグにのぼり、市街を見渡す。かってこの町でナチス党第1回党大会と、第二次大戦後の国際軍事裁判が開かれたのだ。
 「デユ-ラ-の家」に立ち寄る。ドイツ・ルネッサンス期の画家、アルブレヒト・デュ-ラ-(1471~1528)が1509年から亡くなる1528年まで住んだ。もともはハンガリ-生まれ。「野ウサギ」、「東方三博士の礼拝」、「四人の使徒」の絵画が記憶にある。
 駅への帰途、ケ-ニッヒ門をもっとよく見たかったが、割愛。 DB(ドイツ国鉄)ニュウルンベルグ駅へ行って、駅看板を眺める。そして 15:30,ニュルンベルグを発った。

 天気予報は、くずれる予想だった。
 アウトバ-ン3号線にのり、ウィ-ンを目指すが、国境までいけるだろうか。外気温はマイナス3.5度で路面凍結に注意だが、それより、霧がでてきたかとおもうと、どんどん濃い霧となり、見とうしがわるく、暗くなり、とうとう全く先が見えなく、車を路肩に寄せ、止める。路肩と言えども後続車に追突される危険もあり、心臓が高鳴ってくる。さいわい、「レ-ゲンスブルグ出口」の標識がでてきた。路側帯の白い線だけを頼りに、出口から一般道におりたが、更に牛乳瓶をひっくり返したような濃霧になった。今回の前コ-スで、一番きびしく、一番緊張した時間だった。
 とにかく、レ-ゲンスブルグ(Regensburg)の鉄道駅を目指す。なんとかたどり着き、駅のinfoで宿を交渉しようとしたが、infoの男性は我々以上に英語を解せず交渉断念。直接電話交渉にきりかえ、一軒目は、部屋にシャワ-はあるがバスタブがついていないとのことで(Zum FohlichenTurken)はやめ、バスタブはあるという「Hotel Munchener Hof」(Tandlergasse 9番地)にきめた。駅からド-ム広場にいき、その西側を南に曲がり、Neupfarr広場を西へよこぎり、北西の路地を入ると、右側2,3軒目であった。
 Bathroomはにごりのない真っ白なタイル貼りで、ドイツという国の完璧主義とでもいうものに圧倒された。レストランを紹介してもらって、体があたたまると、この濃霧のなか、よくぞここまで辿りついたものだと実感した。

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第4日目(1999年1月3日、日曜日)

 朝、戸外はうっすら雪。カチカチではないが、凍結。
 8:55,レ-ゲンスブルグ発。昨日降りたインタ-からアウトバ--ン3号線東行きにはいりなおし、きょうの目的地はウィ-ンである。
 9:45,パ-キングに入りガス給油。 (出発地より676.2km)
 11:26、ドイツ最後のガス給油。 808.0km。オ-ストリア共和国の地図とパンを買う。11:50,発。

 12:56頃、パッサウ(Passau)のイン川のオ-ストリアとの国境料金所に、パスポ-トの提示を求める係はいない。本来、係がいるべきブ-スはカラである。地元の車も通過して止まって、やおら確認に戻ってきて、それからおもむろに通過していく様子であった。Eu(ヨ-ロッパ連合)加盟国どうしの国境検問所は存在しないのである。

 オ-ストリアに入った。高速道路の名前は8号線、となる。ドイツとのちがいで、道路に凸凹や穴があいているのが目立つようになる。
 14:00,給油する。結果的に行程最後の給油。1016.3km地点。22.78リットル。240.3シリング。
 
 そしてウィ-ン市内に入ったと思われる。
 リンク(Rink)にはいる。オペラ座(Opa)のかどを中に(ケルントナ-通り)曲がる。ザイラ-通り9番地のPENSION NEUER MARKT 前の広場に到着。 ここが、真帆との待ち合わせ場所である。きょろきょろしていると、真帆がてを振ってあらわれた。
 この4階の部屋が、今後5泊する宿舎である。
 15:17,レンタカ-を返しに、15:17,HARTZのリンクの営業所(KAERNSTNER ,RINK17)へ行くも、15:00で閉鎖されていた。1035.7Km。ところで、「KEARNSTNER」と「KEARNSTNER,RINK」は違うのである。うっかり、前者のへ行かず、よかったのである。
 真帆は20:45,自宅へと発ち、我々も21:00,就寝した。

第5日目(1999年1月4日、月曜)
 今日は午前は真帆の自宅、午後はプラ-タ-の観覧車に行く。
 まず、7:30,昨日、果たせなかったレンタカ-の返却に行く。昨日、15:17に来たことを告げる。EXTRA MONEY(延長料金)無しで返せた。
 8:00,朝食。
 9:00,外出。真帆の自宅は、wIEN 17区のComeniusgasse 91712番地である。リンクの路面電車(RINK-KAI-
RINK)を反時計回りにショッテント-ア(Schottentor)まで行き、ナト-ア(Natur)43番に乗る。沿線左手方面にかってユダヤ人居住区があったとまほの説明。り、15分くらいの、Wattegasseで下車。右側2ブロックうしろへもどり、その路地を入って最初の左カドの建物の階上が自宅である。階下玄関のチャイムのありかがわかりにくかった。3人で近所のス-パ-へ買物に行く。品物はアメリカでのス-パ-でのように大きい。昼食はいえでパスタとなる。ROOM4に、新人が来たようだ。(FROMブルガリア)。以上で真帆のWIENでの拠点の確認を済ませ、14:30,お暇し、われわれは、プラ-タ-へ向かう。
 ナト-ア(Natur)43番のLangegasseでわれわれは下車し、5番へのりかえたが、まほはそのまま、ショッテント-アのwien大学へ我々とわかれた。われわれは5番で下車。そこがプラ-タ-である。目的は、映画「第三の男」の観覧車に乗ること。料金s50×2名=100シリング。曇天で、シュテファン寺院の塔が見えた。遊園地内をぶらぶらあるき、プラ-タ-通ㇼを歩いて帰る。とちゅう、wien市内地図と、サンタクロ-スの人形を買う。中央郵便局、シュテファン寺院経由で、17:50,ホテル帰着。
 18:45,真帆が大学帰りに寄った。日本から持参したvideoを見せる。


第6日目(1999年1月5日、火曜)
 8:00,ホテル発。ショッテント-アで真帆と合流。
 マイセンと並びたつアウガルテン陶磁器工房(PORZELLAN- MANUFAKTUR Augarten)に行くが、僕はあまり興味わかないので入らず、公園のベンチで読書していた。そばで東欧系の年配の男性がずっと何かを待っていた。AUGARTEN近くで巨大な水道塔のような建築物があり、何かナチス時代の遺産のように見えたが、やはりナチス時代の砲台アトとのことだ。なぜこわさないのか、頑丈すぎるとのこと。
 カ-ルスプラッツの地下通路で、例によって甘い、パンを立ち食いする。
 ケルントナ-通りで靴をかう。イタリア製だったとか。
 15:00~18:00,美術史美術館(Wien Kunsthistorishes Museum)
  絵画コレクション部門で見学した主な絵画
     アンドレア・マンテ-ニャ 「聖セバステイアン」1457頃
     ラファエロ  「草原の聖母」1505年
     フランチェスコ・ソリメ-ナ  「キリスト降架」1730
     Gido Cognocci グイド・カニャッチ(1601~1663) Selbsimord der Kleopatra「クレオパトラ自害」1659
     ピ-タ-・ブリュ-ゲル(父) 「バベルの塔」1563
          〃         「雪中の狩人」1565
          〃         「農民の婚礼」
     たっぷり見る。
 
 19:00、グラ-ジュ(牛肉+パプリカのシチュ-)を食べに行く。昨日歩いたシュテファン寺院の裏のほう、郵便局方向。ホカホカの赤ワインで体があたたまる。


第7日目(1999年1月6日、水曜)
 
今日、昼間は個人で単独行動する。
 9:20発。オパ前でSバ-ン(D)に乗り、ベルヴェデ-レ美術館(Belvedere)にまず行く。
  上宮(オ-ストリア・ギャラリ-) ~12:00、
  見学した主な絵画。
    ・CAMILLE  Corot (1796~1875)  Landscape with Trees(Evening) 1870
                     Landscape(Morning) 1870
    ・AUGUSTE RENOIR(1840~1919)  Badende mit blondem
    ・CLAUDE MONET (1840~1926)
    ・EDOUARD MANET (1832~1893) Pathway in Monet's Garden at Givery 1902
                      Lady in a Fur Wrap about1880
    ・GIOVANNI SEGANTINI (1858~1899) The( Evil Mothers) Die bosen Mittet 1894
    ・VINCENT VAN GOGH (1853~1918)  (The plain at Auvers) Die Eben von Auvers 1890
    ・GUSTAV KLIMT (Wien 1862~1918)  Sonja Knips 1898
                       Der Kuss 1907~08  「接吻」
                       Judith 1 1901  「ユ-デイト」
    ・Prince Eugene of Savoy (1663~1736)  Fritza Riedller 1906
                         Adele Bloch-Bauer Ⅰ  1907
                             〃      Ⅱ 1912
                         Der violette Hut  1909
                         Lady in white   around1917~18
                         Adam und Eva  1917~18
                         Die Braut    1918
    ・EGON SCHIELE (1890~1918)  TOD UND mADCHEN 1915  「死と乙女」
                     Die Familie 1918  「家族」
                      Enbrace 1917
                     Mother iwith two children 1915~17
    ・HANS PVRRNANN (1880~1966)  Festival Street 1905
 上宮には絵画の他に、版画(woodblock print)、エッチング(etching)、リトグラフ(lithograph)など大量の展示がある。 これらに見疲れて、下宮 (オ-ストリア・バロック・美術館~13:00)では、メモがとれなかった。
とにかく堪能した。
 
 Sバ-ン(D)でショッテント-アにもどり、つぎに、自然史美術館( Naturhistorisches Museum)。 
 ヨ-ロッパ鉄器文明のハルシュタット文明の考古学的事物は日本語解説が無く残念。正面2階ロビ-に明治天皇からフランツ・ヨ-ゼフ(2世)皇帝に送られた巨大なタカアシガニの標本が陳列されている。ここは日本人観光客がゼロであった。現地の子供連れの親子がたくさんおり、そのわけは、
      。
 16:00,ホテルに帰る。16:25,みんなとホテルを出て、16:45,今度はオペラ座(OPA)の天井座席に収まる。
 17:00~22:30,オペラ 「ニュルンベルグのマイスタ-ジンガ-」
 23:00~23:50,日本食レストラン「優月」。
 真帆、泊まる。


第8日目(1999年1月7日、木曜)
 まるまる一日ウィ-ンで過ごせるのは今日限りである。
 9:00,ホテル発。karlsplatzより、U-Bahnで、Schlosse Schonbrunn(シェ-ンブルン宮殿)へ。
 到着した時は、濃霧であった。庭園南河高台にあるグロリエッテ(Gloriette)に登り、10:30~11:00、カプチ-ノをのむ。見下ろすと、マリア・テレジア・イエロ-のいわれの建物である。ここは、歴史的にも重要な事実を刻んでいる。
  1. マリア・テレジアの末娘、のちのフランス王ルイ・16世の妃のマリ-・アントアネットは、嫁ぐ15才まで、ここに住んだ。
  2. ヴォルフガング・アマデウス・モッツアルト(1756ザルツブルグ~1791ウイ-ン)の初めての御前演奏(6才)もここ。
  3. ナポレオン・ボナパルトのWien占領(1805,1809年)字の宿舎がここ。
  4. 1815年、ナポレオン戦争処理の、「会議は踊る」の会場もここ。
  5. フランツ・ヨ-ゼフ皇帝の生誕の地、終焉の地。(1830~1916)
  6. 1961年、ケネデイ・フルシチョフ会談(米ソ、ホットラインにの設置)。

 シェ-ンブルンを辞去して、15:40,ショッテント-アで真帆と合流。そのあと15分間、自分一人でWien大学回廊をめぐる時間をもらう。Wien大学、1365年創立、神聖ロ-マ帝国な三大大学の一角(プラハ・カレル、ウィ-ン、ハイデルベルク)。ノ―ベル賞受賞者10名(うち経済学者フリ-ドリッヒ・ハイエク、Hayekも)。教鞭をとった出身者に、アントン・ブルックナ-(作曲�)、ジ-クムンド・フロイト(精神分析)、クリスチャン・ドップラ-(天文)、その他の出身者にカ-ル・カウツキ-(マルクス経済学)、グスタフ・マ-ラ*(作曲)、グレゴ-ル・ヨハン・メンデル(植物遺伝学)、ピオ三世(ロ-マ法王)、ヨゼフ・シュンペ-タ-(経済)、シュテファン・ツヴァイク(作家)、フレッド・ジンネマン(映画)、斉藤茂吉(歌人、精神分析)、など。

 ホイリゲに向かう。16:10、ショッテント-ア発S-Bann38番、16:40,グリンツイング着(Grinzing)。
 ホイリゲ(Heurige)とは、「今年の」の意味。今年できた新wine、それの居酒屋の意味。
17:15頃、ホイリゲ(Heuriger)の一つ ”Zum Martin Sopp” に入る。(~19:00頃まで)。ビュッフェ・スタイルで堪能した。これで、Wienの打ち上げである。
 19:30,グリンツイング発、ホテルに帰る。21:30ころ、真帆、自宅へ帰る。ぼくはすでに、in sleepだった。


第9日目(1999年1月8日、金曜)
 9:30,ホテルcheck out。taxiで空港へ。 9:50,空港着。
 14:00,Wien International Airport( FLUGHAFEN Wien Schwechat) take off。


第10日(日本時間 1999年1月9日 土曜)
 8:52,成田空港、Landing
 9:40,到着ロビ-、由布子が出迎えにきた。
 成田山、新勝寺、初詣で。
 14:30,帰宅。
 18:00(wIEN 10:00) 真帆に帰国を伝える。Room4の新人(fromブルガリア)が取り次いだと思われる。